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【何も忘れていなかった】
しおりを挟む身体の中で一番先に目覚めたのは私の耳だ。
この部屋で動く者が立てる小さな音に、目を閉じたまま意識を向ける。
開けられた窓の外の音、風に少しはためくレースのカーテンの音。
恐る恐る目を開ける。
見慣れたベッドの天蓋、クリーム色の布が見えた。
……見慣れた?
どういうこと!? 目覚めたらこれまでの記憶を失っているはずでしょう?
でも……デルフィーナ・クレメンティという自分の名前も、この部屋のことも、そしてどうして眠っていたのかさえ、ひとつも忘れていなかった。
長く眠っていたせいで腰や背中、身体全体が軋むように痛かった。
だけどそんなことを気にしている場合ではない、私はどうすればいいのか……。
三日の眠りの後に目覚めたら、これまで生きてきたすべての記憶が消えているはずなのに、何ひとつ失っていないなんて……。
私はどうすればいいの……。
王妃様はすべて覚えている私をどうするのだろうか。
ロルダン殿下は今どうしているの?
私は生まれて初めてパニック状態の中に放り込まれた。
***
「ごきげんよう、目覚めたようね。気分はどうかしら、フィーナ嬢?」
王妃様は私を『フィーナ嬢』と呼んだ。
フィーナ……これが私の新しい名前なのか。
ということは、王妃様は私が記憶をすべて失ったと思っているのかもしれない。
ならばここから先は、何も覚えていない演技をしなければならないということ。
私にそれができるだろうかと、不安に思う暇もない。
とにかく王妃様のおっしゃることに、その場その場で合わせて応えていかなければならない。
「……ここは、どこなのでしょうか……」
「覚えていないかしら、三日前の王宮前の広場で、乗合馬車の馬が急に暴走したの。
運悪く近くにいたあなたと男性が、その馬車に撥ねられてしまった。
ちょうど王家の馬車で通りかかった私が、フィーナと男性を王宮に連れて帰り医師に見せたのよ。どこかの医者をその場に呼ぶより早いと思って。
ああ、あなたをフィーナと呼んでいるのは、何か名前がないと不便だと思ってそう呼ばせてもらっているだけなの。
申し遅れました、私はマルジョレーヌ・ドロテ。この国の王妃だけれどあなたの記憶にあるかしら」
「……王妃様、ベッドの中からのご挨拶で申し訳ございません。質問をするのは失礼とは承知ですが、その男性は……助かったのでしょうか……」
「かまわないわ、そのまま横になっていて。その男性だけど……こちらは仮にロンと呼ぶことにするわ……少し前に意識を取り戻したものの、頭を強く打ってしまったようで記憶が無いようなの……」
私は混乱しながらも、ものすごい速さで今聞いた僅かな話を脳内で処理していく。
王妃様がお作りになった物語の、記憶を失ったロンという男性というのは、ロルダン殿下なのだろう。
まさか王妃様は最初から、私の記憶ではなくロルダン殿下のほうの記憶を消すおつもりだったの……?
