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五十八 修行、唄について
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しゅぎょう、うたについて
やはり、蓮は小学生の部で優勝し、さらに「特別賞」も追加受賞となった。
「ハマ子さんは出場しなかったんですね」
「後藤さん、当たり前でしょ。素人ののど自慢大会に、プロが出たら反則でしょ」
「あ、そうか」
一同笑う。
祭りなんだから、飲みながら取材でいいじゃないか、ということになり、ハマ子が腕を振るう。
舞茸の天ぷら。
「え、もう、舞茸なんて採れるんですか。夏なのに」
ハマ子は首を振る。
「違う、去年の舞茸。塩漬けにしていたのを、塩抜きして、天ぷらにしたの。それより、温かいうちに食べて」
「はい、いただきます」
サクサク、と皆の食べる音がする。
「ちょっと、松本さん。これ、なんでこんなに美味しいの」
「うん、全く、塩漬けしていた舞茸とは思えない。なんでも美味しいですね、こちらは」
ハマ子が受け合う。
「そうでしょ。私もそう思って、ここに住むことにしたの。それだけではないけどね」
「十年前ですね」
いきなり、取材の続きが始まった。
「そう、お父さん(夫・蓮蔵)とね。もう一回、原点に戻ろうってね。祖母や父母のようにね。巡業して周ってたんです。東北の村々をね。祭りに飛び入りしたりね。ま、もっとも、湯治して周ってたみたいなもんだけどね。もう歳だから、人生の締めくくりだと思ってね」
ハマ子は今朝よりもずっと饒舌だった。
「そしたら、ここに来て、銀山温泉に居たときだった。悪阻。最初は病気だと思ってね、覚悟したら。医者で、子供だよ、って言われて、腰抜かしたのよ」
「すみません、何歳でしたか」
「産んだのは、五十二」
「え、よく・・・」
「そう、先生産めないですよね、って訊いたら。いや、あなたなら大丈夫そうだ、て。何よね、大丈夫そうだってね。無責任な」
深刻な話でも、笑いにするハマ子である。
「すごいですね。でも、先生の診立てどおり、無事に出産された」
「なんだろうね。やっぱり、生れてきたい命は、どうしたって生れてくるんだね。やだ、私、余計なことばっかり喋って、どんどん食べてね」
皆、まずは腹ごしらえで、黙々と食べ始めた。松本が断りを入れる。
「ハマ子さん、食べ終わってから、続き、お願いします。これ、ほんと美味しい」
蓮蔵は、酒をちびりちびりとやり、ナスの塩漬けを食べている。
「そう、蓮くん。今日はすごかったね。おばさんびっくりした。プロ顔負けじゃない」
蓮は、照れ笑い返しただけで、答えない。
夏の盛り。盆地のこの地は、風がピッタリとやんでしまった。
「天ぷらに食べ合わせは悪いけど、スイカ出しますね。名物なので」
尾花沢スイカ。
後藤が空かさず反応する。
「あ、私知ってますよ。これ、東京にも売りに来るから」
「え、そうなの、知らなかった」
「本場のスイカ。ご馳走になります。食べ合わせなんて、迷信でしょ」
「後藤さんは、食いしん坊ね」
昭和の時代。「尾花沢スイカ」は東京にもトラックで売りに来ていたという。だから、現在よりも、昭和の中頃のほうが、そのブランド名は浸透していたのだ。
それらもすっかり、食べ終わり、取材が再開した。
「それではまず、修行についてお聞きしたいのですが、何歳から始められましたか」
「明治四十二年(一九〇九年)、小学校に入学した年から、まず三味線を父に習いはじめました。後から知ったのですが、あの白川軍八郎と、太宰治が生れた年だそうです。青森大火の前の年です」
「凄い大火事だったんですよね」
「出火は昼間だったそうでね。日が暮れる頃まで燃えてたそうです。全部焼けて、あの、淡谷のり子さんの家も被害にあわれたみたいですね。だから、父たちの青森巡業もできなくなって」
