【完結】指先が触れる距離

山田森湖

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第9話 月曜日の距離

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第9話 月曜日の距離

月曜日の朝、私はいつもより早くオフィスに到着した。

昨日の鎌倉での出来事が頭から離れない。展望台で美咲の頬に触れた瞬間、その時の彼女の表情、そして別れ際の少し恥ずかしそうな笑顔。すべてが特別で、そして少し複雑だった。

今日、美咲とどんな風に接すればいいのだろう。いつも通りでいいのか、それとも何か変わってしまうのか。

コーヒーを淹れながら、そんなことを考えていた。いつものように二人分。でも今日は少し緊張する。

八時五十分。美咲がやってきた。

「おはようございます」

いつもの挨拶だったが、今日は少し声が小さい。私も同じだった。

「おはようございます」

コーヒーカップを彼女のデスクに置く。いつもの動作なのに、今日は妙に意識してしまう。

「ありがとうございます」

美咲がカップを受け取る時、私たちの指が軽く触れた。昨日までなら、そんな偶然の接触を喜んでいたのに、今日は少し違った。もっと深い何かを感じてしまう。

「昨日は...ありがとうございました」

美咲が小声で言った。

「こちらこそ。素晴らしい一日でした」

私たちはそれ以上、昨日のことについては話さなかった。でも、その沈黙の中に、言葉にできない何かがあった。

午前中、私たちはそれぞれの仕事に集中しようとした。でも時々、目が合うことがある。その度に、昨日の夕日の下での瞬間を思い出してしまう。

十時頃、内線電話が鳴った。営業部からの問い合わせで、美咲が対応している。

「はい、承知いたしました...確認いたします...」

電話中の美咲の横顔を見ていて、私は改めて彼女の美しさに気づく。昨日、間近で見た彼女の顔を思い出して、胸の奥が温かくなった。

「佐藤さん」

電話を切った美咲が、私の名前を呼んだ。

「はい」

「例の契約書の件で、お聞きしたいことが...」

彼女は私のデスクの近くにやってきた。昨日よりも、なんだか距離が近い気がする。

「どんなことでしょう?」

美咲が資料を見せてくれる間、私は彼女の髪の香りを感じた。昨日、海風に揺れていた髪。その記憶が鮮明に蘇る。

「ここの条項なんですが...」

説明を聞きながら、私は昨日の美咲のことを考えていた。海を見つめていた時の穏やかな表情、貝殻を拾った時の嬉しそうな笑顔、そして夕日の下での少し驚いたような顔。

「佐藤さん?」

美咲の声で現実に戻った。

「あ、すみません。もう一度お聞かせください」

「大丈夫ですか?疲れていらっしゃるような...」

彼女の心配そうな表情を見て、私は少し慌てた。

「いえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしていて」

「そうですか...」

美咲は少し心配そうだったが、再び説明を始めてくれた。今度は集中して聞くことができた。

昼休み、私たちはいつものようにランチに向かった。でも今日は、微妙に空気が違う。

「今日は新しいメニューがあるみたいですね」

「そうですね。何にしましょう」

会話は自然だったが、どこかぎこちない。お互いに意識し過ぎているのかもしれない。

食事中、美咲が突然口を開いた。

「昨日の件なんですが...」

「はい」

「もし、不快に思われていたら...」

「いえ、そんなことありません」

私は慌てて答えた。

「本当ですか?」

「はい。むしろ...」

私は言いかけて、言葉を呑み込んだ。「むしろ嬉しかった」と言いそうになった。

「むしろ?」

美咲が首をかしげた。

「むしろ、良い思い出になりました」

曖昧な答えだったが、美咲は少し安心したような表情を見せた。

「そうですか。良かった...」

午後、私は企画書の作成に追われていた。来週のプレゼンテーションが迫っていて、集中して作業する必要があった。

でも隣からの美咲の気配が、どうしても気になってしまう。彼女のタイピングする音、時々聞こえる小さなため息、ページをめくる音。すべてが今まで以上に意識される。

夕方、美咲が立ち上がった。

「佐藤さん、お疲れさまでした」

「お疲れさまでした」

いつもの別れの挨拶だったが、今日は少し特別に聞こえた。

「また明日」

「はい、また明日」

美咲がエレベーターホールに向かう後ろ姿を見送りながら、私は今日一日を振り返った。

昨日の鎌倉での出来事は、明らかに私たちの関係を変えた。でも、それが良い方向なのか、それとも複雑にしただけなのか、まだよく分からない。

一人になったオフィスで、私は窓の外を眺めた。夕日が街を染めている。昨日、江ノ島で見た夕日を思い出す。

指先が触れる距離。今日も私たちは隣に座っていた。でも、心の距離はどうだろう。近づいたのか、それとも遠くなったのか。

美咲の頬に触れた時の感触が、まだ手に残っている気がする。あの瞬間、確かに何かが変わった。でも、それが何なのか、はっきりとは言葉にできない。

明日はどんな一日になるだろう。今日のようなぎこちなさが続くのか、それとも自然な関係に戻れるのか。

でも一つだけ確かなことがある。美咲への気持ちは、確実に特別なものになっている。もう単なる同僚ではない。でも、恋人でもない。

この微妙な距離感が、もどかしくて、そして愛おしい。

家に帰る準備をしながら、私は美咲のことを考え続けていた。明日もまた、彼女の隣に座れることを楽しみにしながら。
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