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第3部 君は僕を捨てないよね

93.崖っぷちの微笑み

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 本当なら、誕生日が来る前に婚約を辞めたいということを話すつもりでいたのに……

 常に忙しそうにしているアルフリードに声を掛けることもできず、2人きりになるタイミングも掴むことも出来ず、とうとう彼の方から呼び出しを受けることになってしまった。

 それも誕生日の日に。

 エスニョーラの馬車で訪れたそのレストランは、まさに隠れ家スポットと言うような、帝都の中の目立たない場所にあった。

 ひっそりとした佇まいに似合わず、中に入ると奥行きが広くて、さらに奥には、夜の中ライトアップされた庭園に、所々にキャンドルが灯った、シックで日常と完全に切り離された落ち着いた空間が広がっていた。

 そして、そこにはピシッと決まったスーツ姿の人が立って、白いテーブルクロスを被せられた丸いテーブルに片手を置いて、私の方を静かに見つめていた。

 こちらにやってきた彼に手を引かれて着席すると、次々に料理たちが運ばれてきた。

 だけれど、そのほとんどの記憶がないし、匂いもしていたはずなのに、私にはそれを感じるゆとりはなかった。

 いつ……いつ、彼にあの事を言うか、この料理を食べ終わったら、ここを離れる前には言わなくちゃ……
 そればかりを考えて、彼が話している内容も全く耳に入らなかったし、時折、フォークで口に入れた物の味も覚えていなかった。

 そして、デザートも片付けられて、テーブルに残されたのはお茶だけになった。

 早く、言わなくちゃ……と焦っている私のことに気づいていないだろう彼は、急に私の向こう側に視線を投げかけて、軽くうなずいた。

 すると、脇から誰かが手を伸ばして、1枚の紙を彼に手渡した。
 それは珍しく外出先にまで主人であるアルフリードに同行していた、ヘイゼル邸の執事、ゴリックさんだった。

 ずっと同じ場所にいたなんて全然気づかなかった……そして、すぐにゴリックさんの姿も気配も消えてしまった。

 彼は手渡された紙をテーブルの中央にパラリと置いた。

 これは……上の方に数行の文章が書いてあって、その下の左側と右側にそれぞれ、サインがしてある。

 ヘイゼル公爵家の当主・アルフリードのお父様と、エスニョーラ侯爵家の当主・私のお父様のものだ。

 そこに書いてある日付は……あの2年前、婚約披露会が行われた日のものだ。

 さらにその下の方にも署名をする欄が2つあった。

 “婚姻する者”……と、そこには書かれている。

 すると、コトッという音がした。

 私が見ているその紙の横に、小さな四角くくて、青みがかった薄いグレーをしたベルベッドの箱が置いてあった。

 そして、その箱を掴んでいた長くて綺麗だけれど、少し骨張った指が動いて、そのフタを開けた。

 そこには、金色をしたリングが2つ並んでいた。

 一方には少し大きめの青いサファイアが、そしてもう一方には、中央に赤い小さなルビーが輝いていて、その左右にリングに沿って緑色のエメラルドが3つずつほど嵌め込まれていた。

「エミリア、お誕生日おめでとう。これが16歳になった君へのプレゼントだ」

 彼は、とても落ち着いた、深みのある響く声でそう言った。

「それから……僕と結婚して、ヘイゼル邸で一緒に暮らそう」

 私の心臓は、彼が皇女様が倒れた時に、彼女のことを抱きとめた時と同じくらい、ドックン、ドックンと鳴り響いていた。

 今だ。今、言わなくては。
 私の気が変わって、彼からのプロポーズを承諾なんてしてしまう前に……

「アルフリード、ごめんなさい……」

 うつむいていた私は、意を決して顔をバッと上げた。

 ものすごく真剣で、いつまででも私の言葉を待っているような顔つきでいる彼の目を、真正面から見つめた。

「私はあなたとは結婚できない。婚約を破棄させて下さい」

 自分でも、本当に、現実に、こんなセリフを言ったとは思えなかった。

 アルフリードは固まったように動かずに、私のことを見つめている。

 私も、もう後戻りはできないから……ただただ、彼のことを強く見つめ続けた。

 どれくらいの時が経ったか分からないけれど、スッと彼は私から視線を外して、静かに目を瞑った。

 そして、また少しの間そうしていると、なぜか口元に笑みを浮かべて瞳を開いた。

「君が何でそんな事を言うのか、聞きたいことは山程ある。だけど、今日は君の誕生日なんだ。この前、君が僕の誕生日を祝ってくれたように、僕も君には楽しい気分で今日を過ごしてもらいたい」