「青森は、昔から大火事が多かったんですよね。話を戻しますが、巡業ができなくなって、かえってハマ子さんの稽古をしっかり付けられたのですかね。唄はお母様からですか」
「はい、もちろん、父の唄も聴いて覚えたんですが、唄の基本は母ですね。ちょっとこだわりがありましたからね、母は」
「唄に対するこだわりですか」
「そう、私の家の伝統で、瞽女唄も、端唄、長唄もぜんぶ覚えるのです。そこまでは、ハマばあさん流なんですが、そこからが母のこだわりで、里謡は、唱歌を歌うように歌え、と良く言われたものです」
「唱歌ですか」
「はい、母は、あの時代の津軽では珍しく、女で、小学校に入って、学校で唱歌を習ったそうです。それで、その唱歌が、あまりにも自分が親から、祖母から習った唄が違うということで、その影響ですよね」
「すみません、その違いというのは。里謡、いわゆる民謡ですね。それと唱歌、まったく違いますよね」
「そうですね。メロディのことを言っていたのですよね。昔の里謡、民謡は、やはり瞽女唄や、端唄、長唄から出来てきたので、抑揚が少ないでしょ。それが母には物足りない、と思うようになったのでしょう。母は、その違いを歌いながら私に、こんなに違う、解るだろって何度も教え込んだんです」
「なるほど。里謡や民謡も、唱歌みたいに抑揚豊かに歌え、ということですか」
「そうです、そう」
「それでも、唄のメロディは変えられないですよね。編曲でもしないかぎり」
「そう、そうなんです。実際、父が編曲するんです。節回しとか、父の三味線の伴奏を少し変えてね、歌に合わせて。そうすると、やっぱり、抑揚が変わってきます」
「なんとなく、分かります」
「今の民謡はね、昔の「俚謡」と違いますよ。抑揚がある。昔のレコード聴いてみたら誰でも分かります。だから、昭和に入って、民謡はすごく変わったんです。その変わった後の民謡しか、今の人は知りませんね。ま、もっとも、今更昔の民謡を唄ってくれ、と言われてももうできないですよね。とにかく瞽女唄と里謡は、区別が付かないくらい似通ってる。父母がやっていたことは、今想えば、新民謡づくりと同じ事だったんだと思いますよ」
ハマ子の考えでは、新民謡ムーブメントは、何も作曲家だけの話ではなく、民衆の中で自然発生的に始まっていた、と言うのであった。
「やはり唄にかけては、プロ意識が強かったんですね、お母様は。そんな中、修行時代の、特にこれは大変だった、ということありますか」
「そうですね。まあ、何でも大変だったと言えば大変だったし、みな楽しかったといえば楽しかったけどね。津軽はね、凶作が多くてね、昔から。うちは、父の実家が富農だったから、幸いにも食べるに困ったことがないけどね。でも、貧しいから、病気も多いでしょ、流行病ね。うちのお父さん(蓮蔵)の実家などは貧しくてね。六つの時に麻疹で目が見えなくなったって。私の祖母と同じでね。明治も終わり頃なのに、まだ、そういう人が多かった時代。どこも同じようなものだったでしょうけどね」
「明治時代は、全国どこでも多かったそうですね」
ハマ子は自ら話しを唄に戻す。
「唄の修行は楽しかったですよ。私は恵まれていたんですよね。苦労人はお父さん(蓮蔵)のほうで、いわゆる、津軽の坊様ですから、この高橋蓮蔵という人は」
「すみません、それでは、蓮蔵さん。少し、昔の話をお聞きしていいですか」
「うん、俺が」
蓮蔵は、座り直して、黙々と語りだした。
