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Chap.5 The Bubble-Like Honeymoon
Chap.5 Sec.18
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嘘をつくのが下手なセトにとって、偽りの言葉を発するのは細心の注意がいる。
帰宅してからも、入浴や寝室などで延々と距離を取り続けるウサギに根負けしたセトは、最終手段で嘘をついた。
「——分かった。治療はしなくていい」
「……ほんとう?」
「ああ。だからベッドで寝てくれ。そんな所にいるなよ……」
「………………」
「ほら、こっち戻って来い」
警戒する動物を呼び寄せる気持ちで、セトは部屋の隅にいるウサギを手招きした。
ベッドに座るセトの許へ、そろそろと近づいてくる姿は本当に小動物のようで、泣いたあとの赤みの差した眼がひどく痛々しい。
セトからすれば、無理やり捕まえて鎮静薬を打ち込むことは可能だが、実行に移す気力を削がれていた。
とはいえ、治療について諦めたわけでは、当然ない。
(眠ってしまえば、どうとでも——)
「……よかった。〈ちりょう〉を、しなくてすむなら……あんしん」
安堵の表情でベッドへと乗った彼女に、セトの目は険しさを帯びる。言葉だけでなく、表情まで繕わなければならないというのに、うまくやれていない。
しかし、幸い彼女は、セトの言葉を素直に信じる状態にある。疑いはなかった。
「セト、」
「……なんだ」
「きょう、とてもたのしかった。〈おしごと〉の〈じゃま〉をしないよう、きをつけるから……〈じかん〉ができたら、また、〈でーと〉しようね?」
「………………」
微笑む彼女は、首を傾けてセトの顔をのぞきこむ。近しい距離で。以前では決して見られなかった、優しい笑顔で。
キスを求めるように自然と寄せられた彼女の顔を、そのまま——受け入れて、眠らせてしまえば——
解決する。
答えは出ているのに、セトは反射的に彼女の肩を押しとどめていた。
「……?」
「——駄目だ」
きょとりとした彼女の目に、
「こんなの——駄目だ」
直視できずにいた黒い双眸を、セトは正しく見返した。
「お前の意思を無視して、こういうことはやれねぇ」
「? ……わたしは、セトがすき」
「違う。お前は、そう思い込むよう洗脳されてるだけだ。よく考えてみろ。俺と離れると、異常なくらい不安になるだろ? 普通じゃねぇだろ?」
「……わからない……」
「深く考えられないのも脳がまともに機能してねぇからだ」
「……でも、わたしは、〈いま〉がとても〈しあわせ〉」
小さな主張が、セトの胸を重く貫く。
セトは息を呑んで言葉を失っていたが、うめくように声をこぼした。
「これは……幸せって呼んでいいものじゃねぇよ」
「………………」
「……俺は、もう二度と、お前の気持ちを無視したくねぇ。……言葉も聞き逃したくねぇし、できるなら、思ってること全部理解してぇ。……お前が幸せに笑ってくれるなら、なんだってしてぇけど……これは、違う」
彼女の肩に置かれたセトの手は、ぐっと力が入っていたが、押さえ込むためだけではない。
気持ちを伝えるように、優しく力をこめて、
「お前が俺に笑ってくれるのは、正直 嬉しかった。……でも、こんなのは、違うよな……?」
同意を望んで静かに掛けられた声が、彼女の瞳を見るみるうちに潤ませていった。
「……泣くなよ。お前の為を思って言ってるんだ」
「…………どうして」
尋ねる彼女の瞳は、非難の色を映している。
「わたしのためじゃない。わたしは……いまが、〈しあわせ〉なのに……」
「それは思い込みだ。元に戻れば分かる」
「……セトは、やっぱり、わたしが〈きらい〉なの?」
「やっぱり……?」
「ほんとうは〈きらい〉だから、わたしを〈もと〉にもどしたいの」
「何言って——」
「ずっとまえにも。セトは、わたしが〈すき〉じゃないって……いってた。すきじゃない。そういってた。いわれた。おぼえてる。セトに、いわれた」
ふいに、黒い瞳が激しい感情をひらめかせた。
記憶から溢れるものが、抑えきれなくなったかのように——。
「まて、落ち着け。なんの話だ」
「“すきじゃない”って、いってた。さいしょに、いってた——はおろん……ハオロン、〈みつあみ〉のひと。ハオロンに、いってた。〈わいん〉と、〈かーど〉……みんなで、いて……」
