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29、名前を発音してみませんか

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「え……ええ」

 シャボンに似た香りがする。
 小さくつむいだ声が不思議と大きく聞こえる。胸の鼓動が妙に意識される。

「公爵様は、怖くありませんわ」
「私とそなたは、親しい?」 

 青年の声が初々しい風情で問いかけをするので、ディリートはソワソワと頷いた。
 
「し……親しいのでは、ないでしょうか? 私は、あなたを親しく慕っておりますわ……」
   
 感嘆めいた吐息が耳朶じだをくすぐる。距離の近さが急に気になってくる。熱い――ディリートは嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった。
 まつげを伏せて視線を逸らすと、恥じらう妻へと、そよ風のような声が嬉々としてささやかれる。

「……名前を発音してみませんか? ディリート?」
 
 感情がわかりやすい、飾らないありのままの青年の声だ。
 
「なまえ? 発音?」
 
 ディリートは目を瞬かせて夫を見た。そして、息を呑んだ。
 
 金色のまつげの下で煌めくシトリン・クォーツの瞳には、妻が初めて見るたぐいの熱が灯っていた。
 整った顔立ちが何かをこらえるような表情を浮かべる様には、ぞくりとするほど凄絶せいぜつな色香があった。

 夫の指が距離感をはかるようにしながら、ためらいがちに妻の唇に触れた。
 上唇に爪先が触れて、下唇にするりと移る感触が、くすぐったい。
 呼吸をするのをためらってしまうような、もどかしい感じがする。
 
 ディリートは頬を薔薇色に染めた。
 
(あ、あら? あら? なんだか、色めいた雰囲気なのでは、ないかしら?)
 胸の鼓動が早鐘はやがねのように騒いでいる。 
 
 夫の美麗な顔が近づいてくる。ディリートはどんな顔をしていいかわからなくなって、狼狽うろたえた。
 
「……ア」

 唇を指がなぞって、見本をみせるように夫が音をつむぐ。目の前で。

「……?」

 潤い艶めく唇がひらいて、音を発して、形を変える。

「シ……、……ル」

 シトリン・クォーツの瞳が麗しく煌めいて、細く上機嫌な様子で笑む。
 なにやら、とても楽しそうな気配だ。

「ア、シ、ル……」

 ディリートの唇にあてられていた指が離れて、ランヴェール公爵の唇にあてられる。

「んン……?」

 ディリートが首をかしげる中、ランヴェール公爵は自分の名前を美しく発音して、妻に「どうぞ、発音してみてください」と告げた。

「……あ、……」

 音をつむぐと、目の前のランヴェール公爵はウンウンと頷く。

「あ、し、る……様」

 恐る恐る名前を発音すると、目の前の端正な顔立ちが奇跡に出会ったようにパァッと輝くではないか。
 綺麗な黄水晶の瞳が感動をかみしめるようにまつげを伏せて、はにかむではないか。

(な……なんです……?)
 
「素晴らしい。もう一度、発音してみませんか?」
「え……え……?」

 ランヴェール公爵は直前までの意気消沈ぶりがどこかへ飛んだ様子で、「もう一度。もう一度」と妻に名前を呼ばせる。

(わ、私は今、何をさせられているの?)

「もう一度。ディリート? もう一度、呼んでいただいても?」
 
 甘えるように言われて、キスをされる。頬に。耳に。首筋に。
 
 ちゅ、ちゅ、とリップ音を立てて親愛と喜びを刻むようにされる。やわらかな肌に熱い吐息が感じられて、ディリートの肌の内側が震えた。
 イゼキウスに感じたのとは違う、甘やかに痺れるような震えが――いささか刺激的すぎるように、ディリートには思われた。

 ――な、な、……なんですのっ!?

 ――し、し、……刺激が強いのではなくて……!?
 
「さあ、もう一度」 
「あ……アシル様」
「もう一度……?」
「あ、あ、……」
 
(これは、何の儀式かしら? 何なのかしら?)
  
「あ、あ、あなた……」

 ディリートが顔を真っ赤にしながら「も……もう許してくださいっ……?」と許しを請うと、やがて夫はくすくすと笑って許してくれるようだった。

「ああ、……私は今、妻に無理やり名前を呼ばせましたね……っ? そなたを困らせましたね……っ」

 この夫がこんな風に笑うのは初めてで、ディリートは夢を見ているような心地になった。

「そなた、機嫌を損ねましたか? 嫌でしたか」
「い、嫌では……ありません」
「そなたは良い子ですね」

 夫の宝石めいた瞳が上機嫌で微笑む。
 ちゅ、とこめかみにキスをされて、やわらかな抱擁がされる。両腕で閉じ込めるように抱きしめられる。
 
 とく、とく、と鼓動を刻む心臓が感じられて、あたたかくて――悪い気持ちでは、ない。

 
「そなたは、可愛い」
 

 甘酸っぱい響きがそう唱えて、きらきらと輝くような青年の声が優しく耳元で心を伝える。

 
「私がそなた好みの優しくて怖くない夫になれたら。そなたが自分から呼びたくなったら、また呼んでください。ディリート」 
 
  
 楽しみにしています、とささやく声は夢見るように二人だけの空気を震わせる。ディリートは何も考えられなくなりながら必死でコクコクと頷いたのだった。

「夫は妻にもっと触れたい――愛したい。許していただけますか、ディリート?」

 ランヴェール公爵が優しく続ける声は、夫婦の夜の続きを匂わせていた。

「……!」
「義務ではなく、勤めではなく、仲良くしたいのですが……そなた、どう思いますか?」

 夕日色に艶めくまつ毛が伏せられて、ディリートの特別な指輪に口付けが落とされる。神聖な誓いのように贈られる言葉は、甘やかだった。

「私のミンネを捧げましょう。愛していると伝えましょう……そなたの夫は私なのだから、他の男のことなど、もう忘れてしまいなさい」

 糖分過多な美声にクラクラと酩酊めいていするような心地で、顔を真っ赤にしながらディリートは頷いた。

(愛、ですって)

 政略結婚の相手である夫は、義務ではなく、勤めではなく、自分を愛してくれるというのだ。

 ――自分は?

 ――そんなの、決まってる。

 ディリートは震える指先を彷徨さまよわせた。
 がっしりとした夫の肩に触れて、オロオロと胸板に滑らせると、あたたかで、全身の体重を預けたり、力いっぱい押しても微動だにしないような頼もしさを感じる。

「あ……」

 唇を震わせると、夫は言葉を待ってくれるようだった。
 何を言ってくれるのかと恋焦がれるような眼差しが、熱い。

「愛しています」

 自分の声が甘酸っぱく響く。
 
 夫の大きな手が頬に触れる。そのあたたかな手がゆったりと移って頭を撫でられると、触れられた部分から広がるみたいに、ふわふわした幸せな感覚がする。不思議なほど気持ちがよくて、柔らかな心地になる。少しずつ新しい自分に生まれ変わっていくようだった。

「私は、他の誰でもなく、あなたをお慕いしていますわ……アシル様」

 懸命に告げた瞬間に、感極まったような青年の声が妻を呼んだ。

「ディリート……」
 
 吐息を奪うように唇が寄せられて、二人のシルエットがひとつになる。その夜、夫婦はもっと仲良くなったのだった。
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