「生れは、明治三十九年。東津軽郡中平内村福館。数え七づ、麻疹でだいだぇ全部見えねぐなった。翌年、縁あって、同ず村の小湊の坊様、戸田重次郎さ弟子入りすたんだ。この師匠は、あの長作坊さ三味線習ったふと(人)。通いで、二年。て言っても、授業料払えねはんで、農作物どが、そったもの持ってね。持っていぐものがあれば行って、無ぇば行がねで。あどは自己流で、門付げすてまわって、そごでもらったもの持っていったり。修行途中で、授業料稼ぐだめに門付げす始めだんだはんで、順番逆だね。そえで、二年。やっと、師匠がら、もう教えるごど無ぇ、と言われで、本格的さ門付げすて回るようになった。それは食うだめのごどだったね」
ハマ子が補足する。
「典型的な坊様だね。そういう坊様がごっろごろ居たのよ、あの当時。一番最初が、仁太坊で、その弟子の長作坊、嘉瀬の桃という人。お父さんが生れた頃は、あの初代の津軽家すわ子も、二十歳ぐらいで唄会、巡業ともう大活躍の時代ね」
「次から次へと名人が出てきた時代ですね。そういう時代で、やはり、少し変わっていたわけですね、ハマ子さんは」
「うん、出どころは一緒なんだけどね。仁太坊に三味線を教えたのも瞽女だったというし、私の父、タキゾウも、瞽女だった祖母に教わったわけだから。ただ、違うのは、祖母のハマは、瞽女のあとに芸姑の修行もしたという変わり種。だから、厳密には、タキゾウも芸子ということになるし、だから、旅回りの一座から声がかかったし、歌舞伎と一緒に芝居小屋で巡業できたんですよね、きっと」
「それはつまり、素人ではなく玄人ってことですかね」
「そうそう、父はね、俺は本職だから、とよく言ってました」
「なるほど、それが矜持だったということですね、お父様の」
「でもね、それが邪魔した部分もあったんですよね」
「というのは」
「本職として座敷に上がったり、豪農の家に呼ばれていって三味線を弾いて唄えば、お金になる。旅回りの歌舞伎座と回れば、それなりに金になる。でも、私の時代になると、やはり、レコードでしょ。レコードで歌いたくてね、私は。気がつけば、そのために必死になってましたね」
「ちょっと、その話の前に・・・」
「ごめんなさい、また飛びましたね」
「いえいえ、繰り返しですみませんが、もう一度、立浪春子に襲名したのは何歳のときですか」
「え、今朝、少し話しましたが、十二の時に、「立浪」を襲名したんです。これは祖父の屋号、というか名字。その「立浪」で長く活動していました。母と一緒に座敷でやったり、父が建元になって作った、『十三の勝太郎一座』でも、弘前、青森を旅回りもしました。あ、勝太郎は、父の出世名ね」
「その勝太郎一座ができたのはいつ頃ですか」
「私が十五、いや十六の時だから、ええと、大正八年だね。ちょうど、そうだ、三味線ブームのあたり。そう言えば、私の一座にあの白川軍八郎が加わった時期もあったんですよ。もう、あちこちで、唄会巡業がさかんで。この間、お父さんとも、あの時代の話をしたんだけど、結局、三味線ブームと言いながら、あれは『唄会ブーム』で、あの頃から、三味線は伴奏楽器で、唄が主、主人公になったんだね。ただ、あのブームが起きたおかげで、民謡は変わった。良い唄がいっぱい出来たんだね、って」
松本が頷いた。
「私も勉強しました。新民謡、に繋がっていく、ということですね」
「そういうことです」
「じゃあ、ハマ子さんも、その唄会ブームで、かなりいろいろなところで唄いましたか」
「うん、唄ったけど、あまり記憶が無くてね。なんかリンゴ農家に働きに行って、昼休みに唄って聴かせてた記憶のほうが、良く残ってるのよ。おそらくね、巡業に飽きてたんだね。やっぱりレコード、どうしたらレコードで歌えるか、のほうが興味があったんだね」
「やはり、それが目標でしたか」
「なんだろうね、若かったね。津軽民謡大会で優勝すれば、レコード出せたかもしれないけど、優勝出来なかった」
「それは、何年ですか」
「第一回の青森県の、民謡大会。お父さん、何年あれ」
ハマ子は、わざと蓮蔵に振った。
「昭和九年だ。三陸大地震の翌年」
ハマ子が、引き取る。
「大津波が発生してね。いっぱい死んだ」
