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第五話(最終話) 相称の翼

第七章:四 闇に染まる心

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(「――先生!」)

 闇呪あんじゅは遠くに朱桜すおうの声を聞いた気がした。痛みとこみ上げるおぞましさで、思考がまとまらない。

「ーーっ」

 突然、朦朧とした意識に、明確な感覚が蘇る。激痛だった。
 まるで心の臓を引き出されるような痛み。

(ああ、麒角きかくが……)

 麒角が刺さっているのだと、それだけのことを思い出すのが、ひどく億劫だった。起き上がって為すべきことがあるような気がするが、目を開けることすら気怠い。
 まるで体中を強い毒に侵されたように、気持ちが重い。何も考えたくない。痛みとおぞましさだけが、身近にある。

「そなたの罪、どのようにあがなうのか?」

 深淵をさまよう意識の内に、凛とした声が響く。聞き覚えのあるような、美しい響き。だが、言葉には弾劾するような厳しさが満ちている。

紅蓮ぐれんを討った罪」

 紅蓮。緋国ひのくにの二の宮。鮮やかに脳裏に描き出される。悠闇剣ゆうあんのつるぎで一刀両断した記憶。
 断末魔の悲鳴。全ての瞬間が、まるで手に取るように視える。

(仕方がなかった。すでに、手遅れだった)

「では、わざわいの宿命に抗い、翼扶つばさを得た罪は?」

 ぎりりと胸の痛みが強くなる。闇呪あんじゅは思わずうめいた。麒角がさらに食い込む感触。

(私は、朱桜に真実の名を語った。ーーそれが罪……)

「罪ではないと?」

 たしかに朱桜すおうには負担だったのかもしれない。けれど、これ以上は背けなかった。自分の内にとめどなくあふれ出る想い。見て見ぬふりは出来なかった。
 彼女が傍にあるだけで、世界が変化した。鮮やかで美しく、胸が締め付けられるような情景。

「その想いは罪ではない。彼女もそなたを愛した」

(朱桜が、ーー)

 そうかもしれないと、今なら思える。天落の法に身を委ね、全てを失っても、彼女の中に芽生えた気持ち。信じたい。

「そなたの最大の罪は、己の翼扶つばさを守り切れなかったこと」

 声がさらに近づく。胸の中から誰かが語りかけているかのように。

(守りきれなかった?ーー朱桜を?)

 だから彼女は嘆いていたのだろうか。天落の法に身を堕とす間際、小さな肩を震わせて、泣きながら。
 ごめんなさいと、彼女は詫びた。
 彼女の嘆きの理由は、わからない。自分は知らない。

翼扶つばさに何が起きたのか。わらわがおしえてやろう」

 闇呪あんじゅは再び胸を貫く鋭い痛みに声をあげる。

(「やめて!ーー先生!」)

 遠くで声が聞こえる。愛しい翼扶つばさの声。自分を呼んでいる。行かなければならない。

「違う。そなたの翼扶つばさは、決してそなたを呼ばなかった」

 脳裏に正視するのが恐れ多い美しい光景が広がる。辺りで金色の煌めきが閃いた。大麟門に黄堂、輝きに満たされた道、玉座。まるで俯瞰するかのように描き出される世界。
 金域こんいきの情景。
 闇呪はそこに朱桜の姿を見つけて、ほっと気持ちを緩めた。
 やはり金域に戻っていたのだ。
 安堵できる場面を眺めながら、なぜか闇呪あんじゅは胸騒ぎを感じた。いやな予感がする。
 なぜかはわからない。
 玉座へと続く道を歩む朱桜すおうにじっと目を凝らしていると、様子がおかしいことに気づく。

(どこか、具合が悪いのではないか)

 その思いは的中した。黄帝との謁見中に朱桜は気を失ったのだ。力の限り名を呼ぶが、自分の声はどこにも届かない。するりと朱桜に近付く人影。ゾッとするような気配だった。朱桜を介抱する誰か。なぜか闇呪あんじゅには影色にしか見えない。遠くで感じていた警鐘がどんどん大きくなってゆくように、危機感が高まっていく。

(朱桜!)

