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第二話 偽りの玉座
伍章:一 恋人の最期1
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白亜は話を続けた。
妹の白露が息絶えた後も、白虹の皇子は決して遺体の傍を離れなかった。手放さなかったと言った方が正しいのかもしれない。
誰の手にも渡さず、皇子はただ横たわる黒い躯を涙で濡らした。
白亜達の住まいは、透国のありふれた住居である。天界の宮殿には何もかもが遠く及ばない。白虹の皇子が滞在するには、あまりに質素で不釣合いな住まいに見えた。それでも、皇子は誰の言葉にも耳を傾けず、天界へ戻ることを拒み続けた。
これまでは、どれほど白露と想いを通わせても、皇子が自身の立場を放棄したことは一度もなかった。天界に生まれ、天籍を与えられ、透の第一王子としての責務を果たし続けてきたのだ。
白露の兄である白亜にとって、皇子の使命感は時として妹への愛情を凌駕しているようにも見えた。そんな皇子の姿勢を見て、白亜は時折妹を哀れに感じることがあった程である。けれど、白露が亡骸となった時、白亜はそれが大きな誤解であったのだと痛感した。
白露の亡骸を前に、皇子は初めて自身の立場、全ての責務を放棄したのだ。白露を亡くした悲嘆は全てに勝り、皇子の強靭な使命感は跡形もなく呑みこまれてしまった。
天界からの迎えをことごとく拒絶して、皇子は白露の傍にあり続けた。
白亜も当初は、白虹の皇子と同じようにただ妹の死を哀しむ日々だった。けれど、いつからか日を追うごとに、皇子の先行きに不安を覚え始めた。
(この方は、いつまでもここに止まっていてはいけない)
白亜と白露の兄妹に両親はない。白亜が独り立ちする頃には、既に亡くなっていた。幸い両親の庇護を必要とするほど幼くはなかったので、兄妹は助け合って生計を立ててきた。
白虹の皇子と縁を結ぶと決意する時も、妹の白露は最後まで残される兄のことを思い悩んでいた。皇子の伴侶となれば、白露はこれまでのように身近で兄を支えることができなくなってしまう。皇族と繋がりのある者として不自由のない待遇を受けようとも、兄のために心を砕く者は誰もいない。
そして、白虹の皇子によって与えられる天籍は、白露の魂魄が刻む時を変えてしまう。地界に流れる月日ではなく、彼女は天界の時を生きることになるのだ。
刻まれる時の差異。正確にはどれほどの開きがあるのかわからない。それが一定の法則をもって在るのかもわからなかった。
天界の皇子と地界の白露が逢瀬を重ねる時にも、不思議な違いがあった。同じように三日後の再会である日もあれば、皇子にとっての翌日が、白露にとって翌月であることもある。ごく稀に逆の場合もあった。
それでも統計をとれば、圧倒的に天界のほうが地界よりも緩やかな時を刻んでいる。
白露にとってのひとときが、白亜の一生になってしまうのかもしれない。
妹は最後まで、そんなことを危惧していた。
白亜にとっては、取るに足らない心配だった。余計なお世話だと叱り飛ばした記憶がある。時期と縁があれば、白亜もいずれは伴侶を迎えることになる。いつまでも独り身でいるつもりはなかったし、妻、子、孫と、これからいくらでも心を砕き、通わせる者はできるのだ。行き遅れた妹が小姑となるよりは、早々に片付いてくれる方が在り難い。
もちろん本音ではなかったが、厄介者のように罵ると、妹はようやく決意したようだった。きっと白露は、兄の真意を理解したのだろう。
妹の不在。寂しくないと言えば嘘になる。
けれど。
兄が誰よりも自分の幸せを願ってくれているという真実。
妹は白亜の一番の望みを受け入れてくれた。白虹の皇子の想いに答えたのは、それからすぐのことだった。
思い出せば、それは切なく幸せな日々。
この目に刻むはずだった、妹の晴れ姿。
その全てを絶たれて、兄である白亜は悲嘆に暮れた。
奈落の底。
夢か幻であれば良いと、どれほど願ったのかわからない。
悪夢のような日々が過ぎて、呆気なく迎えた終焉。
(白露、――白露、逝くな)
自分の声に重なっていたのは、皇子の悲鳴。