ハオロン、ワイン、カード。
並んだワードに、セトの脳裏で記憶が繋がった。
——好きじゃない。
それらしきことを、言ったかも知れない。
(けど、あれは……)
言い訳は、言葉にできなかった。
彼女の前でわざわざ口にした理由を、セトは自分でも分かっていない。
言い訳は浮かばなかったが、目前で決壊した涙に、急いで口を開き、
「悪かった。けど、あれは違う。本気じゃねぇ」
「——ちがわない。セトは、〈すき〉じゃないって、いってた。こわい〈め〉で、いってた。セトは、ほんとうは、わたしなんか〈すき〉じゃないからっ……だから、セトを〈すき〉なわたしを、けしたいの」
「——そんなわけねぇだろ!」
セトの怒号に、びくりと彼女の肩が跳ね上がった。
彼女が震える姿は久方ぶりで、セトも思わずハッとし……
「……そんなわけあるか」
吐きこぼすように、声を抑えて、唱えた。
思考力の低下した彼女の脳は、セトが怒ったと感じ取って、いっそう涙をあふれさせていく。
肩を押さえるセトの力が弱まった隙に、彼女はセトの胸に抱きついて、
「セトがすき。だいすき。ほんとうに〈すき〉なの」
つたない発音で訴えるが、それをセトが真に受けることは、もうない。
ただ、
「違う。本当は、俺のほうがお前のこと——」
セトの返した囁きが、最後まで真実を紡ぐことはなかった。
セトは、泣き続ける身体に腕だけ回して、それ以上は何もせず。
しきりにこぼれてくる愛の言葉には、
「分かったから。嗚咽で苦しくなってるだろ。もう黙っとけ」
「……すき。……そばに、いたい」
抱いていた腕をずらして、彼女の頭を掌で包み込む。
「そばにいるだろ。これからもずっと。それは約束する」
「……ほんと、に……?」
「ああ。お前が望んでくれるなら、いくらでもいるから……安心しろ」
「………………」
「嘘じゃねぇよ。俺は嘘が下手だから、分かるだろ?」
「……はい」
ふっと笑う音が、セトの唇から響いた。
「……セト、」
「ん?」
「……すき。セトが、だいすき」
蜂蜜色の眼が、わずかに揺れる。
それは惑うような色をしていたが、頑なに閉じられた。
ぎゅっ——と、回された手にこもった力は、行き場をなくして、緩やかに弱まっていく。
その腕は、優しく護るように抱きしめていた。
腕のなかの彼女が、泣き疲れて、眠ってしまうまで。
帰宅してからも、入浴や寝室などで延々と距離を取り続けるウサギに根負けしたセトは、最終手段で嘘をついた。
「——分かった。治療はしなくていい」
「……ほんとう?」
「ああ。だからベッドで寝てくれ。そんな所にいるなよ……」
「………………」
「ほら、こっち戻って来い」
警戒する動物を呼び寄せる気持ちで、セトは部屋の隅にいるウサギを手招きした。
ベッドに座るセトの許へ、そろそろと近づいてくる姿は本当に小動物のようで、泣いたあとの赤みの差した眼がひどく痛々しい。
セトからすれば、無理やり捕まえて鎮静薬を打ち込むことは可能だが、実行に移す気力を削がれていた。
とはいえ、治療について諦めたわけでは、当然ない。
(眠ってしまえば、どうとでも——)
「……よかった。〈ちりょう〉を、しなくてすむなら……あんしん」
安堵の表情でベッドへと乗った彼女に、セトの目は険しさを帯びる。言葉だけでなく、表情まで繕わなければならないというのに、うまくやれていない。
しかし、幸い彼女は、セトの言葉を素直に信じる状態にある。疑いはなかった。
「セト、」
「……なんだ」
「きょう、とてもたのしかった。〈おしごと〉の〈じゃま〉をしないよう、きをつけるから……〈じかん〉ができたら、また、〈でーと〉しようね?」
「………………」
微笑む彼女は、首を傾けてセトの顔をのぞきこむ。近しい距離で。以前では決して見られなかった、優しい笑顔で。
キスを求めるように自然と寄せられた彼女の顔を、そのまま——受け入れて、眠らせてしまえば——
解決する。
答えは出ているのに、セトは反射的に彼女の肩を押しとどめていた。
「……?」
「——駄目だ」
きょとりとした彼女の目に、
「こんなの——駄目だ」
直視できずにいた黒い双眸を、セトは正しく見返した。
「お前の意思を無視して、こういうことはやれねぇ」
「? ……わたしは、セトがすき」
「違う。お前は、そう思い込むよう洗脳されてるだけだ。よく考えてみろ。俺と離れると、異常なくらい不安になるだろ? 普通じゃねぇだろ?」
