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出会いは失恋の夜に
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始業前に珈琲マシンをセットする。
誰かの仕事と決まっているわけではなく、朝早く来た者が適宜おこなう。
しかし、安井レイコがセットする機会は非常に多い。
女性だからというわけでなく、レイコは自分が飲みたいがために朝一で用意しているので文句はない。
ただ、その用意の途中でたいてい彼女——みのりがやってくるため、二人で用意したと周囲には思われている。なんだったらみのりが用意したと思っている者もいて、その理由はみのりが「コーヒー入りましたよ」と明るい声で周囲に告げているからだった。
いつもの時間。
みのりは珈琲マシンや冷蔵庫が並ぶ給湯室に足を入れると、先にいたレイコに、
「先輩、本当にごめんなさい……。私、なんて言ったら……」
謝罪をかけようとして、(あれ?)と違和感に首を傾けていた。
スッとした横顔。
まっすぐ伸びた姿勢に、まぶしく輝くような白のブラウス。
身に覚えのない迫力に(いつものレイコは3着くらいを着回しているので)、気圧されたのか言葉を切っていた。
振り返ったレイコが、みのりを目で捉える。
「——あぁ、おはよう」
「お、おはようございます……」
緊張しているのは、みのりにも伝わった。伝わったが……なにか、思っていた緊張とは違うような。
いや、それよりも。
「……あれ? 先輩、きょう……メイクしてます?」
「いや? いつもしてるよ」
「え……でも、今日はすごく……」
「ぐっすり眠ったから、肌の調子がいいのかも」
戸惑うみのりに、レイコはそこで笑顔を見せた。
(——嘘! メイクも髪も全然ちがう!)
みのりの衝撃をスルーして、いつもより早めにセットを終えて抽出が済んだ珈琲マシンから、カップへと珈琲をそそいでいく。
湯気の立つマグカップを手に、みのりの横を過ぎるセミロングの髪は、ふんわりと控えめに巻かれている。普段は毛先がパサついているというのに。
「——おはよう、安井さん」
「おはようございます」
同じ課の者が挨拶をするたび、みのりと同じように(あれ?)と首をかしげる気配があった。
誰だっけ、などと思うほどではない。安井レイコに間違いない。とりたてて目立つ服でもメイクでもない。
なのに——
「あれぇ? 安井さん、なんか雰囲気ちがうねぇ? さては昨日、いいことあった? 彼氏とデートした?」
「それ、アウトです。セクハラです」
「厳しい世の中だ……」
課長の言葉に鋭い切り返しをして、キリッとするレイコの顔は、クマもシミもない。
肌には柔らかなベールがかかったようにきらめきがあって、普段は目につく肌のくすみが見えなかった。
——君に足りないのは、しいて言えばツヤかな?
白き魔法遣いがレイコに与えたのは、スキンケアとメイクの魔法。
「——はい、まずはパックね? てっとり早いから、今夜はお風呂あがったらこれね。あとこれ、アイクリームも塗って。気になるとこ全部」
「エスケーツーってCM見たことある……高そう……このパックいくら?」
「2千円くらい?」
「ん? ……10枚入り?」
「1枚で」
「——は!? そんなの貰えない!」
「うん、そういうのいいから。とりあえず黙って言うとおりにしよう」
「あれ? 意外に横暴な感じ……?」
「お風呂もちゃんと入ってね? シャワーだけじゃなくて、湯船ね?」
「………………」
「湯船ね?」
「あ、はい」
そんなこんなで、翌朝またティアの家に呼び出されたレイコは、彼によってヘアメイクされるという……
「——失恋した翌日に派手なメイクしてくのって逆に痛くない!?」
「誰が派手にするって言ったかな? 普段のきみと大して変わらない程度にしかしないよ」
「それ意味あるっ?」
「あるよ。きみは可愛いんだから、自信もって」
「……そっか、詐欺師ってこういう感じで騙していくんだ」
「……ね、きみがフラれた原因って、その失礼な性格じゃない?」
三面鏡になる大きな鏡の前で、ティアは話しながら手際よくメイクを進めていく。
レイコがちらっと目をやったチューブ型の化粧品はCCクリームと書かれていて、下にシャネルのロゴが。
「それ、ぜったい高いやつ」
「うん、静かにしてね? なるべくシンプルに仕上げるから、ちょっとくらいはいい子にできるよね?」
メイクブラシで、顔の中央から端に向けて薄くなるように塗っていく。
しっとりとしたクリームは、それだけで肌のくすみを吹き飛ばしていた。
「きみの場合、眉が大事かな? ふんわりと仕上げるイメージで、塗る色は髪より淡く。僕が持ってるのは合わないだろうから……あ、おまけで貰ったこれでいっか。ついでにあげる」
「えっ? またくれるの? 困るんだけど……」
「それは無料だから気にしないで。気にするくらいなら動かないで」
「………………」
「息はしていいよ? 失恋で死なないで?」
「ティアくん、ときどき傷をえぐりにくるね?」
柔らかく整った眉の下、アイラインは目尻だけ、ほんの少し。
アイシャドウはオレンジブラウン。
