幕末群狼伝~時代を駆け抜けた若き長州侍たち

KASPIAN

文字の大きさ
39 / 152
第4章 野山獄

6 寅次郎、塾の主宰者になる

しおりを挟む
    久坂が九州各地を遊歴していたこの頃、実家の杉家に蟄居謹慎させられ、何もやることがない寅次郎は家族を相手に『孟子』の講義を行っていた。
 主な聴講者は父の杉百合之助や兄の杉梅太郎、外淑の久保五郎左衛門、叔父の玉木文之進とその息子の玉木彦介であり、最近は隣家の佐々木梅三郎なども講義に顔を出すようになっていた。
「仁は人の心也、義は人の路也、これらの孟子の言葉はよくよく味わうべきものなのであります」
 寅次郎は自身が幽閉されている四畳半の一室に、梅太郎と百合之助、叔父の文之進、五郎左衛門を呼び集め『孟子』の講義を行っていた。
「仁は即ち人の心、人の心は即ち仁なのであり、人の心を一つ一つ省察すれば、仁が体の外に出るということはなく、忠孝友悌はもちろん、不善不正であっても其の因る所が仁でないものはないのであります。また人を殺すのは不仁でありますが、殺すという心は仁であります。というのも仁は愛を主としているため、他人を愛そうが己を愛そうが同じ仁に該当するからであります。悪事が露見するのを恐れて人を殺すのも、虚仮にされたことに怒って人を殺すのもみな己を愛する故に起こることであり、もし愛がなければ人を殺すことも憎むこともないのであります」
 寅次郎は滔々と『孟子』の講義を行い、呼び集められた百合之助一同はただ黙って講義を聴いている。
「そして義は即ち人の行う所、人の行う所即ち義なのであり、君子も小人も共に日々行う所に義から出ないものはないのであります。また盗みそのものは不義でありますが、盗みを行うことは義であります。盗みといえども、金畠を盗んで自らを利するだけでなく、ある時はその同朋に分け与え、ある時はその妻子を養い、ある時は食貨を貪り、ある時は債責を塞ぐ、これ等はみな義でないものはないのであります。もし義でなければ、そもそも盗むことを必要としないのであります」
 寅次郎は講義を終えると、持っていた『孟子』の本を畳の上に置いた。
「今日の講義もなかなか奥が深い内容だのう、寅次」
 父の百合之助が感心した様子で言うと、叔父の文之進もその通りじゃと言わんばかりに何度も頷いた。
「父上が仰られる通りじゃ。恐らくそれも野山獄に入牢したお蔭で、寅次の学問がますます進んだからかもしれんのう」
 兄の梅太郎も父や叔父に賛同しているようだ。
「ありがとうございます。あの獄であの囚人達と過ごした日々こそ、僕の学問の糧であります。そして今、親兄弟を相手に学問の講義ができることは誠に幸せな事と存じちょります」
 寅次郎は自身の講義を聴いてくれた親族一同に対し、感謝の意を述べる。
「寅次郎殿に一つお頼み申したいことが御座いますがよろしいかのう?」
 どこか疲れた様子の五郎左衛門が寅次郎に尋ねた。
「何でしょうか? 久保殿」
 寅次郎は心配そうな様子で五郎左衛門に尋ね返す。
「儂が文之進殿から塾を引き継いで十余年、子供達にずっと学問を教えてきたことは寅次郎殿も御存じの事じゃと思うが、儂も今年でもう五十四、それに元々病気がちなこの身体には荷が重くて仕方ないのじゃ。そこでじゃ、儂が文之進殿から引き継いだ塾を寅次郎殿に継いで欲しいと思うちょるのじゃが如何かのう?」
 五郎左衛門は深々と寅次郎に頭を下げる。
「止してくだされ! 僕は野山獄を出たとはいえ、藩から実家に蟄居謹慎するよう申しつけられちょる罪人でございます! こうして貴方方に学問の講義をできるだけでも感謝せねばならぬ身の僕に塾の経営などとても……」
 寅次郎は慌てふためきながら五郎左衛門の申し出を断った。
「五郎左衛門殿の申し出を受けんさい、寅次郎」 
 文之進が寅次郎を叱りつけるようにして言う。
「前に文で儂に申しておったことを忘れたんか? もし獄の長となれた暁には福堂策を実施して、囚人達に学問や習字、その他諸芸を習わせるとそねー申しちょったぞ。獄の長になって囚人達に学問を施すことは敵わんかったもしれんが、その代わりにこの松本村の子供達に学問を施すことは今のお前ならきっとできるはずじゃ。なのにその好機を自ら投げる真似をするとは一体何事じゃ!」
 文之進が寅次郎にきつく説教する。文之進の威圧に気圧されたのか、寅次郎を含めその場に居た者達はみな黙りこくった。
 そしてしばらく沈黙が続いた後、その沈黙を破るようにして寅次郎が喋り始めた。
「叔父上が仰られる通りです。確かに僕は以前、獄の長になれたら福堂策を実施して、囚人達に学問を施すと申し上げました。そして獄を出ることが決まったときには、ある一人の囚人から真の福堂はこの獄の外にあると申されました」
 寅次郎の記憶には、半年近く前の大深虎之丞の言葉が鮮明に残っている。
「そしてその時にその囚人は、私の事を人を照らす光だとも申しちょりました。じゃが私は自身の事を光だと思うたことは一度も御座いません。僕の目からすれば、あの獄の囚人達こそ人を照らす光じゃと思うちょります。僕はあの囚人達から、人が発する光は人それぞれ違いはあれど、みなどれもまばゆいものであることを教えられました。もし罪人の私が久保殿の塾を継承するのであれば、私が光となって塾の者達を照らすのではなく、塾の者達の光によって私自身を照らしてもらいたいと存じちょります。それでもよろしければ是非貴方様の塾を私にお任せ頂けないでしょうか? 久保殿」
 塾を継ぐ決心がついた寅次郎は久保同様深々と頭を下げる。
「もちろんじゃ。もちろんで御座いますとも。誠に感謝致しまする、寅次郎殿」
 久保は涙を流しながら寅次郎に感謝の意を述べた。
 寅次郎が久保から受け継いだこの塾こそ、後に松下村塾と呼ばれるようになる塾そのものであった。
 