「……わからない……」
「深く考えられないのも脳がまともに機能してねぇからだ」
「……でも、わたしは、〈いま〉がとても〈しあわせ〉」
小さな主張が、セトの胸を重く貫く。
セトは息を呑んで言葉を失っていたが、うめくように声をこぼした。
「これは……幸せって呼んでいいものじゃねぇよ」
「………………」
「……俺は、もう二度と、お前の気持ちを無視したくねぇ。……言葉も聞き逃したくねぇし、できるなら、思ってること全部理解してぇ。……お前が幸せに笑ってくれるなら、なんだってしてぇけど……これは、違う」
彼女の肩に置かれたセトの手は、ぐっと力が入っていたが、押さえ込むためだけではない。
気持ちを伝えるように、優しく力をこめて、
「お前が俺に笑ってくれるのは、正直 嬉しかった。……でも、こんなのは、違うよな……?」
同意を望んで静かに掛けられた声が、彼女の瞳を見るみるうちに潤ませていった。
「……泣くなよ。お前の為を思って言ってるんだ」
「…………どうして」
尋ねる彼女の瞳は、非難の色を映している。
「わたしのためじゃない。わたしは……いまが、〈しあわせ〉なのに……」
「それは思い込みだ。元に戻れば分かる」
「……セトは、やっぱり、わたしが〈きらい〉なの?」
「やっぱり……?」
「ほんとうは〈きらい〉だから、わたしを〈もと〉にもどしたいの」
「何言って——」
「ずっとまえにも。セトは、わたしが〈すき〉じゃないって……いってた。すきじゃない。そういってた。いわれた。おぼえてる。セトに、いわれた」
ふいに、黒い瞳が激しい感情をひらめかせた。
記憶から溢れるものが、抑えきれなくなったかのように——。
「まて、落ち着け。なんの話だ」
「“すきじゃない”って、いってた。さいしょに、いってた——はおろん……ハオロン、〈みつあみ〉のひと。ハオロンに、いってた。〈わいん〉と、〈かーど〉……みんなで、いて……」
ハオロン、ワイン、カード。
並んだワードに、セトの脳裏で記憶が繋がった。
——好きじゃない。
それらしきことを、言ったかも知れない。
(けど、あれは……)
言い訳は、言葉にできなかった。
彼女の前でわざわざ口にした理由を、セトは自分でも分かっていない。
言い訳は浮かばなかったが、目前で決壊した涙に、急いで口を開き、
「悪かった。けど、あれは違う。本気じゃねぇ」
「——ちがわない。セトは、〈すき〉じゃないって、いってた。こわい〈め〉で、いってた。セトは、ほんとうは、わたしなんか〈すき〉じゃないからっ……だから、セトを〈すき〉なわたしを、けしたいの」
「——そんなわけねぇだろ!」
セトの怒号に、びくりと彼女の肩が跳ね上がった。
彼女が震える姿は久方ぶりで、セトも思わずハッとし……
「……そんなわけあるか」
吐きこぼすように、声を抑えて、唱えた。
思考力の低下した彼女の脳は、セトが怒ったと感じ取って、いっそう涙をあふれさせていく。
肩を押さえるセトの力が弱まった隙に、彼女はセトの胸に抱きついて、
「セトがすき。だいすき。ほんとうに〈すき〉なの」
つたない発音で訴えるが、それをセトが真に受けることは、もうない。
ただ、
「違う。本当は、俺のほうがお前のこと——」
セトの返した囁きが、最後まで真実を紡ぐことはなかった。
セトは、泣き続ける身体に腕だけ回して、それ以上は何もせず。
しきりにこぼれてくる愛の言葉には、
「分かったから。嗚咽で苦しくなってるだろ。もう黙っとけ」
「……すき。……そばに、いたい」
抱いていた腕をずらして、彼女の頭を掌で包み込む。
「そばにいるだろ。これからもずっと。それは約束する」
「……ほんと、に……?」
「ああ。お前が望んでくれるなら、いくらでもいるから……安心しろ」
「………………」
「嘘じゃねぇよ。俺は嘘が下手だから、分かるだろ?」
「……はい」
ふっと笑う音が、セトの唇から響いた。
「……セト、」
「ん?」
「……すき。セトが、だいすき」
蜂蜜色の眼が、わずかに揺れる。
それは惑うような色をしていたが、頑なに閉じられた。
ぎゅっ——と、回された手にこもった力は、行き場をなくして、緩やかに弱まっていく。
その腕は、優しく護るように抱きしめていた。
腕のなかの彼女が、泣き疲れて、眠ってしまうまで。
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