(どうして、……なぜだ)
白亜と同じように、悲嘆に暮れる皇子の姿。白露が息絶えたその日から、変わらぬ光景。
まるで同じ哀しみを分かち合うかのように、震えていた背中。
白露の亡骸を抱いて、その死を悼む心。
たしかに妹がこの世に生きていたという証を、白亜は皇子の中に見つけることが出来た。
想いの内に、揺ぎ無く刻まれている存在。
いつか色褪せてしまうとしても、失われることはなく。
皇子の一途な想いは、白亜にとって慰めであったのかもしれない。
それでも、再三に渡る天界からの迎えは、白亜に皇子の立場を思い出させた。
(この方は、ここで立ち止まっていてはいけない)
息絶えた妹も同じ想いであるだろう。白亜にはそう思えた。
「白虹様。いつまでも悲嘆に暮れていては、妹が哀しみます」
「――私は、まだ信じられない」
白露の亡骸を見つめたまま、皇子は呟いた。彼が正気であることを確かめて、白亜はわずかに安堵の息を漏らした。
「それでも、受け入れなければ前に進むことはできません。あなたが妹の死を嘆いてここで果てるようなことになれば、白露が嘆きます」
「もういい。……もう、いいのです」
「白虹様」
「ここで果ててもかまわない。私には、もう全て意味がない」
力なく呟いて、皇子はようやく白亜を見た。
「白亜、私には意味がなくなってしまいました。国を背負うことも、第一王子としての責務を果たすことも。全て彼女と縁を結ぶために、必死で演じてきた。誰もが私の言葉に耳を傾けるだけの地位と立場を得るために」
「……あなたにそれほど想われて、妹は幸せ者でした」
何と答えて良いか判らず、白亜はそれだけを搾り出すように伝えて、ただ頭を下げた。伏せた視線の先に映るのは、音もなく落下する皇子の涙。それは止むことなく、皇子の白銀の衣装に染みを作った。
「彼女が、――幸せだった、はずがない」
零れ落ちる涙を拭うこともせず、皇子は言い募る。
「私の想いが、彼女にとれほどの我慢をさせたのか。私は知っています。地界で睦み合う者達のように、私は白露に与えることが出来なかった。私はただ我儘を貫いて彼女を望んだだけです。私が皇子でなければ、――彼女はもっと満たされた日々を送ることが出来た。容易く会うこともままならず、私は彼女に辛抱ばかりさせていた。……これから、だったのです」
「皇子、決してそんなことは――」
「私には、これからだった。白露と縁を結び、ようやく彼女を護る比翼になれる筈だった。私はこれまで、彼女に辛い思いをさせることしかできなかった」
皇子の内に刻まれた悔恨と懺悔。
白亜が妹に対して感じた哀憫は、皇子の中にも在ったのだ。彼はどんな時も白露のために心を砕いていた。けれど、それを形にするための時間がなかったのだ。
妹の抱える不安や恐れを知りながら、それを拭うだけの自由が許されていない。
いずれ透国を背負う、一番目の皇子であったが故に。
「それなのに、彼女は魂魄を失った後も鬼に塗り固められている。このような惨い姿でとどまり、いずれ鬼と成り果てて、魂魄は永劫に苛まれる。安らかな終焉を迎えることも許されない。どうして――っ。どうして白露が、このような仕打ちを受けなければならないっ」
皇子の激昂が、再び白亜の目に涙を滲ませた。
考えないようにしていた魂魄の終焉。
この世において、魂魄を失った肉体――亡骸はいずれ霧散する。影も形もなく、跡形もなく失われてしまうのだ。
魂魄は、肉体を形としてこの世にとどめるもの。器から離れれば、それは生前の行いや想いによって、鬼と神に別たれ、再びこの世に解放されると言われている。
鬼が人の悪意から成り、神が人の善意から成るというのは、人々が魂魄の在り様をそのように捉えているからなのかもしれない。
人が亡くなってから十日が過ぎた頃、その亡骸は失われる。遺体が霧散することを、人々は輪廻とよんだ。
白亜は溢れ出た涙を、無造作に腕で拭った。
黒い遺体。魂魄が鬼に侵された亡骸。
白亜も鬼にまつわる恐ろしい噂を耳にしたことがあったが、まさか自分の妹にその災厄がふりかかるとは思ってもいなかったのだ。
皇子の絶望が、何よりも雄弁にそれを教えた。
