【完結】美容講座は呑みながら

藤香いつき

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出会いは失恋の夜に

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 驚かないでね。
 そう前置きした声は、震えていた気がする。
 
 
 
 いったん帰宅して荷物を置き、ついでに何か手土産になるものはないかと冷蔵庫やら棚やらを漁ってみた。
 ……ふむ、クラッカーでいいだろうか。いや、いいわけない。
 オシャレな物が何もない。
 
 しかし、一時帰宅した以上、手ぶらもどうかと思うので、精一杯のつまみとして冷蔵庫にあったチーズを持っていくことにした。スーパーで買ったカマンベールチーズだけど。おまけでやっぱりクラッカーも持っていこう。ワインがあると言っていたので、このセットなら無難に美味しいから許されるはず。
 
 景品でもらった保冷バッグに詰めて、家を出る。
 到着まで5秒。隣ってこんなに近いのか。

 こんな突発の呑み会なんて初めてだ。初対面でないとはいえ、気持ち的に初対面。
 ——違う。彼女の顔をちゃんと見るのは初めてだから、やはり初対面だ。
 
 ドキドキする胸を押さえてインターフォンのボタンを押した。
 
 チャイムが鳴って、しばらく。カチャリとロックが外れる音。
 開かれると思ったドアは——ほんの少しの隙間で、ためらうように止まった。
 
「……顔を見せても、驚かないでね?」

 先に掛けられた声に、疑問をいだくまもなく開かれる。ぱっと目が合った顔が——
 
 綺麗だと、思った。
 真っ白な陶器のような肌に、白に近いプラチナブロンドの長髪。重なった瞳を囲む虹彩こうさいは薄い紫のような、ブルーグレーのような、優しい色をしていた。
 
 綺麗だと——そう思ったけれど、それすらも口にしてはいけないくらい、彼女は不安そうな表情で、
 ……は不安そうな表情で?
 ……彼女?
 
「——いや、まって。もしかして……女性じゃない? の、でしょうか?」

 びっくりして敬語が吹っ飛んだが、すぐに戻ってきた。ぱちっと目をまたたかせた彼女——じゃないかもしれないお隣さん——が、
 
「え、そっち? 外見じゃなくて性別に驚いてるの?」
 
 気の抜けた顔で首をかしげている。
 もしかすると、私はとんでもなく失礼な発言をしたかも知れないのだが、怒っている感じではない。
 
 よく聞けば、声も少し低めで男性だ。いつも布で覆われているから、声がこもって分からなかった。

 硬直していると、は困ったように眉を寄せて、
 
「もしかして、女性じゃないとダメ? 一緒に呑むのは無し?」
「いや、まぁ……心が女性であるならば? 私も晩酌するにやぶさかでは……」
「うん? ヤブサカってなぁに?」
「喜んで呑みましょう? 的な?」
「え! いいの? やった」
 
 ぱっと花が咲くみたいに笑って、ドアを全開した。うっかり「あ、どうも」玄関に足を踏み込んでから、
 
(……いや、いいのか? ダメじゃないか? これはセーフ? アウトでは?)
 
 貞操観念を改める。失恋した直後にやらかすエピソードなんてごまんとある。
 
「スリッパ、こんなのでごめんね?」
 
 靴を脱いだところにあったのは、ペラペラの使い捨てスリッパ。とくに気にしないので「いえ、お構いなく」反射で返しながら帰るべきかどうかを脳内議論していた。
 
 短い廊下は、我が家と作りがほぼ同じ。
 進んでドアを開けると、リビング兼ダイニング兼キッチンの広い部屋。うちより一回り広い。
 
「いきなりだったから、ありものを切って並べただけなんだけど……」

 申し訳なさそうな声は、まったく耳に届かなかった。
 
(いや、モデルルームか!)
 
 胸中でひとり突っこみ、オシャレな室内に震える。同じマンションだとは思えない。こちらも元々は親戚が残していったシンプルな家電と家具でスッキリしているほうだが……
 
「部屋……オシャレですね」
「え? そうかな? ありがとう?」
 
 なんだろう……インテリアの置き方?
 観葉植物とか壁に飾られた絵とかミラーとか、あと透明の花瓶に活けられたワントーンの花束とか?
 生活感の無さとか?
 
 とにかく見回すかぎりオシャレ。語彙力を失うくらい、ただただオシャレ。
 ダイニングテーブルの上に用意されたつまみもオシャレに見える。
 そこでハッと気づいた。
 
「これ、ささやかですが……よかったら」

 おずおずと差し出したチーズとクラッカーセット。
 
「手土産まで持ってきてくれたんだ? ありがと、用意するね」
 
 彼(彼女?)はニコニコとした顔でキッチンに行くと、チーズをスライスして開いたクラッカーと共にお皿へと載せた。
 
(えー……そのまま出す気でいた私ごめんなさい)
 
 箱のまま出して食べるつもりだった己を恥じる。
 
(だって食器洗う水道代が。食洗機あるけど電気代が)
 
 言い訳が頭に浮かぶが黙っておいた。
 
「席、そちらにどうぞ?」
「あ、どうも」

 テーブルに着く。ブラインドは開かれていてバルコニーの手すり上に空が見える。
 航空法の関係で、視界にはここ以上に高い建物がない。このマンションの立地手前までは低い建物しかない。
 座ってしまうと空だけの世界になるのは我が家と同じだった。

「……あのね、さっきの話の続きなんだけど……」
 
 彼がお皿と冷えたワインを持ってくる。グラスはすでにテーブル上にあった。
 ワインのボトルを手に、彼が開栓をしながら、
 
「心は女性——じゃなくて、男性だから、誤解ないようにね?」
「——え?」
 
 ポンっと軽快な音が鳴る。
 外れたコルクを手に、彼は笑った。すこし意地悪い顔で。
 その顔に、遅れながらも気づいて、
 
「——いま言う!?」
「ふふ、ごめんね?」
 
 彼は肩をすくめながらも、グラスにワインをそそいでいく。シュワシュワとした音。黄金のスパークリングワイン。
 私の前にグラスを置くと、向かい合うようにして彼も席に着いた。
 
 困る私の顔に、彼はすこし眉尻を下げ、
 
「……でも、下心はないんだ。ほんとうに」
「………………」
「知らないひとの暴言に、かっこよく返してたから……『いいな』って。一緒に呑んでみたいなって、思ったんだ」

 ふっと柔らかく笑ってみせる。下がった眉のせいで、困ったような笑顔。

 今さら帰りますなんて言い出しにくい。そもそも言い出す気もなく——
 
「……私も、思いました」
「過去形?」
「……思います」
「だったら——かんぱい?」
 
 グラスを取っていた手が、目の前に掲げられた。
 同じようにグラスを取ったが、
 
「——いえ、掛け声はハッピーバースデーにしましょう。私、誕生日なんで」
 
 丸くなった彼の目は、照明を受けてキラキラとしていた。窓の外の星空よりも、はるかに美しくきらめいていた。
 
「じゃ、ハッピーバースデー……あ、まってまって、名前は?」
「安井れい子です、どうぞよろしく」
「レイコちゃん? レイちゃんでいい?」
「なんでもどうぞ。……お名前は?」
「僕のことは、ティアって呼んで」
「ティアくん?」
「うん」
「よろしく、ティアくん」
「よろしく、レイちゃん」
 
 掲げたグラスのなか、たちのぼる泡が細やかに弾けている。
 私は、その夜に初めてと出会った。
 失恋を忘れようと飛び込んだ世界は、未知の輝きで満ちていて。
 むなしさも、やるせなさも、イライラも——そのまぶしさに、全部かき消されていた。
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