【完結】指先が触れる距離

山田森湖

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第33話 ロンドンの日々

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第33話 ロンドンの日々

ロンドンに到着して一か月が経った。

新しい環境にも慣れ、プロジェクトも順調にスタートしていた。でも、美咲との時差のある生活は想像以上に難しかった。

私が朝起きる時間は、東京では夕方。私が夜眠る時間は、東京では朝。お互いの生活リズムが全く合わない。

「美咲さん、お疲れさまです」

ロンドン時間の夜十時、東京時間の朝六時に美咲に電話をかけた。

「佐藤さん、お疲れさまでした。お仕事はいかがですか?」

「忙しいですが、充実しています。美咲さんは今から会社ですか?」

「はい。今日は大切なプレゼンテーションがあるんです」

美咲の声に少し緊張が混じっているのが分かった。

「頑張ってください。美咲さんなら大丈夫です」

「ありがとうございます。佐藤さんの声を聞けて、勇気が出ました」

こんな短い会話でも、お互いにとって大切な時間だった。

---

ロンドンでの仕事は刺激的だった。多国籍のチームで働き、様々な文化や価値観に触れることができた。

「佐藤さん、このマーケティング戦略、とても革新的ですね」

イギリス人の同僚、ジェームズが私の提案を褒めてくれた。

「ありがとうございます。日本での経験を活かしました」

「東洋と西洋の視点が融合されていて、素晴らしいです」

チームメンバーからの評価も高く、プロジェクトは期待以上の成果を上げていた。

でも、成功を分かち合いたい人が遠くにいることが、時々寂しく感じられた。

---

ある日、同僚のエミリーから誘いを受けた。

「佐藤さん、今度の週末、ロンドンの美術館巡りはいかがですか?」

エミリーはフランス系イギリス人の女性で、とても聡明で美しい人だった。

「ありがとうございます。でも...」

「お一人で週末を過ごすのは寂しいでしょう?」

確かに、ロンドンでの週末は一人で過ごすことが多かった。美咲と電話で話す時間以外は、特に予定もない。

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

エミリーとの美術館巡りは楽しかった。テート・モダンやナショナル・ギャラリーを回りながら、芸術について語り合った。

「佐藤さんは芸術にもお詳しいんですね」

「少しだけ。実は、婚約者が美術が好きで、影響を受けたんです」

私は自然に美咲のことを話した。エミリーは少し驚いたような表情を見せた。

「婚約者がいらっしゃるんですね」

「はい。東京にいます」

「遠距離恋愛は大変でしょう」

「確かに。でも、愛があれば乗り越えられます」

エミリーは微笑んだが、その笑顔に少し寂しさが混じっているような気がした。

---

その夜、美咲に電話をかけた。

「今日はエミリーという同僚と美術館に行ってきました」

「エミリーさん?女性の方ですか?」

美咲の声に、わずかな変化があった。

「はい。チームメンバーの一人です」

「そうですか...楽しかったですか?」

「はい。でも、美咲さんと一緒に行けたらもっと楽しかっただろうなと思いました」

「私も、佐藤さんと一緒に美術館に行きたいです」

美咲の声が少し寂しそうだった。

「帰国したら、必ず一緒に行きましょう」

「約束ですか?」

「約束です」

---

二か月目に入った頃、仕事はさらに忙しくなった。ヨーロッパ各国との調整が必要で、出張も増えた。

美咲との連絡も、以前ほど頻繁には取れなくなっていた。

『お疲れさまです。最近お忙しそうですね』

美咲からのメッセージに、申し訳ない気持ちになった。

『すみません。来週少し余裕ができるので、ゆっくり話しましょう』

『大丈夫です。お体に気をつけてください』

短いやり取りが続くようになっていた。

---

三か月目のある日、エミリーから再び誘いを受けた。

「佐藤さん、今度はオペラはいかがですか?ロイヤルオペラハウスで素晴らしい公演があるんです」

「オペラですか...」

「チケットが二枚あるんです。一人で行くのも寂しくて」

私は少し迷った。美咲なら、私が文化的な体験をすることを喜んでくれるだろう。でも、女性と二人でオペラに行くのは、少し気が引けた。

「どうでしょう、他の同僚の方も一緒に...」

「残念ながら、他の方は都合が悪くて。でも、大丈夫です。無理にとは言いません」

エミリーの少し残念そうな表情を見て、私は決心した。

「では、お言葉に甘えさせていただきます」

オペラは素晴らしかった。でも、エミリーと二人で過ごす時間が、だんだん自然になってきていることが、少し気になり始めていた。

---

その夜、美咲に電話をかけようとしたが、彼女はすでに眠っている時間だった。

ロンドンの夜は長く、一人の時間が多い。エミリーとの時間は楽しいが、それが美咲への気持ちに影響しないか、不安になることがあった。

窓の外に広がるロンドンの夜景を見ながら、私は美咲との距離を改めて感じていた。

指先が触れる距離から始まった私たちの関係は、今では時差と文化の違いも含めた、複雑な距離になっていた。

でも、愛情は変わらない。そう信じていた。

美咲からもらったお守りを握りしめながら、私は明日も頑張ろうと心に誓った。

あと三か月。必ず乗り越えてみせる。
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