【完結】“熟年恋愛”物語

山田森湖

文字の大きさ
4 / 10

第4話「過去という名の影」

しおりを挟む
第4話「過去という名の影」


その日から、圭介と佳奈美はときどき連絡を取り合うようになった。

「今日は、天気がいいから釣りに行ってきました」
「近所のパン屋さんで、おいしいクリームパンを見つけました」

他愛もないやりとりだったけれど、スマートフォンの通知が鳴るたび、心がふわりと軽くなる。

「明日、少しお茶でもどうですか?」

そんな佳奈美からのメッセージに、圭介は一瞬だけ指が止まった。

──ああ、これって、デート……なのかな。

その言葉に戸惑いながらも、画面に「ぜひ」と打ち込み、駅前の喫茶店で待ち合わせることになった。

「このお店、昔からあるんですよ。高校生の頃、よく友達と来てて」

佳奈美は、カップの縁を指でなぞりながら言った。

「変わらないものって、ほっとしますね」

「……俺、変わってしまったものの方が多い気がします」

圭介の声には、少しだけ翳りがあった。

「妻が病気になってからの数年間、正直なところ、あまり記憶がないんです。毎日をこなすことで精一杯で……」

「看病、されてたんですね」

「ええ。最期は、自宅で看取りました。……なのに、心のどこかで後悔してるんです。もっと、ちゃんと“ありがとう”って言えたんじゃないか、って」

佳奈美は、黙って耳を傾けていた。
彼の声には、過去への罪悪感がにじんでいた。

「自分を責めても、仕方ないのに。そう思うのに、心のどこかで許してない自分がいるんです」

「……それ、わかります」

佳奈美の声は、かすかに震えていた。

「私も、離婚したこと、今でも時々後悔します。あのとき、もっと優しくできていたらって。……娘が一番つらかったはずなのに、私は自分のことで精一杯で」

「でも、ちゃんと向き合ってきたんですよね。娘さんと」

「はい。今は、仲良しです。でも……やっぱり心のどこかに、穴が開いたままなんです。何年経っても、埋まらない」

二人のカップの中のコーヒーが、静かに冷めていく。
その沈黙は、どこか心地よくさえあった。

「圭介さん、怖くないですか?」

「何が、ですか?」

「……また誰かを好きになること。傷つくこと。別れること。いずれ失うかもしれないこと、全部」

圭介は、少し考えて、ゆっくりと答えた。

「正直に言えば、怖いです。……でも、何もなかった日々の方が、もっと怖かった。あの夜、あなたと話して、帰り道に風が気持ちよかったんです。こんな気持ち、久しぶりでした」

佳奈美は、ふっと微笑んだ。

「私も、あの夜から、少しだけ前を向けるようになった気がします」

「それなら……よかった」

その言葉に、二人は小さな笑みを交わす。

やがて、店の時計が午後四時を指した。
夕暮れの光が、窓辺に差し込み始めていた。

「そろそろ行きましょうか」

店を出ると、街の景色は少しだけ色を変えていた。

「圭介さん。これ、よかったら」
佳奈美が差し出したのは、小さな紙袋。

中には、小さな手作りのクッキーが入っていた。

「私、趣味でお菓子作りしてて。味は……まあ、期待しないでください」

「ありがとう。嬉しいです」

素直にそう言えたのは、たぶん久しぶりだった。

何かが始まるには、まだ少し時間がかかるかもしれない。
でも、互いに心の中で抱えている“過去”を、そっと見せ合うことができた——
それだけでも、大きな一歩だった。

次の約束は、まだ決めていない。
でも、たぶんまた会える。
そんな気がしていた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交錯

山田森湖
恋愛
同じマンションの隣の部屋の同い年の夫婦。思いの交錯、運命かそれとも・・・・。 少しアダルトなラブコメ

心のすきまに【社会人恋愛短編集】

山田森湖
恋愛
仕事に追われる毎日、でも心のすきまに、あの人の存在が忍び込む――。 偶然の出会い、初めての感情、すれ違いのもどかしさ。 大人の社会人恋愛を描いた短編集です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

【完結】泡になった約束

山田森湖
恋愛
三十九歳、専業主婦。 夫と娘を送り出し、静まり返ったキッチンで食器を洗う朝。 洗剤の泡が立っては消えるその繰り返しに、自分の人生を重ねながら、彼女は「ごく普通」の日常を受け入れている。 愛がないわけではない。けれど、満たされているとも言い切れない。 そんな午前中、何気なく出かけたスーパーで、背後から名前を呼ばれる。 振り返った先にいたのは、かつて確かに愛した男――元恋人・佐々木拓也。 平穏だったはずの毎日に、静かな波紋が広がり始める。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

危険な残業

詩織
恋愛
いつも残業の多い奈津美。そこにある人が現れいつもの残業でなくなる

【完結】恋人代行サービス

山田森湖
恋愛
就職に失敗した彼女が選んだのは、“恋人を演じる”仕事。 元恋人への当てつけで雇われた彼との二ヶ月の契約が、やがて本物の恋に変わっていく――。

こじらせ女子の恋愛事情

あさの紅茶
恋愛
過去の恋愛の失敗を未だに引きずるこじらせアラサー女子の私、仁科真知(26) そんな私のことをずっと好きだったと言う同期の宗田優くん(26) いやいや、宗田くんには私なんかより、若くて可愛い可憐ちゃん(女子力高め)の方がお似合いだよ。 なんて自らまたこじらせる残念な私。 「俺はずっと好きだけど?」 「仁科の返事を待ってるんだよね」 宗田くんのまっすぐな瞳に耐えきれなくて逃げ出してしまった。 これ以上こじらせたくないから、神様どうか私に勇気をください。 ******************* この作品は、他のサイトにも掲載しています。

処理中です...