【完結】初恋は、

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 コートのポケットの中に突っ込んでいる手に、カサリと触れる紙の感触。

 それを寒空の夕暮れに染まる街中で雅はずびっと鼻を啜りながら感じつつ、はぁー……。と深い呼吸を一度してから、お目当てのいつものコーヒーショップの扉を開いた。


 店内は変わらずコーヒーの良い香りに満たされ、心地よいジャズが流れている。
 しかし夕方という事もあり客で溢れていて、雅は春が他の客のレジをしていて気付いていない事に少しだけ悲しみと、だが未だバクバクと鳴る心臓を落ち着かせる猶予が僅かだけ出来たと相反する気持ちを抱えつつ、そっと注文待ちの列へと並んだ。

 五人ほどが雅の前に並んでおり、そわそわと落ち着かない様子を現すかのよう、マスクの中で自身の薄い唇をむにむにと噛んでいる雅。
 相変わらずポケットの中にはカサカサと鳴る紙が入っており、もう完売しましたよ! という拓真から何とか無理を言って貰った三枚のチケットと、そしてもう一つ、自身の携帯電話番号をメモした紙が入っていた。

 その紙は、一緒に行くと喚く二人を何とか説得したあと、それでも未だ足繁くせっせと通っているだけの客と店員としての関係でしかなく連絡先の一つも知らない。とぽつりと呟いてしまった雅に、まだ連絡先の交換もしてないなんてあり得ないですよ、何してるんですか雅さん。なんて意外にも奥手な慎一にさえ言われてしまったせいで、絶対に渡すべきです。と二人の目の前で書かされた、手書きの携帯電話番号なのである。

 それを、チケットを持っていくと約束した今日一緒に渡せと脅すように二人に言われ持ってきたのはいいものの、……いや、大丈夫だとは思うけど、でも引かれたらどうする。だなんて今までの春の自分へ対する態度を鑑みて引かれはしないだろうと思いつつも、メモも一緒に渡すかどうか未だ悩んでいた雅だったが、しかし時は無情で。

「あっ! 雅さん! こんばんは!」

 だなんていつの間にかもう自身の番まで来てしまっていた事に雅はビクッと肩を跳ねさせ、空いていた距離を詰めるよう、それでもどこか重い足取りでカウンターへと近寄った。


「作業、終わったんですか?」
「い、いや、息抜きに……」
「わぁ……。あまり根詰めないでくださいね」
「……ああ」
「アイスコーヒーで良いですよね?」
「うん」
「今日は忙しくて俺が作れないのが残念です」
「っ、」

 そう冗談ぽく笑う春は、それでもどこか本当に悲しげに見えて。
 普段はそこまで混んでいないので注文から何まで一人で対応する事が割りと多いこのカフェだが、しかし春の言うように今日は客が多く、レジ担当と作業担当と分けており、隣で良介ともう一人のスタッフがせっせと作っているのが見えた。

 大変そうだな。だなんて雅が良介を見つめ、そんな雅の視線に気付いたのか顔を上げた良介が人懐こい笑みを浮かべては、「雅さん!」と笑う。
 そのはつらつとした爽やかな笑顔に、この男にヤキモチを焼いていた過去の自分を少しだけ恥じつつ、雅もひらっと手をあげて返事をする。
 だがそれから春をチラリと見た雅は、なぜか春が見たこともないようなムッとした表情をしているのにびっくりし、思わず目を見開いてしまった。

「え、春?」
「へ、っあ、ご、ごめんなさい! 何ですか?」
「あ、いや……、」

 訝しげに名前を呼ぶ雅に、ハッとした様子でニコッと笑う春。
 それはもちろん美しいが、雅にとってはもう物足りなくなってしまった営業スマイルで。
 ……その顔、久々に見たな。といつもならくしゃりとした顔で笑う春にどうしたのだろうかと思いつつも、特に何も言えるわけでもなく黙った雅はそのまま会計を終え、だがそれから決心をしてポケットに突っ込んでいた手を出した。

「店内でいいですよね?」
「……あ、いや、今日は混んでるし持ち帰りで良い」
「……そう、ですか。分かりました。……いつも気遣ってくれてありがとうございます」
「いや別にそんな事ないけど、」
「そんな事ありますよ。俺が一人の時にも帰るって言ってくれたりしたじゃないですか」
「あれは気遣ったっていうか……。あ、そ、それより、あのさ、これ……、」
「え、あっ、チケット!」
「……うん」
「わぁ! ありがとうございます!」
「ん……」
「すっごく嬉しいです! ありがとうございます雅さん! 絶対見に行きますね!」
「……うん」
「本当にありがとうございます。いくらですか?」
「いや、いいよ……」
「は? いいわけないじゃないです、か……、って、え、これ……」

 三枚のチケットを見ては嬉しげにくしゃりとした笑顔で笑っていた春が、雅の言葉にお金は絶対に払いますから! と眉間に皺を寄せた、その瞬間。

 チケットの間に挟まれていた雅の男らしくも細い字で書かれたメモに気付き、春がぴたりと動きを止める。

 そんな春を見つめられず雅は首の後ろをボリボリと掻きながらも、しかし一世一代と言わんばかりに、重い口を開いた。

「……その、それ俺の番号だから、ライブの事とかで何か聞きたい事とかあったら連絡してくれて良いから……」
「っ、……は、はい……。あり、がとうございます……」

 雅の気恥ずかしさが移ったのか、ぽつりと呟いた春がみるみる内に顔を真っ赤にしていく。
 それに気付いた雅は、もう鳴り響く心臓のせいで周りの音が良く聞こえない。と息を乱しつつも、可愛らしい反応を見せた春に堪らず、……ここで男気を出さないでどうする。と自分を叱咤し、メモを握る春の手に指を伸ばし、一度すりっと撫でた。

「っ、」
「……ごめん。何か聞きたい事とかっていうの、嘘。ただ俺が渡したかっただけ」

 嘘。だなんて言い切っては掠れた声で囁いた雅に、春が肩をビクンッと震えさせハッと小さく息を吐く。

 その耳まで真っ赤に染まった姿は愛らしくもどこか耽美で。雅は、後ろに人が居なくて良かった。と春のこんな姿を他の奴に見せたくないなんていう一丁前な独占欲すらむくむくと湧かせながらも、鼻まで覆っているマスクを無意味にあげ直した。

「……何もなくても、連絡くれたら嬉しい」

 そう呟いて、被っていたキャップ帽まで深く被り直した雅。

 それから、未だ真っ赤なままぽかんと口を開けている春から目を逸らした雅は、もうコーヒーを作り終わり二人のやり取りをシラッとした顔で見ていた良介から奪うようにアイスコーヒーを受け取って、春を見ることなく足早に店を出た。


 逃げるように扉を開けて外に出た瞬間、はらはらと舞う雪が雅の火照った体に当たる。

 それは身震いするほど寒い筈なのに今だけはそれが心地よく、いつもこの店を出る時だけ寒さを忘れる雅は、ハッと荒い息を吐きながら顔を真っ赤にしたまま、夜になりかける街中を駆けていった。




 
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