「三千人以上が犠牲になったんですよね」
ハマ子は、松本の説明に付け足すように言った。
「不思議なことに、父がたまたま、その朝亡くなったんです。心臓発作だったね、あれはたぶん」
やはり、蓮は小学生の部で優勝し、さらに「特別賞」も追加受賞となった。
「ハマ子さんは出場しなかったんですね」
「後藤さん、当たり前でしょ。素人ののど自慢大会に、プロが出たら反則でしょ」
「あ、そうか」
一同笑う。
祭りなんだから、飲みながら取材でいいじゃないか、ということになり、ハマ子が腕を振るう。
舞茸の天ぷら。
「え、もう、舞茸なんて採れるんですか。夏なのに」
ハマ子は首を振る。
「違う、去年の舞茸。塩漬けにしていたのを、塩抜きして、天ぷらにしたの。それより、温かいうちに食べて」
「はい、いただきます」
サクサク、と皆の食べる音がする。
「ちょっと、松本さん。これ、なんでこんなに美味しいの」
「うん、全く、塩漬けしていた舞茸とは思えない。なんでも美味しいですね、こちらは」
ハマ子が受け合う。
「そうでしょ。私もそう思って、ここに住むことにしたの。それだけではないけどね」
「十年前ですね」
いきなり、取材の続きが始まった。
「そう、お父さん(夫・蓮蔵)とね。もう一回、原点に戻ろうってね。祖母や父母のようにね。巡業して周ってたんです。東北の村々をね。祭りに飛び入りしたりね。ま、もっとも、湯治して周ってたみたいなもんだけどね。もう歳だから、人生の締めくくりだと思ってね」
ハマ子は今朝よりもずっと饒舌だった。
「そしたら、ここに来て、銀山温泉に居たときだった。悪阻。最初は病気だと思ってね、覚悟したら。医者で、子供だよ、って言われて、腰抜かしたのよ」
「すみません、何歳でしたか」
「産んだのは、五十二」
「え、よく・・・」
「そう、先生産めないですよね、って訊いたら。いや、あなたなら大丈夫そうだ、て。何よね、大丈夫そうだってね。無責任な」
深刻な話でも、笑いにするハマ子である。
「すごいですね。でも、先生の診立てどおり、無事に出産された」
「なんだろうね。やっぱり、生れてきたい命は、どうしたって生れてくるんだね。やだ、私、余計なことばっかり喋って、どんどん食べてね」
皆、まずは腹ごしらえで、黙々と食べ始めた。松本が断りを入れる。
「ハマ子さん、食べ終わってから、続き、お願いします。これ、ほんと美味しい」
蓮蔵は、酒をちびりちびりとやり、ナスの塩漬けを食べている。
「そう、蓮くん。今日はすごかったね。おばさんびっくりした。プロ顔負けじゃない」
蓮は、照れ笑い返しただけで、答えない。
夏の盛り。盆地のこの地は、風がピッタリとやんでしまった。
「天ぷらに食べ合わせは悪いけど、スイカ出しますね。名物なので」
尾花沢スイカ。
後藤が空かさず反応する。
「あ、私知ってますよ。これ、東京にも売りに来るから」
「え、そうなの、知らなかった」
「本場のスイカ。ご馳走になります。食べ合わせなんて、迷信でしょ」
「後藤さんは、食いしん坊ね」
昭和の時代。「尾花沢スイカ」は東京にもトラックで売りに来ていたという。だから、現在よりも、昭和の中頃のほうが、そのブランド名は浸透していたのだ。
それらもすっかり、食べ終わり、取材が再開した。
「それではまず、修行についてお聞きしたいのですが、何歳から始められましたか」
「明治四十二年(一九〇九年)、小学校に入学した年から、まず三味線を父に習いはじめました。後から知ったのですが、あの白川軍八郎と、太宰治が生れた年だそうです。青森大火の前の年です」
「凄い大火事だったんですよね」
「出火は昼間だったそうでね。日が暮れる頃まで燃えてたそうです。全部焼けて、あの、淡谷のり子さんの家も被害にあわれたみたいですね。だから、父たちの青森巡業もできなくなって」
「青森は、昔から大火事が多かったんですよね。話を戻しますが、巡業ができなくなって、かえってハマ子さんの稽古をしっかり付けられたのですかね。唄はお母様からですか」
「はい、もちろん、父の唄も聴いて覚えたんですが、唄の基本は母ですね。ちょっとこだわりがありましたからね、母は」
「唄に対するこだわりですか」
「そう、私の家の伝統で、瞽女唄も、端唄、長唄もぜんぶ覚えるのです。そこまでは、ハマばあさん流なんですが、そこからが母のこだわりで、里謡は、唱歌を歌うように歌え、と良く言われたものです」
「唱歌ですか」
「はい、母は、あの時代の津軽では珍しく、女で、小学校に入って、学校で唱歌を習ったそうです。それで、その唱歌が、あまりにも自分が親から、祖母から習った唄が違うということで、その影響ですよね」
「すみません、その違いというのは。里謡、いわゆる民謡ですね。それと唱歌、まったく違いますよね」
「そうですね。メロディのことを言っていたのですよね。昔の里謡、民謡は、やはり瞽女唄や、端唄、長唄から出来てきたので、抑揚が少ないでしょ。それが母には物足りない、と思うようになったのでしょう。母は、その違いを歌いながら私に、こんなに違う、解るだろって何度も教え込んだんです」
「なるほど。里謡や民謡も、唱歌みたいに抑揚豊かに歌え、ということですか」
「そうです、そう」
「それでも、唄のメロディは変えられないですよね。編曲でもしないかぎり」
「そう、そうなんです。実際、父が編曲するんです。節回しとか、父の三味線の伴奏を少し変えてね、歌に合わせて。そうすると、やっぱり、抑揚が変わってきます」
「なんとなく、分かります」
「今の民謡はね、昔の「俚謡」と違いますよ。抑揚がある。昔のレコード聴いてみたら誰でも分かります。だから、昭和に入って、民謡はすごく変わったんです。その変わった後の民謡しか、今の人は知りませんね。ま、もっとも、今更昔の民謡を唄ってくれ、と言われてももうできないですよね。とにかく瞽女唄と里謡は、区別が付かないくらい似通ってる。父母がやっていたことは、今想えば、新民謡づくりと同じ事だったんだと思いますよ」
ハマ子の考えでは、新民謡ムーブメントは、何も作曲家だけの話ではなく、民衆の中で自然発生的に始まっていた、と言うのであった。
「やはり唄にかけては、プロ意識が強かったんですね、お母様は。そんな中、修行時代の、特にこれは大変だった、ということありますか」
「そうですね。まあ、何でも大変だったと言えば大変だったし、みな楽しかったといえば楽しかったけどね。津軽はね、凶作が多くてね、昔から。うちは、父の実家が富農だったから、幸いにも食べるに困ったことがないけどね。でも、貧しいから、病気も多いでしょ、流行病ね。うちのお父さん(蓮蔵)の実家などは貧しくてね。六つの時に麻疹で目が見えなくなったって。私の祖母と同じでね。明治も終わり頃なのに、まだ、そういう人が多かった時代。どこも同じようなものだったでしょうけどね」
「明治時代は、全国どこでも多かったそうですね」
ハマ子は自ら話しを唄に戻す。
「唄の修行は楽しかったですよ。私は恵まれていたんですよね。苦労人はお父さん(蓮蔵)のほうで、いわゆる、津軽の坊様ですから、この高橋蓮蔵という人は」
「すみません、それでは、蓮蔵さん。少し、昔の話をお聞きしていいですか」
「うん、俺が」
蓮蔵は、座り直して、黙々と語りだした。
「生れは、明治三十九年。東津軽郡中平内村福館。数え七づ、麻疹でだいだぇ全部見えねぐなった。翌年、縁あって、同ず村の小湊の坊様、戸田重次郎さ弟子入りすたんだ。この師匠は、あの長作坊さ三味線習ったふと(人)。通いで、二年。て言っても、授業料払えねはんで、農作物どが、そったもの持ってね。持っていぐものがあれば行って、無ぇば行がねで。あどは自己流で、門付げすてまわって、そごでもらったもの持っていったり。修行途中で、授業料稼ぐだめに門付げす始めだんだはんで、順番逆だね。そえで、二年。やっと、師匠がら、もう教えるごど無ぇ、と言われで、本格的さ門付げすて回るようになった。それは食うだめのごどだったね」