目の前に横たわる白露の遺体。
鬼に捕らわれたかのように黒く、時が過ぎても霧散せず在り続けている。
妹の白露が息絶えた後も、白虹の皇子は決して遺体の傍を離れなかった。手放さなかったと言った方が正しいのかもしれない。
誰の手にも渡さず、皇子はただ横たわる黒い躯を涙で濡らした。
白亜達の住まいは、透国のありふれた住居である。天界の宮殿には何もかもが遠く及ばない。白虹の皇子が滞在するには、あまりに質素で不釣合いな住まいに見えた。それでも、皇子は誰の言葉にも耳を傾けず、天界へ戻ることを拒み続けた。
これまでは、どれほど白露と想いを通わせても、皇子が自身の立場を放棄したことは一度もなかった。天界に生まれ、天籍を与えられ、透の第一王子としての責務を果たし続けてきたのだ。
白露の兄である白亜にとって、皇子の使命感は時として妹への愛情を凌駕しているようにも見えた。そんな皇子の姿勢を見て、白亜は時折妹を哀れに感じることがあった程である。けれど、白露が亡骸となった時、白亜はそれが大きな誤解であったのだと痛感した。
白露の亡骸を前に、皇子は初めて自身の立場、全ての責務を放棄したのだ。白露を亡くした悲嘆は全てに勝り、皇子の強靭な使命感は跡形もなく呑みこまれてしまった。
天界からの迎えをことごとく拒絶して、皇子は白露の傍にあり続けた。
白亜も当初は、白虹の皇子と同じようにただ妹の死を哀しむ日々だった。けれど、いつからか日を追うごとに、皇子の先行きに不安を覚え始めた。
(この方は、いつまでもここに止まっていてはいけない)
白亜と白露の兄妹に両親はない。白亜が独り立ちする頃には、既に亡くなっていた。幸い両親の庇護を必要とするほど幼くはなかったので、兄妹は助け合って生計を立ててきた。
白虹の皇子と縁を結ぶと決意する時も、妹の白露は最後まで残される兄のことを思い悩んでいた。皇子の伴侶となれば、白露はこれまでのように身近で兄を支えることができなくなってしまう。皇族と繋がりのある者として不自由のない待遇を受けようとも、兄のために心を砕く者は誰もいない。
そして、白虹の皇子によって与えられる天籍は、白露の魂魄が刻む時を変えてしまう。地界に流れる月日ではなく、彼女は天界の時を生きることになるのだ。
刻まれる時の差異。正確にはどれほどの開きがあるのかわからない。それが一定の法則をもって在るのかもわからなかった。
天界の皇子と地界の白露が逢瀬を重ねる時にも、不思議な違いがあった。同じように三日後の再会である日もあれば、皇子にとっての翌日が、白露にとって翌月であることもある。ごく稀に逆の場合もあった。
それでも統計をとれば、圧倒的に天界のほうが地界よりも緩やかな時を刻んでいる。
白露にとってのひとときが、白亜の一生になってしまうのかもしれない。
妹は最後まで、そんなことを危惧していた。
白亜にとっては、取るに足らない心配だった。余計なお世話だと叱り飛ばした記憶がある。時期と縁があれば、白亜もいずれは伴侶を迎えることになる。いつまでも独り身でいるつもりはなかったし、妻、子、孫と、これからいくらでも心を砕き、通わせる者はできるのだ。行き遅れた妹が小姑となるよりは、早々に片付いてくれる方が在り難い。
もちろん本音ではなかったが、厄介者のように罵ると、妹はようやく決意したようだった。きっと白露は、兄の真意を理解したのだろう。
妹の不在。寂しくないと言えば嘘になる。
けれど。
兄が誰よりも自分の幸せを願ってくれているという真実。
妹は白亜の一番の望みを受け入れてくれた。白虹の皇子の想いに答えたのは、それからすぐのことだった。
思い出せば、それは切なく幸せな日々。
この目に刻むはずだった、妹の晴れ姿。
その全てを絶たれて、兄である白亜は悲嘆に暮れた。
奈落の底。
夢か幻であれば良いと、どれほど願ったのかわからない。
悪夢のような日々が過ぎて、呆気なく迎えた終焉。
(白露、――白露、逝くな)
自分の声に重なっていたのは、皇子の悲鳴。
(どうして、……なぜだ)
白亜と同じように、悲嘆に暮れる皇子の姿。白露が息絶えたその日から、変わらぬ光景。
まるで同じ哀しみを分かち合うかのように、震えていた背中。
