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第1章
DAY4(#15)
しおりを挟む昼食終わりの午後。
「今日は、おかずとヨーグルト食べられたんですね」
よかったです、と無機質に言う文月さんの声に今は実家のような安心感を覚えてしまっている。
それは確実に、佐々木先生と会ったからだろう。
彼の内から出るほんの少しの騒がしさが精神科の医者ということを忘れさせるけど、俺は文月さんのような静かな人の方が安心する。
――……『普通は、相手が何を思っているのかわかる方が安心しない?』
俺の昼食の残骸を見ながらバインダーに何かを書き込む文月さんを見ながら、先ほどの佐々木先生の言葉を思い出す。
(でも、何でか違うんだよなぁ……)
何というか、佐々木先生は確かに喜怒哀楽が分かりやすくて『助かる』というのは分かる。
それは、周藤夫妻にも言えることだった。
あの二人も自分の持つ『音』をはっきりと表に出して教えてくれる。
自分はこういう人間だぞって。
でも康祐さんは違った。
時間をかけて言葉や行動で教えてくれる人だった。
それこそ、俺が勘違いをしないように何度も丁寧に、感情に任せるなんて人間臭いことはしない人だった。
――……でも、愛だけはいつも伝わってきていた。
この違いはなんなのだろうか。
「美澄さん」
「は、へ」
物思いに耽ってしまっていたらしい俺は、文月さんの声かけに気づいていなかったらしい。
慌てて顔を上げると、文月さんは相変わらず無表情で俺を見ていた。
「何かありましたか」
また、抑揚のない声が飛んでくる。
何か……。まあ、なくはないが。
「さっき、佐々木先生と話してたことを思い出してました」
俺は、昼食後に淹れてもらった温かいほうじ茶の湯呑みを持ち、冷めてきたことを確認して啜った。
文月さんはそれを眺めつつ「話、ですか」と聞きたそうなそぶりを見せる。
俺は、もう一口お茶を啜り、湯呑みをオーバーベッドテーブル――というらしい。いつの日か見舞いに来てくれたカオリさんから聞いた――に置いた。
「はい。文月くんと仲良くしてるかって。あと……」
俺は文月さんを見てニヤリと笑う。
「俺が文月さんにAIみたい、って言ったのがバレてましたけど?」
そう言うと、文月さんはすんっとした顔で「報告書の提出は義務なので」とだけ簡素に返してきた。
(……まだ根に持ってたのか)
少し驚きつつも、別にこちらも謝ってやる義理はないので放っておくことにした。
「佐々木先生とはそれ以外に話をしましたか」
文月さんはバインダーに目を落としながらメモをする気満々で話しかけてくる。
俺は背をベッドに預けて、正面の白い壁を眺めた。
「……普通について話をしました。結論は出なかったけど」
「普通について?」
文月さんの問いに頷く。
「AIのくだりあるでしょ。それで俺が、文月さんみたいに感情が見えづらいと安心するって言ったんです」
そしたら、と続けた。
「『普通』は逆じゃない?と言われました。喜怒哀楽の分かりやすい方が、人は安心するんじゃないの?って」
相手の顔色を伺う必要がないんだから、と不思議そうに言っていた佐々木先生の柔和な顔を思い出す。
「それで『普通』って何だろうと思って。前にも、文月さんに『普通に悲しんでるだけだ』って言われましたけど、俺の中では、何だか普通が色々ごちゃ混ぜになってる気がして」
「……というと?」
文月さんは俺が何を言いたいのか汲み取れなかったらしく、顔を見つめてくる。
「うーん。なんか、人としての普通って定義がないものであるはずなのに、『普通』っていう言葉がありふれているなぁ、と」
そう言えば、康祐さんは「普通は」とか使わない人だった。
彼からそう言ったありふれた言葉を聞いたことがない。
いろんな本を沢山読む人だったから、固定観念が嫌いだったのかもしれない。
……だから、俺と一緒にいてくれたのかな。
そういうところが大人びていて好きだった。
俺は無意識に右手の薬指のリングをいじっていた。
しばらく黙っていると、おもむろに文月さんがバインダーを閉じて、口を開いた。
「普通って言葉は、語彙力のない人間が世界を分かった気になりたくて使うだけの、何でもない言葉だと思います」
「え、……それ『普通』って使ったあなたが言います?」
思わぬ意見に俺は思わず吹き出してしまった。
「ああいや、私はあの時『普通』をあなたに押し付けたくて言った訳じゃないです」
「ん……?」
文月さんは、少し心許なげに自分の手を遊ばせつつ続けた。
「私の浅はかなところでした。普遍的な言葉の方が伝わるかと思って、『普通の感情です』と伝えてしまいました。けど、普通・一般的には・みんなは……という言葉たちは主語が大きいから、俺は、あまり使いたくないと常々思っていたんです」
「へえ……」
そうか。
確かに、「普通は」「一般的には」「みんなは」……これらの主語は「大衆」を表しているように聞こえるし、実際そうだもんな。
「けれど、ここで色々な患者さんと話していると『普通である』ことを大切にしている人が多いことに気がついて、個人的な思想みたいなものは封印してました」
淡々と話す文月さん。
「バース性も相まってかもしれませんが、『普通』という思想に取り憑かれて疲れてしまう人が多いのに、その『普通』を渇望する人の方が多いんです」
皮肉にも、と文月さんは付け加えた。
その言葉を聞いて、俺は何となくベッドから背を離して気になったことを率直に聞いていた。
「ねえ、文月さんはどうしてカウンセラーになったんですか?」
自分だったら選ぶだろうか。
自分みたいな相手の話を聞き、諭すような、宥めるような仕事。
……それで、本当に人が救われるかも分からないのに。
「……当時の自分が、浅はかで傲慢だったから、だと思います」
彼の静かな瞳の意味を俺は理解できない。
やはり、感情が表に出る方はわかりやすいという佐々木先生の言葉は当たっていると、この時は思った。
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