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優しくておだやかな地獄
しおりを挟む「久しぶりだな!マフローネ」
「せんせい!」
しばらくして、やってきたのは私の主治医ロアンヌ先生だった。波打つ赤い髪を首の後ろで束ね、微笑む先生はとてもじゃないが五十代には見えない。はつらつとした美しい女性だった。
「また胃が痛むんだって?」
「すみません、こんな夜ふけに」
「いいさ、明日は休院日だからな」
持病の神経性胃炎。私はもともと、精神的に辛いことがあると体調に出やすいタイプだった。
先生のところにはもう十年以上お世話になっている。
「結婚は大変だよなぁ。マフローネは家から侍女を連れて来なかったんだって?」
「元から私には侍女なんていませんよ。うちが貧乏だってこと、先生だって知っているでしょう?」
「医者に定期的にかかれる貧乏人なんていやしないよ」
「それはそうですが」
実家にいた頃はうちの両親が私の医療費を負担してくれていたが、今の私はエルンストの妻である。彼にお金を返さねばならない立場である以上、医療費を出してもらうわけにもいかず、この二月間、通院出来ていなかった。
胃薬は生薬だ。あまり長持ちしないので頻繁に医者に通う必要があった。
私のお腹を直診していた先生の表情が曇る。
「すっかり胃が硬くなってるな。旦那は医者に通えと言わなかったのか?」
「ううう……。実は神経性胃炎のこと、主人に言っていないんです」
何せチェコヴァ家の家令からは、エルンストは屋敷を留守にしがちだと聞いていた。それならば私が胃炎もちでも、言わなければバレないと思ったのだ。ところが実際にはエルンストは毎日屋敷に帰ってくる。
──とうとうバレてしまった。
持病のある妻は嫌だと思われて離縁されてしまうかもしれない。そう考えるだけでも胃がきりきりした。
「言わなくたって、あいつは知ってるだろ?」
「エルンスト様のことをご存知なんですか?」
エルンストも、ロアンヌ先生も医者だ。顔見知りであっても不思議じゃないのかもしれない。
「まあな。……処方箋はお前さんの旦那にも渡しておく。薬が無くなったら作って貰えよ」
「でも、主人は忙しいので」
「マフローネのためなら薬ぐらいいくらでも調合するだろう?あいつは。あれだけお前さんと仲良くなりたいとうるさかったんだ」
「……? 主人は私のことを知っていたんですか?」
借金の肩代わりをするぐらいなのだから、どこかで私を見染めた可能性はあるが、今まではたまたま近隣にいた都合のよい令嬢だったから、私を妻にしたのだと思っていた。
「おや、あいつは言ってないのか? エルンストはお前さんへの気持ちをそれはそれは拗らせていたというのに。さすがに見初めたきっかけを言うのは恥ずかしいのかねぇ」
と、先生は首をかしげる。
「主人は私のことが、その」
「大好きだぞ」
臆面もなくエルンストの気持ちを代弁するロアンヌ先生。
嬉しいというよりも、夫は節操のない人間なのだなと思った。清廉そうに見えて無類の女好きで、たぶん私のことも新鮮なタイプだと思って手元に置きたくなったのだろう。
また胃が痛む。いや、痛いのは胸かもしれない。
◆
翌朝、エルンストに頭を下げられてしまった。
「君の神経性胃炎のことは知っていたのに、今まで何も配慮せずにいて悪かった」
肩を落とし、しょんぼりしているエルンスト。私は首を横に振った。
「えっと、こちらこそ。持病を黙っていてすみませんでした……」
もしや離縁されてしまうのではと焦った。私は夫の女遊びを黙認しつつ、跡継ぎを生み育てるという大切なミッションがある。ちょっと嫌なことや辛いことがあっただけで胃が痛くなるひ弱な私は適任じゃないと思われて、実家に帰されてしまったら。
お腹をさすりたくなったが、さすったら痛がっているのを感づかれてしまう。がまんした。
「何も心配しなくてもいい。……と言っても無理だよなぁ」
はぁぁとエルンストはため息をつく。窓から朝日をうけて煌めく金髪をなでつけ、眉尻を下げている。
「今日は一日、一緒に家にいよう」
「でも、私は家庭教師の仕事が……」
「使いを出したよ。今は静養したほうがいい」
正直今はエルンストといるよりも、仕事がしたかった。家庭教師をしている時が唯一思い煩いから解放される時だったから。
教えている子たちは五歳~七歳までのわんぱく盛りの男の子ばかり。うちの弟たちの小さかった頃を思い出しながら──騒々しく勉強を教えるのは大変だったけど、楽しかった。
うちの親やエルンストには借金を返すために家庭教師をやっていると言っていたけど、本当は好きでやっていた。小さい子たちに勉強を教えるのは楽しい。本当は結婚なんかしたくなかった。ずっとずっと子どもたちの先生でいたかった。自分で働いたお金で自活したかったのだ。
エルンストの愛人のこと、エルンスト自身との関係のこと、家令のこと、この屋敷は悩みの尽きない空間だった。うちに借金さえなければこんなところにいなかったのに。
エルンストは私が横になったベッドの隣の椅子に腰掛け、ぱらりと本を開きだした。
本当に人は見かけによらない。きれいに整えられた金髪に、整った容貌。襟つきの白いシャツにはしわ一つなく、真面目な好青年然としてるのに、彼は妖艶な舞台女優イリーナを公然と愛人にしているし、ほかにも女性がいるという。
この女性問題さえなければ、彼は完璧なひとだ。女性問題があるから、わけありな私を選んだのだろうが。
ぎりりと歯がみしながらエルンストを睨む。愛人がいるなら、私に優しくしないでほしいし、屋敷にも不必要に近寄ってほしくなかった。私は彼に本気になりたくないのに、彼が構うのでかなり気持ちが傾いてしまった。
エルンストは元医者なのだ、私の排卵日だけ調べてその日にだけ抱きに帰ってくれればそれで良かったのに。
「……マフローネさん?どうし」
「何で旦那様は私にやさしくするんですか?」
「それはもちろん、マフローネさんのことが」
「何で毎日お屋敷に帰ってくるんですか? 滅多に帰ってこないっていうお話でしたよね?」
「? そりゃ家族がいれば、毎日帰れるものなら帰宅するだろう?」
「約束が違います!」
結婚して二月、当初の話とはまったく違う生活に私は戸惑ってばかりだった。家令からは夫と愛人との仲を黙認しろと言われ、当主が帰ってこない家で自由気ままに生活できるかと思いきや、愛人いるはずの夫は毎日私が喜ぶような素敵なお土産を買って帰ってくる。しかも満面の笑みを浮かべて。
寝るまで私のそばにいてくれて、楽しい会話をしてくれて、好きにならずにはいられないような、そんな態度で接してくる。
──地獄だった。
こっちはどんどんエルンストのことが好きになっていくのに、いつ彼は愛人の元へ帰ってしまうのか分からない。不安で不安で押し潰されそうになる。
とうとう痺れをきらした愛人イリーナが私の前に現れた。恐れは現実のものになりつつある。
「私は旦那様が帰ってこないこの屋敷で、悠々自適な生活がおくれると思っていたんです! なのに毎日旦那様は帰ってくる! どうしてですか? 話が違うじゃないですか!」
私がいきなり怒鳴り声を出したので、エルンストはあっけに取られている。その表情にますます腹が立った。彼は私に悪いことをしているという自覚がないのだ。
「マフローネさん、落ち着こう」
「もう、私のところに帰って来ないでください!」
私は彼に向かって枕を投げつけた。
もうめちゃくちゃだった。
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