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

【完結】『からくり長屋の事件帖 ~変わり発明家甚兵衛と江戸人情お助け娘お絹~』

月影 朔
歴史・時代
江戸の長屋から、奇妙な事件を解き明かす! 発明家と世話焼き娘の、笑えて泣ける人情捕物帖! 江戸、とある長屋に暮らすは、風変わりな男。 名を平賀甚兵衛。元武士だが堅苦しさを嫌い、町の発明家として奇妙なからくり作りに没頭している。作る道具は役立たずでも、彼の頭脳と観察眼は超一流。人付き合いは苦手だが、困った人は放っておけない不器用な男だ。 そんな甚兵衛の世話を焼くのは、隣に住む快活娘のお絹。仕立て屋で働き、誰からも好かれる彼女は、甚兵衛の才能を信じ、持ち前の明るさと人脈で町の様々な情報を集めてくる。 この凸凹コンビが立ち向かうのは、岡っ引きも首をひねる不可思議な事件の数々。盗まれた品が奇妙に戻る、摩訶不思議な悪戯が横行する…。甚兵衛はからくり知識と観察眼で、お絹は人情と情報網で、難事件の謎を解き明かしていく! これは、痛快な謎解きでありながら、不器用な二人や長屋の人々の温かい交流、そして甚兵衛の隠された過去が織りなす人間ドラマの物語。 時には、発明品が意外な鍵となることも…? 笑いあり、涙あり、そして江戸を揺るがす大事件の予感も――。 からくり長屋で巻き起こる、江戸情緒あふれる事件帖、開幕!

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】  戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。  永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。  信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。  この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。 *ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

処理中です...