「ティアくん。言いづらいんだけど、私ってブルベだから……オレンジ合わないらしいよ?」
「うーん? 肌のくすみは消えたし、今日は明るく柔らかい雰囲気にしたいから……色は目の端に少し入れるだけだよ」
目もとの変化はあまり出なかった。まつげも軽くカールさせただけで、マスカラも付けてるかどうか分からない程度。
ティアが最後に手に取った太いバームのような物は、またしてもシャネルだった。
「これ、今回ハイライトとチークに使うんだけど……おすすめだよ。ハイライトでツヤを……こう、目の周りに入れて。きみには合ってると思う」
「……それ、いくら?」
「……6千とか7千あたりかな?」
「2本で1万4千! 無理!」
「2本も買わずに、1本だけ。ハイライトのほう」
「それでも7千!」
「…………じゃ、よく似てるって言われてるヒンスのハイライトにしたら?」
「そっちはいくら?」
「知らない。自分で調べてみて」
けっこうあっさりと仕上がっていた。時間にして10分ほど。早いほう。
髪も軽く巻いてから、
「——うん、できあがり。あとは自信もってまっすぐ立つこと。いいかな?」
そう言って送り出されたレイコは、半信半疑で家を出たが……
通勤のとき、スマホの画面に映った自分をまじまじとみて、昨日の暗い女性の顔ではないことに気づいていた。
ティアに貸してもらったブラウス(これも高いぞ、きっと)はシワなく、光を反射して強く白を発している。
大きく変わったわけじゃない。自分の気になってたところを、カバーしてもらっただけ。
でも、
「——今日の珈琲、おいしいから飲んでみてね」
自席で隣の同期に声をかけると、彼はキョトンとしてレイコに向いた。
「何か違うの?」
「心を込めて用意してみました」
レイコの言葉に、彼が笑う。
「安井さん、今日なんか楽しそうだね? その感じなら珈琲も美味しくなってそう」
「うん、魔法もかけたから。今日一日、楽しく仕事ができるように——」
可愛いなんて、誰にも言われていない。
レイコも期待していない。
褒め言葉であっても、職場で他人の容姿をどうこう言うひとはめったにいない。(課長はのぞく)
——それでも、こんなに気持ちが前向きになれるのは、
(今日の自分に、自信があるから……かな?)
仕事に向かうモチベーションは高く、ちょっとばかり燃えている。
家に帰ったら、隣の彼に「可愛いなんて言われなかったんだけど」とクレームをつけるつもりで、定時に帰る算段もつけている。
跳ねるような気持ちで、レイコは仕事に取りかかった。
失恋なんて——忘れている。
誰かの仕事と決まっているわけではなく、朝早く来た者が適宜おこなう。
しかし、安井レイコがセットする機会は非常に多い。
女性だからというわけでなく、レイコは自分が飲みたいがために朝一で用意しているので文句はない。
ただ、その用意の途中でたいてい彼女——みのりがやってくるため、二人で用意したと周囲には思われている。なんだったらみのりが用意したと思っている者もいて、その理由はみのりが「コーヒー入りましたよ」と明るい声で周囲に告げているからだった。
いつもの時間。
みのりは珈琲マシンや冷蔵庫が並ぶ給湯室に足を入れると、先にいたレイコに、
「先輩、本当にごめんなさい……。私、なんて言ったら……」
謝罪をかけようとして、(あれ?)と違和感に首を傾けていた。
スッとした横顔。
まっすぐ伸びた姿勢に、まぶしく輝くような白のブラウス。
身に覚えのない迫力に(いつものレイコは3着くらいを着回しているので)、気圧されたのか言葉を切っていた。
振り返ったレイコが、みのりを目で捉える。
「——あぁ、おはよう」
「お、おはようございます……」
緊張しているのは、みのりにも伝わった。伝わったが……なにか、思っていた緊張とは違うような。
いや、それよりも。
「……あれ? 先輩、きょう……メイクしてます?」
「いや? いつもしてるよ」
「え……でも、今日はすごく……」
「ぐっすり眠ったから、肌の調子がいいのかも」
戸惑うみのりに、レイコはそこで笑顔を見せた。
(——嘘! メイクも髪も全然ちがう!)
みのりの衝撃をスルーして、いつもより早めにセットを終えて抽出が済んだ珈琲マシンから、カップへと珈琲をそそいでいく。
湯気の立つマグカップを手に、みのりの横を過ぎるセミロングの髪は、ふんわりと控えめに巻かれている。普段は毛先がパサついているというのに。
「——おはよう、安井さん」
「おはようございます」
同じ課の者が挨拶をするたび、みのりと同じように(あれ?)と首をかしげる気配があった。
誰だっけ、などと思うほどではない。安井レイコに間違いない。とりたてて目立つ服でもメイクでもない。
なのに——
「あれぇ? 安井さん、なんか雰囲気ちがうねぇ? さては昨日、いいことあった? 彼氏とデートした?」
「それ、アウトです。セクハラです」
「厳しい世の中だ……」
課長の言葉に鋭い切り返しをして、キリッとするレイコの顔は、クマもシミもない。
肌には柔らかなベールがかかったようにきらめきがあって、普段は目につく肌のくすみが見えなかった。
——君に足りないのは、しいて言えばツヤかな?