「すみません……私も、よく思い出せず……」
「大丈夫よ。あの事故の場面に偶然私が居合わせたことはきっと神の思し召しでしょうから、あなたの記憶が戻るまで世話をするわ。あれから事故のあった辺りであなたのことを知る者がいないか、人を出して調べているの。何か思い出すまで、私の縁のある領地でゆっくり暮らしたらいいわ。
あなたは何も心配することはないのよ、フィーナ」
「……はい、すべては王妃様の仰せのままに」
「ではフィーナ、しばらくゆっくり休んでね。食事もこちらに運ばせるわ。何か思いだしたらいつでも私を呼ぶように伝えて」
王妃様の背中を見送ると、ずるずるとベッドの中に沈み込む。
頭の中で素早く出来事を整理しようとしても、頭の真ん中に白い靄があるようにぼんやりしている。
私を王妃様の領地に送るとして、クレメンティ家には事前に王妃様が父も納得する物語を作っているに違いないから、そこは心配いらないのだろう。
その時の私は知らなかった。
既に王妃様がクレメンティ公爵家をほとんど終わらせていたことを。
***
目が覚めてから二日が過ぎた。
身体のほうはすっかり元に戻っており、できれば庭を歩いたりしたいところだ。
遅めの朝食を済ませ、侍女が身だしなみを整えてくれる。
三日の眠りにつく前に、腰まであった長い髪を肩より少し長いくらいにバッサリと切っていた。
新しい身分は、少なくとも高位貴族ではないだろうと思っていた。
顏が変わるわけではないので、デルフィーナ・クレメンティを知っている者の前には出られないはずだった。
平民、あるいは爵位の低い貴族で王都から離れたどこかの領地へ。
それならば社交の場に出ることもそうないだろうし、侍女など付かない生活ならば髪は短いほうがいい。
その短くなった髪をハーフアップにして、小さな髪飾りを付けてもらった。
髪型だけで自分ではないように見える。
いつの間にかクローゼットからドレスが消え、気軽なワンピースや丈が短めのデイドレスに変わっていた。もっともそれほどドレスがあったわけでもない。
そのうちの一つのワンピースを選んで着替えると、まるで誂えたようにぴったりだった。
支度が終わった頃に王妃様が部屋を訪れてくださった。
「ずいぶん顔色が良くなったわね、フィーナ。これから話すことは大切なことだから、しっかり聞いてちょうだいね」
「はい、王妃様」
王妃様のお話は、私フィーナの身元について調べたけれど分からなかったという。
それは当然だ、そもそも『事故で記憶を失ったどこかの令嬢』が元々存在しないのだから。
調査は続けるが、ひとまず私を王妃様のご実家のアドルナート公爵家の領地に送ることにしたと。
アドルナート公爵家が所有するチェスティ州のチェスティ・ハウスに私は移り住むことになるという。
そこは王妃様の伯父が管理をしていたが、不幸なことに病の療養中に嫡男を事故で亡くして養子を探している間に伯父も亡くなってしまい、王妃様預かりとなっていたそうだ。
ただ、記憶を亡くし、まだ若い女性である私一人に任せるという訳にはいかないので、新たにチェスティ・ハウスを管理することになる者と私を添わせたいという。
チェスティ・ハウスは、王妃様が私の母を秘密裡に埋葬してくださった墓地のある場所だ。
やはり王妃様は、私のことを母の傍に置いてくださるようで胸が熱くなった。
もしも希望を口にしても良いのなら、デルフィーナとしての人生を捨てた後は、たとえ何も覚えていなくても母の墓の近くで静かに穏やかに暮らしたいと思っていた。
チェスティ・ハウスの新たな管理人と結婚することを受け入れれば、その希望は最高の形で叶いそうだ。
物心がついてから、クレメンティ公爵家の長子として生まれた以上、結婚相手を自分で選べると思ったことはない。
確かにそうなのだが、『王妃の秘薬』を飲んで人生を捨ててもやはり誰かの意思で結婚することになるのだと、そこは少し残念に思ってしまった。
だが、私の返事は最初から決まっている。
「すべて王妃様の仰せのままにいたします。ありがとうございます」
私がそう言うと、王妃様の顏がパッと輝いた。
「そう言ってくれて安心したわ。今ね、応接間にチェスティ・ハウスを管理することになった者を待たせているの。私と一緒に来てちょうだい、二人を会わせるわ」
部屋を出て初めて、眠りにつく前に与えられていた部屋ではなかったことに気づいた。
広さや調度品が同じ感じだったのでまったく気がつかなかった。
そんな驚きを隠しながら王妃様についていく。
結婚相手となるチェスティ・ハウスの新たな管理人が、どれだけ年上のおじ様でも驚いた顔をしてはならないと、自分に言い聞かせながら。
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