ミトスの彩色

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 青年はソファで咳き込んだ。刺しゅうをする手を止める。
「ミトス様。お水を飲まれますか」
 メイドのジルが心配そうに様子を伺う。ミトスは首を横に振りながら、もうすぐ完成する刺しゅうをテーブルに置いた。咳がおさまるとミトスはジルにお願いする。
「紅茶がいいかな。蜂蜜をたらして欲しい。喉がイガイガするんだ」
「すぐに」
 ジルが部屋を出て行く。二階のいちばん南の奥にあるミトスの部屋から一階のキッチンは遠い。この馬鹿でかい屋敷に、バスルームはいくつもあるのにキッチンはひとつしかないのはおかしいとジルはよくぼやいている。ミトスはキッチンが一階のどこにあるかは知らない。ミトスは喉を手で押さえると、その手で刺しゅうの続きをした。ジルが部屋に戻って来ると、そのハンカチの刺しゅうは完成した。ミトスは紅茶と交換するように、ハンカチをジルにプレゼントした。
「わあ! 私にでしたのね。ありがとうございます」
「気が付いていたと思ったけれど」
 ミトスが微笑むと、柔らかいアプリコット色の髪が揺れる。ジルは何度もその髪に触れたくなった。青白い肌と合わさって、ミトスは儚げな青年だった。ミトスにつられて、ジルも笑みをこぼす。
「スズランの刺しゅうでしたので、もしかしたらとは思っていました」
 ジルはハンカチを撫でる。その様子を眺めながら、ミトスは言った。
「来年の夏も『シズ』の舞台をするらしいね。先週、オーピメンさんから聞いたよ」
『シズ』とは、古典文学でその舞台は根強い人気があった。ジルは幼い頃、主都ペタで観劇して以来、ずっとファンであった。スズランはシズを象徴する花で、劇中で主役のシズがスズランの刺しゅうの入ったマントをはおっている。
「ひとりでは行けません」
 ジルは頑なに言った。
「行けばいいのに。私のことは気にしなくていい」
「私は小説で満足です。ハンカチ、ありがとうございます」
 ジルは話を終わらせた。ミトスもそれ以上は何も言わず、紅茶を飲む。ふと、窓の外を眺めた。イチョウの木が紅葉している。これが散れば冬だ。ミトスは自分が、次の冬を越せると思えなかった。二十歳を越せたことが奇跡だと医者が言っていた。自分が死んだら、来年の夏の舞台にジルは遠慮なく行けるだろうとミトスは思った。
 ミトス・スイドは五歳の時に、このカバンサの屋敷に連れて来られた。それ以来、一度もこのカンバサの敷地から外に出させてもらったことがない。


 カバンサは一代で栄華を築きあげた。初代、ペリド・カバンサはフェナの膨大な土地を引き継ぎ、木綿を栽培した。間もなくして、紡績工場も建てた。羊も飼った。当時、布も衣服も足りておらず、カバンサはすぐに業績を上げた。そこから流通にも事業は拡大し、不動産にも手を出し、ホテルも手掛けた。高級ブランドとして服飾店「カバンサ」を主都のペタに出した。ただただ土地が広いだけが取り柄だった田舎町のフェナはカバンサの栄華のおかげで大変潤った。そのため、フェナの人々はカバンサ家を神様より崇めていると言っても過言ではなかった。フェナに住むほとんどの人が、カバンサに関わる仕事をして、生活している。

 ミトスがカバンサ家に引き取られたのは五歳の時だった。ミトスの記憶は曖昧だった。あとからペリドの妻であるジェーダから聞いた話では、ミトスの両親が交通事故で亡くなったため、ペリドがミトスを引き取ったということだった。ミトスの曖昧な記憶では、ミトスはペリドに抱っこされていた。ペリドは破顔していて、何度もミトスの頭を撫でた。ペリドは病弱なミトスを本当に可愛がった。ミトスが七歳の時にペリドは亡くなった。その時にミトスは、大人たちの会話から自分がペリドと愛人の孫であることを知った。もう少し歳を重ねると、それが自分をカバンサの敷地から出させて貰えない理由だと納得した。

 ミトスがフェナの屋敷で自分の部屋以外に行くのは、バスルームと食堂だった。食堂と言っても、大広間のような部屋で長い長いテーブルの端っこで、ジェーダと向き合って食事をする。けれど、先月からジェーダの孫であるヨールが滞在していた。ヨールはペタにある会社を任されているが、数か月フェナで仕事をすることになった。そのため、ジェーダの隣でヨールも食事をしている。ヨールが来てから、食事中の沈黙が余計に重くなっていた。
「ミトス」
 その重さにヒビを入れたのはジェーダの声だった。ジェーダの声は深みのある声だった。誰もが耳を傾けさせる、家長にふさわしい声だった。白髪混じりの短い髪は上品なパーマがかけられており、瞳はエメラルドグリーンだった。カバンサでこの瞳の色は、ジェーダだけだった。ミトスは白身魚のソテーに伸ばそうとしていたフォークを置いた。
「なんでしょう、おばば様」
 カバンサの人間はジェーダのことを「おばば様」と呼ぶ。
「昼にオーピメンと仕事のことで電話をしましてね」
「はい」
 ユオ・オーピメンはペタにあるカバンサのホテルの支配人であった。背が高く、人好きがするように目尻が優しく垂れ、ココアブラウン色の髪をきっちりオールバックにしていた。ミトスにひどく親切な男であったが、ミトスはオーピメンが苦手だった。親切過ぎると、疑い深くなる。
「まあ、その、話の流れで、ブローチが欲しいと」
 ミトスが話の要領を得るまで、黙っている。
「あなたに作って欲しいそうです。黒いビオラの刺しゅうのブローチを」
「ごちそうさま。仕事を持ち帰ったので、失礼します、おばば様」
 ヨールが急に立ち上がる。
「ご苦労さま」
 ヨールが労うジェーダに微笑みを返す。ヨールは目線を一度もミトスにやることはない。食堂を出て行くヨールの背中をミトスは見送る。
「お願いできるかしら」
 ジェーダの声で、ミトスの瞳は正面に戻る。
「分かりました」
 ミトスは微笑む。ジェーダは誰に対しても笑みを浮かべない人だった。
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