上 下
5 / 16

シトリンの姉

しおりを挟む



 二人はあの後、アルゼットの部屋へ行った。
 端的に言えば、二人の間には何も無かった。
 市場で買った材料を二人で手分けして調理し、わいわい楽しく食事をした。少しお酒も呑んだが、いわゆる色っぽい展開にはならなかった。

 会話はそこそこに盛り上がり、女性が帰宅するには遅い時間帯になってしまったため、アルゼットは自分の部屋にシトリンを泊めた。それでも、何も無かった。

 (俺はとても頑張ったと思う……)

 翌日、アルゼットは目の下に隈を作っていた。彼は公爵家の護衛官。そこそこ高給な彼は一人暮らしとはいえそれなりに広い部屋に住んでいたが、女性と二人きりでいるのに何もしないでいるのがこれ程までに辛いとは思ってもみなかった。
 寝る時はお互い別室で眠ったが、それでもアルゼットは落ち着かなかった。

 (前世の俺は、何でシトリンさんに手出しせずにいられたのだろうか……)

 アルゼットはシトリンに聞いたのだ。前世でいくら夫婦つがいだったとはいえ、独り暮らしの男の部屋に泊まるのは怖くないのか? と。シトリンの答えにアルゼットは絶句した。彼女はなんと、前世では前世の自分とキスすらしたことがないと言ったのだ。
 シトリンはいついかなる状況下でも、アルゼットが自分に手出ししないと信じきっていた。この信頼感が辛かった。

 アルゼットは他の女性には感じたことのない情欲をシトリンに感じていた。あけすけに言えば、シトリンに触りたくて仕方ない。泣いている彼女も、笑っている彼女も、愛しくて堪らない。
 前世の自分はなぜ、あんなにも魅力的なシトリンに手出ししなかったのだろうか。シトリンだって、前世の自分を慕っていた。正式な夫婦つがいだったというのに。今の自分ならば、結婚式の夜に速攻で手出ししていたと思う。

 まだまだ前世の自分について深く知らねばならないとアルゼットは思うが、国の調査機関は詳しいことは教えてくれない。それにアルゼットの周囲には、前世の記憶を持ち合わせた者がいなかった。彼の両親も親戚も、今生の記憶しかないのだ。八方塞がりだった。

 仕事帰り、アルゼットが悶々としながら道を歩いていると、ふいに後ろから呼び止められた。

「あっ、アンタ! もしかしてアルゼット⁉︎」

 少しハスキーな女性の声。アルゼットが振り返ると、そこには赤毛の女性がいた。

「あなたは……?」

 記憶を手繰り寄せるが、見覚えはない。自分を呼び捨てにするような間柄の女性は、親族以外にいないはず。アルゼットが頭の中で首を傾げていると、彼女は名乗った。

「あー、アンタ、本当に前世の記憶が無いんだねえ。あたしはサンドラ。シトリンの姉だよ」


 ◆


 シトリンの姉だという女性は、幅広グラスに山盛りに盛られたカットフルーツと生クリームの塊に目を輝かせている。
 アルゼットは考えた。シトリンの姉ならば、前世の自分たちについて詳しいのではないかと。
 シトリンの姉には会ったことがないのに、彼女はなぜか自分の顔を知っていた。これは、前世の記憶がはっきりあるからに違いないとアルゼットは判断した。

「お姉さん」
「アルゼット、アンタまだ今世でシトリンと結婚してないでしょ? お姉さんはやめてよ」
「サンドラさん」
「なに?」
「あなたにお願いがあります。どうか、俺とシトリンさんの前世の関係について教えてもらえませんでしょうか?」

 シトリン本人に前世の自分達のことを尋ねても、悲しそうな顔をして俯くだけ。結婚十年で子どもはおらず、キスすらしたことがない間柄。いくら前世の自分が戦場に出突っ張りの戦士だったとはいえ、今までの情報をすべて掛け合わせても、良い夫婦関係だったとは思えない。それでもアルゼットは真実を知りたいと思った。

「シトリンに直接聞けば?」
「彼女に何度か尋ねましたが、悲しそうな顔をするばかりで……」
「アンタ、シトリンが知られたくないと思っている情報を、姉の私から聞き出そうとしてんの? シトリンがそれを知ったらどう思うだろうね」
「それは……」
「シトリンはアンタのことが好きだから、前世のことを知られたくないんだよ。察してやりな」
「やはり、夫婦つがい仲が悪かったのでしょうか? シトリンさんは、前世の俺のことを慕っていたようですが……」
「シトリンは前世も今世も、アンタのことが大好きだよ。ただ、アンタは違った」
「どういう意味ですか?」
「前世のアンタは、シトリンに素っ気なかったのさ」
「そっけない……?」
夫婦つがいなのにアンタはシトリンと一緒に暮らそうとしないばかりか、戦場から戻ってきてもシトリンに顔一つ見せようとしない。シトリンがニコニコしながら話しかけても、無視するか、『失せろ』と一言言って睨むだけ。可哀想だったよ……あの子がさ」
「そんなの、う」
「嘘じゃないさ。第一、普通に仲の良い夫婦だったら、シトリンもそのことを話すと思うよ。アンタが前世で冷たい旦那だったから、シトリンはそのことを言えないんだよ」