ハマ子が補足する。
「典型的な坊様だね。そういう坊様がごっろごろ居たのよ、あの当時。一番最初が、仁太坊で、その弟子の長作坊、嘉瀬の桃という人。お父さんが生れた頃は、あの初代の津軽家すわ子も、二十歳ぐらいで唄会、巡業ともう大活躍の時代ね」
「次から次へと名人が出てきた時代ですね。そういう時代で、やはり、少し変わっていたわけですね、ハマ子さんは」
「うん、出どころは一緒なんだけどね。仁太坊に三味線を教えたのも瞽女だったというし、私の父、タキゾウも、瞽女だった祖母に教わったわけだから。ただ、違うのは、祖母のハマは、瞽女のあとに芸姑の修行もしたという変わり種。だから、厳密には、タキゾウも芸子ということになるし、だから、旅回りの一座から声がかかったし、歌舞伎と一緒に芝居小屋で巡業できたんですよね、きっと」
「それはつまり、素人ではなく玄人ってことですかね」
「そうそう、父はね、俺は本職だから、とよく言ってました」
「なるほど、それが矜持だったということですね、お父様の」
「でもね、それが邪魔した部分もあったんですよね」
「というのは」
「本職として座敷に上がったり、豪農の家に呼ばれていって三味線を弾いて唄えば、お金になる。旅回りの歌舞伎座と回れば、それなりに金になる。でも、私の時代になると、やはり、レコードでしょ。レコードで歌いたくてね、私は。気がつけば、そのために必死になってましたね」
「ちょっと、その話の前に・・・」
「ごめんなさい、また飛びましたね」
「いえいえ、繰り返しですみませんが、もう一度、立浪春子に襲名したのは何歳のときですか」
「え、今朝、少し話しましたが、十二の時に、「立浪」を襲名したんです。これは祖父の屋号、というか名字。その「立浪」で長く活動していました。母と一緒に座敷でやったり、父が建元になって作った、『十三の勝太郎一座』でも、弘前、青森を旅回りもしました。あ、勝太郎は、父の出世名ね」
「その勝太郎一座ができたのはいつ頃ですか」
「私が十五、いや十六の時だから、ええと、大正八年だね。ちょうど、そうだ、三味線ブームのあたり。そう言えば、私の一座にあの白川軍八郎が加わった時期もあったんですよ。もう、あちこちで、唄会巡業がさかんで。この間、お父さんとも、あの時代の話をしたんだけど、結局、三味線ブームと言いながら、あれは『唄会ブーム』で、あの頃から、三味線は伴奏楽器で、唄が主、主人公になったんだね。ただ、あのブームが起きたおかげで、民謡は変わった。良い唄がいっぱい出来たんだね、って」
松本が頷いた。
「私も勉強しました。新民謡、に繋がっていく、ということですね」
「そういうことです」
「じゃあ、ハマ子さんも、その唄会ブームで、かなりいろいろなところで唄いましたか」
「うん、唄ったけど、あまり記憶が無くてね。なんかリンゴ農家に働きに行って、昼休みに唄って聴かせてた記憶のほうが、良く残ってるのよ。おそらくね、巡業に飽きてたんだね。やっぱりレコード、どうしたらレコードで歌えるか、のほうが興味があったんだね」
「やはり、それが目標でしたか」
「なんだろうね、若かったね。津軽民謡大会で優勝すれば、レコード出せたかもしれないけど、優勝出来なかった」
「それは、何年ですか」
「第一回の青森県の、民謡大会。お父さん、何年あれ」
ハマ子は、わざと蓮蔵に振った。
「昭和九年だ。三陸大地震の翌年」
ハマ子が、引き取る。
「大津波が発生してね。いっぱい死んだ」
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