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第3章
#4
しおりを挟む頭がズキズキと痛む。
もう何日寝ていないのだろう。
朝日を見るのが怖くなって、減っていく通帳の残高を見るのも怖くなった。
数週間前にカオリさんが作り置きしてくれた食べ物たちがなかったら、また、食べられずに倒れていたかもしれない。
カオリさんが元気に「またくるから!まあ元気だしな!」と帰っていった後も、ずっと……今も、頭の中にはあの言葉が響いて離れなかった。
――甘い香り。
一度だけ、嗅いでしまったことを思い出す。
それは、……文月さんの手に触れた時だ。
あの時は彼の服の匂いか、誰かがお菓子でも食べていたのかそのくらいで留めていたから何も考えていなかった。
だって彼は俺の元カウンセラーで、……医者と患者という境界線を引いた関係性だった。
(でも、)
あの時の文月さんと、今の俺の憔悴の仕方が似ているのは事実だった。
顔も、髪も、肌も――……。
お互いのフェロモンを渇望する、嫌な本能がむき出しのこの見目が、今はとてつもなく醜く思えて嫌で、嫌で、仕方ない。
顔を猛烈に掻きむしりたくなるけれど、そんなことをしたらまた周藤たちによって病院送りにされてしまう。
病院なんかに行ったら、今度こそ……。
今度こそ、俺と康祐さんの関係が、終わってしまう。
そんな気がして、嫌だった。
半年後に来てくれと言われて残り2ヶ月ほどあるけれど。
もうこのまま行かなくても。
というか、行かないほうが良いに決まってる。
(だって、もし彼と会ってしまったら)
その時、ブーッブーッと携帯のバイブ音が鳴った。
どうせ、周藤夫妻のどちらかだろうと思い、画面を見て、俺の呼吸は一瞬止まった。
「え?」
画面に表示されていたのは、『康祐さんの名前』だった。
(いや……いやいやいや)
あれ、康祐さんの携帯って亡くなった後、どうしたんだっけか。
あ、そうか……。
(ご家族に返したんだ……)
鳴り止まない着信を知らせるバイブ音に、俺は仕方なく「応答」の文字をタップした。
心臓の音がうるさくて、全ての雑音が遠く感じる。
「……もしもし」
と、小さく返せば、向こうからは少し息を飲むような気配がした。
俺は何も言わず、胸の鼓動がおさまるように手を当てて、目を瞑る。
ディスプレイは『康祐さん』なのに、話しているのは康祐さんじゃない。
その事実がまた、康祐さんのいない現実に引き戻された気がして、ようやっと共存できたはずの康祐さんが、俺から乖離していくような感覚に、苦しさを覚えた。
電話の向こうからは何も聞こえない。
俺はもう一度「もしもし」と声をかけた。
すると、意を決したように『あの……』と控えめな女性の声が返ってきた。
「はい……」
慎重に返事をすると、『美澄……要さん、で合っていますか』と丁寧な質問が返ってきた。
「はい、美澄です」
そう返せば、安堵したような息の音が聞こえるもまたすぐ、緊張したように話しかけてきた。
『私、藤間 康祐の母の、ミドリと申します』
「あ……は、初めまして……」
康祐さんの両親と話すのは初めてだった。
婚約まではしても、彼の両親は俺と会おうとはしてくれなかったから……。
それが今更、どうしたと言うのだろう。
『あの……美澄さん』
母親――ミドリさんの言葉に耳を傾ける。
「はい」
『生前、うちの息子……康祐とお付き合いしてくださっていました……よね?』
ど直球なその質問に俺は、笑えばいいのか泣けばいいのかわからず、少し喉の奥を押さえて「……はい」とだけ呟いた。
ミドリさんは少し息を吸って、言った。
『……もし、よろしければ、ご都合の良い日にうちへ来ていただけませんか?』
「……へ?」
思わぬ言葉に俺は気が抜けて、間抜けな声で返事をしてしまった。
しかし、ミドリさんは情緒を変えずに同じトーンで話を続ける。
『……この携帯を解約しなければと思って、最後に何か大切な情報がないか見ていたら、……あなたとのチャットを見てしまって……』
(なんて恥ずかしい……)
人様にチャットを……しかも交際相手の親に見られるとは。
恥ずかしいやら悲しいやら、俺はバレないようにこっそり息を深く吐いていた。
「すみません……お見苦しいものを……」
特段何かいやらしいものを送っていたわけじゃない。
同棲していたから、チャット数は少なかったはず。
あれ買ってきて、とか、これまだ家にあるよ、とか今から帰るねとか。
そんなありふれたただの日常が、そこに残っているだけのはずだ。
『あ、いえ……。そういう意味ではなくて……その……』
ミドリさんは少し言い淀んだ後、はっきりと伝えてくれた。
『携帯を解約してしまう前に、康祐が最期に会っていただろう貴方とお話がしてみたい、と思ったんです……』
俺は、ミドリさんの言葉に、無意識に呟いていた。
「……ぜひ、伺わせてください」
通話を終えた履歴画面には、やっぱり『康祐さん』の文字だけが虚しく残っていた。
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