白露の亡骸を抱いて、その死を悼む心。
たしかに妹がこの世に生きていたという証を、白亜は皇子の中に見つけることが出来た。
想いの内に、揺ぎ無く刻まれている存在。
いつか色褪せてしまうとしても、失われることはなく。
皇子の一途な想いは、白亜にとって慰めであったのかもしれない。
それでも、再三に渡る天界からの迎えは、白亜に皇子の立場を思い出させた。
(この方は、ここで立ち止まっていてはいけない)
息絶えた妹も同じ想いであるだろう。白亜にはそう思えた。
「白虹様。いつまでも悲嘆に暮れていては、妹が哀しみます」
「――私は、まだ信じられない」
白露の亡骸を見つめたまま、皇子は呟いた。彼が正気であることを確かめて、白亜はわずかに安堵の息を漏らした。
「それでも、受け入れなければ前に進むことはできません。あなたが妹の死を嘆いてここで果てるようなことになれば、白露が嘆きます」
「もういい。……もう、いいのです」
「白虹様」
「ここで果ててもかまわない。私には、もう全て意味がない」
力なく呟いて、皇子はようやく白亜を見た。
「白亜、私には意味がなくなってしまいました。国を背負うことも、第一王子としての責務を果たすことも。全て彼女と縁を結ぶために、必死で演じてきた。誰もが私の言葉に耳を傾けるだけの地位と立場を得るために」
「……あなたにそれほど想われて、妹は幸せ者でした」
何と答えて良いか判らず、白亜はそれだけを搾り出すように伝えて、ただ頭を下げた。伏せた視線の先に映るのは、音もなく落下する皇子の涙。それは止むことなく、皇子の白銀の衣装に染みを作った。
「彼女が、――幸せだった、はずがない」
零れ落ちる涙を拭うこともせず、皇子は言い募る。
「私の想いが、彼女にとれほどの我慢をさせたのか。私は知っています。地界で睦み合う者達のように、私は白露に与えることが出来なかった。私はただ我儘を貫いて彼女を望んだだけです。私が皇子でなければ、――彼女はもっと満たされた日々を送ることが出来た。容易く会うこともままならず、私は彼女に辛抱ばかりさせていた。……これから、だったのです」
「皇子、決してそんなことは――」
「私には、これからだった。白露と縁を結び、ようやく彼女を護る比翼になれる筈だった。私はこれまで、彼女に辛い思いをさせることしかできなかった」
皇子の内に刻まれた悔恨と懺悔。
白亜が妹に対して感じた哀憫は、皇子の中にも在ったのだ。彼はどんな時も白露のために心を砕いていた。けれど、それを形にするための時間がなかったのだ。
妹の抱える不安や恐れを知りながら、それを拭うだけの自由が許されていない。
いずれ透国を背負う、一番目の皇子であったが故に。
「それなのに、彼女は魂魄を失った後も鬼に塗り固められている。このような惨い姿でとどまり、いずれ鬼と成り果てて、魂魄は永劫に苛まれる。安らかな終焉を迎えることも許されない。どうして――っ。どうして白露が、このような仕打ちを受けなければならないっ」
皇子の激昂が、再び白亜の目に涙を滲ませた。
考えないようにしていた魂魄の終焉。
この世において、魂魄を失った肉体――亡骸はいずれ霧散する。影も形もなく、跡形もなく失われてしまうのだ。
魂魄は、肉体を形としてこの世にとどめるもの。器から離れれば、それは生前の行いや想いによって、鬼と神に別たれ、再びこの世に解放されると言われている。
鬼が人の悪意から成り、神が人の善意から成るというのは、人々が魂魄の在り様をそのように捉えているからなのかもしれない。
人が亡くなってから十日が過ぎた頃、その亡骸は失われる。遺体が霧散することを、人々は輪廻とよんだ。
白亜は溢れ出た涙を、無造作に腕で拭った。
黒い遺体。魂魄が鬼に侵された亡骸。
白亜も鬼にまつわる恐ろしい噂を耳にしたことがあったが、まさか自分の妹にその災厄がふりかかるとは思ってもいなかったのだ。
皇子の絶望が、何よりも雄弁にそれを教えた。
目の前に横たわる白露の遺体。
鬼に捕らわれたかのように黒く、時が過ぎても霧散せず在り続けている。
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