 思いも寄らない言葉と態度をかけられて、私はとっさに何も言葉が浮かばなかった。

「少し時間が経てば、君の考えも変わるかもしれないし……5日。5日経ったら、話をしよう。どうして僕と結婚できないのか、訳を聞かせてくれ」

 そう言う彼は、いつもと変わらない穏やかな口調で、王子様の生存が絶望的なことが分かってから、私がずっと彼に言おうとして言えなかった言葉をやっと伝えようとしたことも、蚊が腕を刺したくらいにしか感じていないみたいに見えた。

 ダメだ……こんなに余裕のある彼に、どうやったら結婚を諦めてもらうか、策を練らなきゃ。その5日の間に……

 だけど、彼はどうして、こんなに、どこまでも優しいんだろう……
 私がこんな事を言っても、誕生日を祝うなんて言ってくれるなんて。

 この優しさに、

『婚約破棄なんて冗談だよ!』

 って、つい言って笑いかけてしまいそうになる……

 私はまた下を向いて、瞳を閉じると、ギュッと唇を噛み締めた。

「分かりました。5日経ったらお話します。だけど、私の意思は変わらないから。今日はこれで帰ります……ごきげんよう」

 私は彼の方を見もしないで急いで立ち上がると、ものすごく足早に綺麗で幻想的にライトアップされた庭の中を駆け抜けた。

 アルフリードは……私のことを追いかけてはこなかった。

「今日のお会計を半分お支払いするので、金額を教えて下さい」

 お店の受付で割り勘を申し入れると、渡された伝票は、もんの凄い、見たこともないような額だった。

 到底、今日持ってきていた私のお給料では払い切れないので、伝票をそのまま頂いて、後日精算させてもらうことにした。

 そして、お店の馬車止めにある2台の馬車のうち、エスニョーラ邸の方に乗り込んだ。

 こんな風に今日の食事の後は絶対に、2人で一緒の馬車に乗って帰るような穏便な状態にはならない事は分かっていた。
 だから、迎えには来なくていいと、別々に来るように仕向けたのだった。


「エミリア、もう帰ってきたの? 旦那様もラドルフも今日は帰ってくるか分からないから、イリスと一緒にお誕生日をお祝いしようと思うの。居間の方にいらっしゃい」

 お屋敷に到着すると、玄関のところをお母様がちょうど通りすぎる所だったらしく、私に声を掛けた。

 アルフリードとの婚約を無しにしたい、という話はまだ家族には誰にも話していなかった。

 お話したのは、皇女様だけ。

 だけど、今日はとてもじゃないけど、他の人たちと一緒に過ごす気力はなくて、お母様のお誘いを断って、自室に閉じこもった。

 すぐ、寝る格好に着替えて、私はベッドに深く潜り込んだ。

 私に……プロポーズをしてきたアルフリード。
 多分、あの時に差し出された綺麗に磨かれた宝石のついた指輪は、結婚指輪なんだろう。

 それに一緒に出されていた紙。

 あの空欄の所にサインをして、皇城へ提出すれば、結婚が決まるということだと思う。

 最近、皇女様を想う素振りが顕著になっていた彼だけど、そのことを彼自身はまだ、自覚していない、ということなんだろうか。

 皇女様が言っていた通り、もしそうだとすれば頭のいい彼の事だから、私がいくら頑張っても説得できずに、諦めてはくれないかもしれない。

 だけど、何としてもあの紙への署名を防いで、提出させないようにしないと。
 それさえ遂行できれば、結婚、なんてことにはならないはず。
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