 アルゼットは言葉を無くした。まさか前世の自分がシトリンにそこまで冷たくしていただなんて。
 サンドラが嘘を言ってるのではないか。そう思いたかったが、彼女の言葉には妙な説得力があった。納得いかないが、本当なのだろう。
 それでは、なぜ……。

「なぜ前世の俺はシトリンさんに冷たくしていたのですか?」
「知らないよ。私はアンタじゃないからね。それに前世のシトリンも気立ての良い子だったからねえ」

 サンドラは細長いスプーンを使って次々にカットフルーツを口へ運んでいく。その様子を見ながら、アルゼットは瞳を左右に揺らした。

「シトリンさんに、謝らなければ……」
「今のアンタが謝っても、シトリンが困るだけだ」
「では、俺はどうすれば……シトリンさんは今も前世の夢を見ては泣いているのですよ」
「そりゃ、あの子はアンタが死ぬところを目の当たりにしているからね」
「死ぬところ……?」
「おや? それも知らなかったのかい? アンタ、黒羽族の王宮襲撃事件は知ってるか」
「ええ、学校の歴史の授業で習いましたから」
「……歴史の授業ねえ。アンタは黒羽族の王宮襲撃事件で全身ズタボロになって命を落としたが、シトリンはアンタの今際の際に駆けつけてしまったんだ。シトリンはアンタが死んだショックで、そのまま後追い自殺。あたしは大事な妹と義理の弟が重なりあって死んでるところを見ちゃって、今も心の傷を抱えているよ」
「後追い自殺……シトリンさんが⁉︎」
「なかなかにハードな前世だろう? 前世の記憶なんか無きゃ良かったのに、おかげで妹の今世は真っ暗闇さ。あの子の情緒不安定っぷりと自信の無さは前世の影響からさ」

 シトリンがふいに泣き出すのも、起き抜けに混乱を起こすのも、すべては前世の出来事にあった。自分達が今まで生活していた王宮を襲撃され、目の前で家族を失った。そのショックは如何許りか。後追い自殺をしてしまうなんて相当だ。
 せめて夫婦仲が良ければシトリンの前世の記憶も悪いことばかりでは無かっただろうに、姉のサンドラの話を聞く分にはシトリンは一方的に前世の自分のことを想っていたようだ。
 どうして前世の自分はシトリンへ愛を返そうとはしなかったのだろう。アルゼットはクッと奥歯を噛み締める。己のことながら腹だたしくて、膝の上で握りしめていた拳が震えた。

「どうしたのさ、アルゼット?」
「サンドラさん、俺は……自分のことが許せません。シトリンさんは前世の俺に十年間も冷たくされたのに、今世の俺にも優しくて……俺はただ、その優しさに甘えていました」
「まあ、アンタは前世の記憶がないし、シトリンも何も言わなかったんだろ? そりゃあ仕方ないわ」
「サンドラさん、俺はこれからシトリンさんとどう接すれば良いのでしょうか……」
「どう接すればって。フツーに仲良くすればいいんじゃないの? シトリンが情緒不安定になっても、辛抱強く慰める。それがアンタの今生の使命さ」
「シトリンさんの心の傷は治らないのですか?」
「完璧に治るかどうかは分からないけど、少なくともあたしは旦那と結婚して前世の夢を見る機会は激減したよ。アンタの愛で、シトリンの心の闇を拭ってやりな」
「分かりました……サンドラさん。この俺にどれほどのことがやれるのかは分かりませんが、今世は誠心誠意、シトリンさんに尽くします!」

 アルゼットは懐から長財布を取り出すと、札を数枚出してテーブルの上に置いた。

「サンドラさん、これ、フルーツパフェの代金です」
「は? フルーツパフェはそんなにしないよ」
「おつりはこのまま受け取ってください。お礼と、お詫びです」
「あっ、こら! 待ちなよ!」

 アルゼットは自分のカバンとトレンチコートを抱えると、入り口へ向かって早足に歩を進める。居ても立ってもいられなかった彼は、フルーツパーラーの外へ出ると駆け出した。……が。すぐに足を止める。
 アルゼットは自分がシトリンの家の場所を知らないことに、気がついたのだった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

子供を産めない妻はいらないようです

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,770pt お気に入り:269

淫乱お姉さん♂と甘々セックスするだけ

BL / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:8

【完結】私は、幸せです。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:149pt お気に入り:1,071

こっそりと仕返してから、公認で愛人持ちますね。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,008pt お気に入り:1,048

幼馴染がそんなに良いなら、婚約解消いたしましょうか?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:23,089pt お気に入り:3,532

悪役令息になんかなりません!僕は兄様と幸せになります!

BL / 連載中 24h.ポイント:4,155pt お気に入り:10,285

【R-18】気がついたら未亡人伯爵夫人になってて後宮で愛された

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:28pt お気に入り:295

悪役令嬢は双子の淫魔と攻略対象者に溺愛される

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:2,607pt お気に入り:3,024

聖女の姉ですが、宰相閣下は無能な妹より私がお好きなようですよ?

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:33,009pt お気に入り:11,554

処理中です...