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第3章
#9
しおりを挟む「だから、孫とかそんなんじゃなくて『康祐に愛されていたあなた』に会ってみたかった……」
ミドリさんは、そっと俺の手に触れる。
俺は肩をびくりと震わせた。
「こんなに細いのは元から?……それとも、康祐のせいかな?」
私も10キロ痩せたの、なんて笑うミドリさん。
笑い事なんかじゃないのに、彼女はもう笑えるんだ。
俺はおもむろに口を開いた。
「……笑うのって、……苦しくなりませんか?」
ミドリさんはじっと俺の顔を見てくる。
手を触れたまま。
俺は視線を合わせることはできなかった。
「……俺は、自分が不意に笑ってしまった時、罪悪感を覚えます……。ああ笑っちゃったって。なんか自分が日常に戻ろうとしてるなぁって」
そう呟くと、ミドリさんは「本当にねぇ」と面白そうに言った。
「康祐が置いていくから、そう思っちゃうわよねぇ」
なんでもなさそうに言うミドリさん。
触れるだけだった手は、ぎゅっと握り直された。
「……私もそう思う時があるの。今も、康祐はあの7日間苦しんでいたのに、なんで私は今笑ったんだろうって」
生きてることも、全てが疑問だった。とミドリさんは続けた。
「けどねぇ。やっぱり人間も動物なんだなぁって思うのよ。生存本能かしらね。あんなに何も喉を通らなかったのに不思議と腹は鳴るようになるし、どれだけ眠れない日が続いても、ある日突然ころっと熟睡できちゃったりするのよね」
(分かる、かもしれない)
あれだけ苦しんでいた日々が嘘のように、今は何かしらでも食べようとしている。
佐々木先生や文月さんのおかげだと思っていたけど、もしかしたらミドリさんが言うように動物的な本能なのかもしれない。
「だからそういう時は、食べて寝るしかないの。食べて寝て、明日の絶望にまた備えるの。……息子は死んでしまったけど、私は生きていて、まだ高校生のもう一人の息子のそばにいてやらなければいけない」
日常を受け入れて生きている。
ミドリさんの瞳には、母親としての強さが滲んでいるように見えた。
俺は、握られた手を見つめる。
カサついた女性の小さな手。
家事や仕事で荒れてしまっているのだろうか。
ハンドクリームとか買ってきてあげればよかった。
(……お母さんなんて、もうとっくに居ないから……気づかなかったや……)
ぽた、とミドリさんの手の上に一滴、雫が落ちた。
「え?」
視界にはぽたぽたとミドリさんの手が濡れていくのが見えて、俺は目を見開く。
「っえ、あ、俺、ご、ごめんなさい……っ」
慌てて目を拭い、自分のスーツの袖でミドリさんの手を拭いた。
アルコール消毒とかしたほうが良いだろうか。でもそんなものないし、あ、手を洗ってもらおう、その方がいい……。
そう思っていた時、体がゆっくり傾いてぎゅっと抱きしめられた。
暖かい、女性の柔らかい体。
康祐さんや周藤に抱きしめられた時とは違う小さなサイズに、俺は違和感を覚えるも、同時に……母親に抱きしめてもらった時のような静かな愛が心に染み込む気がして、何も言うことができなかった。
「ごめんね、要くん。……わたしたちが不甲斐ないばかりに、辛い思いをたくさんさせてしまってごめんね……っ」
抱きしめられつつ、頭上からたくさんの謝罪が降り注ぐ。
そんなもの言ってもらえるような人間じゃないのに。
俺はしばらくミドリさんの腕の中で啜り泣いた。
母親に縋るように……。
いや、康祐さんと重ね合わせたのかな。
香りは康祐さんと一緒だった。
……クッキーのような、美味しいような静かな香り。
心臓を鷲掴みにされるような匂いではなくて、じゅわりと心に染み込む優しい匂い。
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