白き魔法遣いがレイコに与えたのは、スキンケアとメイクの魔法。
「——はい、まずはパックね? てっとり早いから、今夜はお風呂あがったらこれね。あとこれ、アイクリームも塗って。気になるとこ全部」
「エスケーツーってCM見たことある……高そう……このパックいくら?」
「2千円くらい?」
「ん? ……10枚入り?」
「1枚で」
「——は!? そんなの貰えない!」
「うん、そういうのいいから。とりあえず黙って言うとおりにしよう」
「あれ? 意外に横暴な感じ……?」
「お風呂もちゃんと入ってね? シャワーだけじゃなくて、湯船ね?」
「………………」
「湯船ね?」
「あ、はい」
そんなこんなで、翌朝またティアの家に呼び出されたレイコは、彼によってヘアメイクされるという……
「——失恋した翌日に派手なメイクしてくのって逆に痛くない!?」
「誰が派手にするって言ったかな? 普段のきみと大して変わらない程度にしかしないよ」
「それ意味あるっ?」
「あるよ。きみは可愛いんだから、自信もって」
「……そっか、詐欺師ってこういう感じで騙していくんだ」
「……ね、きみがフラれた原因って、その失礼な性格じゃない?」
三面鏡になる大きな鏡の前で、ティアは話しながら手際よくメイクを進めていく。
レイコがちらっと目をやったチューブ型の化粧品はCCクリームと書かれていて、下にシャネルのロゴが。
「それ、ぜったい高いやつ」
「うん、静かにしてね? なるべくシンプルに仕上げるから、ちょっとくらいはいい子にできるよね?」
メイクブラシで、顔の中央から端に向けて薄くなるように塗っていく。
しっとりとしたクリームは、それだけで肌のくすみを吹き飛ばしていた。
「きみの場合、眉が大事かな? ふんわりと仕上げるイメージで、塗る色は髪より淡く。僕が持ってるのは合わないだろうから……あ、おまけで貰ったこれでいっか。ついでにあげる」
「えっ? またくれるの? 困るんだけど……」
「それは無料だから気にしないで。気にするくらいなら動かないで」
「………………」
「息はしていいよ? 失恋で死なないで?」
「ティアくん、ときどき傷をえぐりにくるね?」
柔らかく整った眉の下、アイラインは目尻だけ、ほんの少し。
アイシャドウはオレンジブラウン。
「ティアくん。言いづらいんだけど、私ってブルベだから……オレンジ合わないらしいよ?」
「うーん? 肌のくすみは消えたし、今日は明るく柔らかい雰囲気にしたいから……色は目の端に少し入れるだけだよ」
目もとの変化はあまり出なかった。まつげも軽くカールさせただけで、マスカラも付けてるかどうか分からない程度。
ティアが最後に手に取った太いバームのような物は、またしてもシャネルだった。
「これ、今回ハイライトとチークに使うんだけど……おすすめだよ。ハイライトでツヤを……こう、目の周りに入れて。きみには合ってると思う」
「……それ、いくら?」
「……6千とか7千あたりかな?」
「2本で1万4千! 無理!」
「2本も買わずに、1本だけ。ハイライトのほう」
「それでも7千!」
「…………じゃ、よく似てるって言われてるヒンスのハイライトにしたら?」
「そっちはいくら?」
「知らない。自分で調べてみて」
けっこうあっさりと仕上がっていた。時間にして10分ほど。早いほう。
髪も軽く巻いてから、
「——うん、できあがり。あとは自信もってまっすぐ立つこと。いいかな?」
そう言って送り出されたレイコは、半信半疑で家を出たが……
通勤のとき、スマホの画面に映った自分をまじまじとみて、昨日の暗い女性の顔ではないことに気づいていた。
ティアに貸してもらったブラウス(これも高いぞ、きっと)はシワなく、光を反射して強く白を発している。
大きく変わったわけじゃない。自分の気になってたところを、カバーしてもらっただけ。
でも、
「——今日の珈琲、おいしいから飲んでみてね」
自席で隣の同期に声をかけると、彼はキョトンとしてレイコに向いた。
「何か違うの?」
「心を込めて用意してみました」
レイコの言葉に、彼が笑う。
「安井さん、今日なんか楽しそうだね? その感じなら珈琲も美味しくなってそう」
「うん、魔法もかけたから。今日一日、楽しく仕事ができるように——」
可愛いなんて、誰にも言われていない。
レイコも期待していない。
褒め言葉であっても、職場で他人の容姿をどうこう言うひとはめったにいない。(課長はのぞく)
——それでも、こんなに気持ちが前向きになれるのは、
(今日の自分に、自信があるから……かな?)
仕事に向かうモチベーションは高く、ちょっとばかり燃えている。
家に帰ったら、隣の彼に「可愛いなんて言われなかったんだけど」とクレームをつけるつもりで、定時に帰る算段もつけている。
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