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第2章
#6
しおりを挟む(でも……)
「文月さんは、精神科医を目指さないんですもんね」
退院した日、俺の部屋へ来た時に文月さんが言った言葉を思い出しながら言えば、彼は手元の栄養ドリンクを弄びながら「はい」と返してくる。
ふと、彼が顔を上げた。
髪を切る時間がないのだろうか。
ほんの少し伸びた気がする。
「俺、文月さんの距離感が割と好きだったから、向いてるだろうなぁって思ってたんで……ちょっと残念というか」
人の進路に口を出すほど野暮じゃない。
でも、佐々木先生と文月さんのコンビは良かったように思うんだ。
「まあでも、文月さんが小児科に行くなら、俺と文月さんって元患者?」
おにぎりの残りを口に頬張って、手をぱぱっと払う。
文月さんは、少し考える素振りを見せつつ言った。
「……所詮俺は研修医なので……俺の『元患者さん』と呼べるほどの位置に俺はいないかと」
(ふーん……佐々木先生の下についてるだけだからってこと?)
俺は、文月さんを見る。
「だからもう俺の前では、一人称を『俺』にしてるんですか?」
そう言ってやれば、文月さんはハッとしたような顔で自分の口に手を当てていた。
「すみません、……なんだか気が緩んでたみたいで……」
謝る文月さんに少し笑ってしまう。
「真面目すぎますって。良いですよ。ってか俺はそっちの方が文月さんらしくてラクです」
そう言えば、文月さんは俺を見つめる。
「……ラク、ですか?」
「はい、ラクです」
少し心配げな声に、安心させるように頷けば、文月さんは満足したのか栄養ドリンクの中身を一気に飲み干した。
「……それ、カフェインすごいからあんま飲まない方が良いですよ」
……って、康祐さんに注意されたんだけどね、昔。
俺が今は亡き恋人の真似事をすれば、文月さんは少し微笑んだ。
「……最近、立て込んでて。でも、そうですね……飲まない方が良い」
どこか遠くを見つめるように文月さんの瞳は、ぼんやり前を見ていた。
「……何か、あったんですか」
なんとなく、聞いてしまった。
なんとなく、……聞かないといけないような気がして。
彼がこの初夏の陽気と一緒にどこかに消えてしまいそうな、……良くない想像がなんでか巡ってしまったから。
文月さんの瞳が俺を捉える。
遠くを見ているより、俺を映している方がマシだ。
まだ心の所在がどこにあるのかがわかる気がするから。
追い詰められて……いるんだろうか。
俺が何かをしてやる義理はない。
だって、文月さんにお礼を言った時だって「仕事だから」と彼は言ったんだから。
俺が恩義を感じる必要は、……本来ならないんだ。
でもどうしてか今は、入院していた時の自分と今の文月さんの姿が重なって胸がザワザワするんだ。
「……いえ」
文月さんは俺から目を逸らして俯いた。
瞳が前髪で翳る。
(守秘義務……とか、だろうか)
仕事のことなら確かに俺には話せないよな。
(あ、じゃあ……)
「文月さん」
俺の呼びかけに、文月さんは顔を上げてくれる。
やはり落ち窪んだ目とかさついた唇、ほんの少し艶を失っているような髪を見ると、……アルファの飢餓症状に近いような気がする。
素人目だけど、オメガの勉強と同じくアルファの勉強もしたから分かるんだ。
もちろん、教科書にあることしか分からないけど……。
(もしかして、文月さんには運命の番がいる……?それとも、『いた』……?)
「……えっと、……俺に何かできること、あったりしますか?」
「え?」
文月さんの驚いた顔に、俺は頬を掻いて笑う。
「……なんとなくですけど、……困ってるんじゃないかなと思って」
いや!不要なら良いんです、と付け加えると、文月さんは俺をじっと見つめたまま動かなくなってしまった。
でも、俺は文月さんとの「対話」がとても心地よかった。
佐々木先生の診察だけだったら確実に、今もまたあの地獄の生活に戻っていた自信がある。
……いや、佐々木先生のカウンセリングを受けたことないからわかんないけど。
でも、文月さんにとっては仕事だとしても、俺にとっては「人生の再起」とも言える7日間だった。
それを共に過ごしてくれた恩義は、やっぱりなくならないと思うんだ。
無表情の彼が動きまで止めてしまうと、精巧に作られた陶器人形のようでなんだか、不気味と美しさが共存しているような気分になる。
「文月さん?」
固まり続ける彼に首を傾げると、文月さんは、ふ、と柔らかく微笑んだ。
「まるで立場が逆転しましたね」
端正な顔に覗き込むように目を細めて微笑まれ、なんでか胸の奥がきゅうっと苦しくなる。
俺は、いやいやと慌てて手を振る。
「医療行為の真似っこがしたいんじゃなくて……っ」
「ふふっ……分かってますよ」
文月さんは微笑みながら「……お気遣い、ありがとうございます」と言う。
「い、いえ……」
そんな、なんか綺麗に受け流されたら恥ずかしいじゃんか。
何かないのかよ……と、心の中で文月さんの余裕そうな笑みに悪態をついていると、ふと、文月さんが口を開いた。
「じゃあ……カウンセラーと患者ではない、次の名前を考えてみませんか?」
「……へ?」
長いまつ毛に縁取られた深い黒の瞳には、間抜けな顔をした俺だけが反射して映し出されていた。
「……美澄さんが良ければ、ですけど」
(それは、どういう……)
どういうことですか、と聞くには勇気が出なかった。
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