 呼んでも呼んでも、声が届かない。
 目覚めた朱桜は誰かと話している。依然として影色にしか見えない気配。

(「ーー私は陛下のお心に応えることはできません」)

 黄帝の想いに答えることはできないと、はっきりと朱桜が示す。
 追い打ちをかけるように、響く声。

「姫君は闇呪あんじゅきみを愛しておられるのですね」

(「――はい」)

 朱桜が語っているのは、自分への気持ち。初めて触れた想い。
 夢のような事実に心が震える。彼女は黄帝を愛してはいなかった。ずっと焦がれていた。朱桜の想いを手に入れること。

「愛しい翼扶つばさも、そなたを愛した」

 耳元で囁くように声がする。喜ぶべき事実を語られているのに、闇呪あんじゅの内で鳴り響く警鐘は止まない。危機感が高まる。ただ目の前で繰り広げらる光景から、目を離せない。

 寝台に伏せる朱桜の前に現れた、新しい人影。自分と同じ顔貌かおかたちで金をまとう者。黄帝であることは疑いようもないのに、声を荒げ何かを言い募っている様子、その立ち居振る舞いに、闇呪は嫌悪感を覚えた。
 嫌悪は最高潮に達し、届かない自分の声のもどかしさに足掻く。目を覆いたくなるような惨状。

 助けを乞う声。悲鳴、絶叫。

(朱桜!)

 足掻いても、もがいても、闇呪の手は届かない。叫びも届かない。気がおかしくなりそうだった。

「だが、決してそなたを呼ばぬ」

(なぜ?)

 全身が総毛立つような怒りと共に、無力な自分への絶望が心を苛み始める。

(なぜ、私を呼ばない。ーーなぜ?)

 酷い仕打ちに、失われる意識。
 自身の翼扶を踏みにじるような、容赦のない行い。
 魂魄いのちを絶たれたかのような、蒼白な顔。
 動かない白い身体。

 闇呪は声を限りに叫んだが、自分が意味のある言葉を語っていたのかは、もうわからない。
 全身に漲る忿怒ふんど。この身に逆鱗げきりんがあるとすれば、それは朱桜に他ならない。
 誰よりも彼女の幸せを願ってきた。なのに、なぜこんなことになってしまうのか。

「そなたに関わる者は不幸になる」

(ーー不幸に)

 不幸になる。朔夜さくやも、縁を結んだ者達も、そして、朱桜も。
 胸の奥底に淀み始める闇。克明に刻まれた朱桜の悲痛な叫びが、狂気をもたらす。耐えられない。
 無力さに全身を焼かれるような後悔が渦巻く。

 この世の力になれると、朔夜が言った。だから、心を砕いて努めてきた。
 消えてしまいくなる宿命を見つめながら、力の限りあがいていた。それが間違いだったのか。
 どんなに心を尽くした献身も、この世に認められることはない。
 朱桜を大切に慈しみたいと、その想いすらも踏みにじられ、裏切られる。

「この世はそなたを認めない」

 惨く傷つけられた翼扶つばさ。悲鳴が残響のように、からみつく。

(朱桜を救えなかった)

 何も考えたくない。ただ、何もかもが苛立たしい。

「怒りが、そなたに力を与える」

(彼女を傷つけるだけの世界)

「そして、その絶望が、そなたをわざわいにする」

 禍。
 これまで拒み続けた宿命。今はなぜか心に馴染む。もう何も望まない。引き裂かれるような苦しみだけが形になる。希望はない。光も見えない。

 絶望。
 目を背けていた心の深淵をのぞき込む。芽生える悪意が激流となって身を駆け巡る。
 絶望を映した心に、次々と連鎖していく闇呪あんじゅはまるで他人事のように、ひどく空虚な気持ちで、心を闇に染めた。

(ーー私は、朱桜を救えなかった)
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