40 / 152
第4章 野山獄
7 旅の終わり
しおりを挟む
一方、熊本で宮部に会った後に清正廟を訪ねた玄瑞は、南下して松橋から舟で天草に行こうとするも嵐に阻まれたため、陸路北上して有明海を経て、彼杵から大村湾を渡り、ついに長崎へ辿り着いた。
清正廟を詣でて攘夷の士気が高まりつつあった玄瑞は、そこで港一体を埋め尽くす巨大な西洋艦や唐人・蘭人館が雑居する街並み、我が物顔に闊歩する西欧人の兵士等を目の当りにして、ますます西洋列強への敵愾心を強めた。
そして長崎を発った玄瑞はそのまま大村、唐津、浜崎を通り過ぎ、そこから唐津湾岸、博多湾岸を進んでいって、福岡藩黒田家の城下である筑前福岡に入った。
玄瑞はそこで蒙古襲来の舞台となった古戦場跡を訪ね、さらに神風信仰でおなじみの箱崎宮を参拝した。
「文永の役後に蒙古の使者を斬って、断固たる決意を示した北条時宗こそ正に真の英傑、かの清正公にも引けをとらぬ武士じゃ。また海を覆い尽くさんばかりの蒙古の大船団を、箱崎宮の吹かした神風が一網打尽にして、縦横無尽に動く鎌倉武士がこれに止めを刺す様はなんと痛快でのあったことか。蒙古襲来から六百年後の今、異人共の妖気にこの神州を汚され、皇国の威が衰頽しちょるのは誠に嘆かわしいことじゃ。今こそ敵国降伏の名の元に賊を叩き斬って恥を漱がねばいけん」
箱崎宮の門前で攘夷の決意を新たにした玄瑞は、自身の攘夷への心意気を『箱崎にて感有り』と題した古詩に詰め込んで表現した。
その後、玄瑞は小倉にもどり、関門海峡を渡り馬関を経て、安政三(一八五六)年五月の初めごろ、身も心もすっかり尊王攘夷思想に染まった志士として帰萩した。
「この九州遊歴は長いようで存外短かったのう。じゃがこの遊歴のお蔭で尊皇攘夷の何たるかを知ることができたのはまっことええ土産じゃ。次は宮部殿が仰っていた例の吉田寅次郎じゃ。あの者は確か今松本村にある実家に謹慎させられちょると専らの噂みたいじゃから、まずは挨拶がわりに文でも送ってみようかのう」
この時の玄瑞は、これが寅次郎との激しい論争の始まりになろうとは夢にも思っていなかった。
清正廟を詣でて攘夷の士気が高まりつつあった玄瑞は、そこで港一体を埋め尽くす巨大な西洋艦や唐人・蘭人館が雑居する街並み、我が物顔に闊歩する西欧人の兵士等を目の当りにして、ますます西洋列強への敵愾心を強めた。
そして長崎を発った玄瑞はそのまま大村、唐津、浜崎を通り過ぎ、そこから唐津湾岸、博多湾岸を進んでいって、福岡藩黒田家の城下である筑前福岡に入った。
玄瑞はそこで蒙古襲来の舞台となった古戦場跡を訪ね、さらに神風信仰でおなじみの箱崎宮を参拝した。
「文永の役後に蒙古の使者を斬って、断固たる決意を示した北条時宗こそ正に真の英傑、かの清正公にも引けをとらぬ武士じゃ。また海を覆い尽くさんばかりの蒙古の大船団を、箱崎宮の吹かした神風が一網打尽にして、縦横無尽に動く鎌倉武士がこれに止めを刺す様はなんと痛快でのあったことか。蒙古襲来から六百年後の今、異人共の妖気にこの神州を汚され、皇国の威が衰頽しちょるのは誠に嘆かわしいことじゃ。今こそ敵国降伏の名の元に賊を叩き斬って恥を漱がねばいけん」
箱崎宮の門前で攘夷の決意を新たにした玄瑞は、自身の攘夷への心意気を『箱崎にて感有り』と題した古詩に詰め込んで表現した。
その後、玄瑞は小倉にもどり、関門海峡を渡り馬関を経て、安政三(一八五六)年五月の初めごろ、身も心もすっかり尊王攘夷思想に染まった志士として帰萩した。
「この九州遊歴は長いようで存外短かったのう。じゃがこの遊歴のお蔭で尊皇攘夷の何たるかを知ることができたのはまっことええ土産じゃ。次は宮部殿が仰っていた例の吉田寅次郎じゃ。あの者は確か今松本村にある実家に謹慎させられちょると専らの噂みたいじゃから、まずは挨拶がわりに文でも送ってみようかのう」
この時の玄瑞は、これが寅次郎との激しい論争の始まりになろうとは夢にも思っていなかった。
0
あなたにおすすめの小説
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる