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2.元彼と別れた理由

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啓斗がシャワーを浴びている間、差し入れの中身を確認する。
まずはケーキの箱をを冷蔵庫に入れて、次に総菜の袋を開けた。サラダ二種類、ベトナム風生春巻き、キッシュ、それにタルタルソースの添えられたエビフライ。すべてデパ地下で人気の総菜屋のものだ。

「美味しそー……」

起きた時は胃が重くて全然食べる気がしなかったのに、鼻先をくすぐる香ばしい匂いで急に空腹を思い出す。
きゅうきゅうと切なく縮む胃を手のひらで押さえつけた時、背後のドアが開く音がした。
振り返るとグレーのスウェットにTシャツを合わせた啓斗が立っている。

「差し入れ気に入った?」

一人暮らしではなかなか食べる機会のない高級総菜にケーキを出されてしまえば素直になるしかない。

「うん。早く食べたい」
「だろ? ちゃんと好物買ってきたからな」

言われてみれば生春巻きとフライにはエビが使われているし、キッシュもサラダもサーモン入りと私の好きなものばかりだ。

「ありがとう。普通に嬉しい」
「じゃあ熱烈に歓迎して?」

にんまりとしながら言う啓斗に笑みが引き攣る。こちらに両腕を差し出してくるのはハグでもねだっているのだろうか。せっかくじんわりしたのに台無しだ。

「これ以上?」

いきなり押しかけてきたエアコン難民に避難場所を提供しただけでも感謝してほしいくらいだ。少しの間の後、啓斗は諦めたのか苦笑を浮かべる。

「……だめかぁ」
「いいから、とりあえずこれ飲んで」
「やった。すげー喉乾いてたんだ」

用意しておいた氷入りのミネラルウォーターを差し出すと、啓斗は添えたストローを指先で押さえてグラスに直接口をつけた。そのまま喉仏を上下させて、ものの三秒くらいで飲み干してしまう。

「はー、沁みる」

あれだけ汗をかいていたらこの反応も頷ける。

「それで、うち来るまでどうしてたの?」

駅から徒歩十五分の距離を歩いただけでこんなに汗だくになるだろうかと疑問に思って尋ねる。

「八時の時点で自宅は無理ってなったから最寄り駅のカフェでモーニングして、デパートの開店時間に合わせて移動して買い物して、後は紗矢んちの近くまで来てマックで待機してた」

総菜と一緒に入っていた保冷剤の中身がすっかり溶けきっていた理由は時間経過のせいらしい。

「うち来るまで迷った?」
「営業なめんな。地図があったら迷わねえし」
「じゃあほんとに猛暑日なんだ。こんな日にエアコン壊れるなんてついてないね」
「ま、紗矢に会えたしいいけど」
「はい。じゃあこれ持って行って」

総菜のパッケージを積み重ねて渡し、残りとグラスを手に部屋の奥に向かう。

「何か扱い雑だよな……」

啓斗のぼやきを背中に浴びながら、ローテーブルにあれこれを乗せる。我が家にはダイニングテーブルなんて気の利いたものはないからこれが食卓代わりだ。それから背後のベッドからクッションを取って床に敷く。

「何飲む? 持ってきてくれた中から選んでもらうことになるんだけど」
「もちろん酒! 汗かいた後のビールって美味いよな」

一言一句同意する。昼から飲むのは最高だし、しかも奢りならなおさら美味しい。五百ミリリットルの生ビールを啓斗の前に置く。

「紗矢は飲まないの?」
「飲みたいけど、昨日飲み過ぎたからやめとく」
「ま、他にもあるし夜のお楽しみってことで」

聞き捨てならない。

「夜まで居座る気じゃないでしょうね」
「えー、ダメ?」
「ダメに決まってるでしょ!? ちゃんと帰ってもらうからね」
「無理無理、熱くて死ぬ」

着替え持ってきている時点でおかしいと思っていたけど、確信に変わった。最初から泊まる気で来ている。ありえない。

「こっちこそ無理! うち予備の布団なんてないもん」
「俺、寝相もいいしいびきもかかないよ」
「だから?」
「最悪床で寝る。なー、お願い。他に行くとこないんだよ」
「いや、ホテルとかネカフェとかいくらでもあるでしょ」

立て膝から正座に足を直したって騙されない。

「どうしてもダメ?」

なんで私よりも背が高いのに上目遣いができるんだろう。

「かわいこぶったってダメなものはダメ。彼……元彼だって入ったことないのに、何が悲しくて__」
「え、そうなの? 俺が初めてなんだ」
「……そうだけど」

食い気味の発言に気圧されながら頷くと、話のついでみたいな気軽さで質問を投げかけられた。

「で、何で別れたの?」
「……私じゃない人と結婚するんだって」

好奇心や憐れみみたいな余計な感情もなくさらっと聞いてきたから、私も気負いなく答えてしまった。啓斗の眉がぐっと寄せられる。

「はあ? 何それ、二股されてたのかよ」

これ以上ないくらい率直な表現にじくりと胸が痛む。

「うーん……何て言ったらいいのかな」

痛みが胸になじむまでの時間稼ぎをしながら決定的な元彼の言葉を思い返す。

「元彼的には私とはとっくに別れてたみたい。紗矢はまだ若いし俺がいなくても平気そうだけど彼女は俺じゃないとだめって言うし、俺も側で支えてくれる存在に救われた、らしいよ」

聞き分けがいいことで気持ちが離れるなんて全然思いもしなかった。
会いたいって駄々をこねたらよかったんだろうか。でもいくら願ったって物理的な距離は埋まらない。会いに行くための時間もお金も有限だ。
連絡がないのもなかなか会えないのも忙しいからなんだって自分を納得させて、邪魔しちゃいけない、それよりできることをやって次に会う時までに少しでも素敵な女性になっていようと私なりに努力していたこともある。
でも全部無駄だった。求められていたのは遠慮や気遣いじゃなく、わがままを言って甘えること。
元彼は自分の弱さのせいだと言っていたけれど、慰めになんてならなかった。振り返ってみれば、元彼は四六時中一緒にいたがるタイプだったように思う。
初めてできた彼氏だった。社会人になってすぐの頃、友人からの紹介で知り合って、何度か二人で出かけるうちに告白された。
週末ごとに色んな所に行って、余裕がある日は週半ばに食事だけのデートをしてとすごく楽しかった。六つ年上で仕事のアドバイスをくれたり、何かとリードしてくれる所が好きだった。
でも一年も経たないうちに元彼に異動の辞令が出てしまったのだ。「ついてきてくれる?」って聞かれたけれど、私は社会人二年目だったし、赴任先は縁もゆかりもない場所。就職に苦戦したこともあって手放す決断ができず、彼を見送った。
最初こそ二週に一回くらい行き来していたものの、それが月一になり、隔月になり、ついには半年に一回に。
それでもこの二年、電話やメッセージはそれなりにやり取りしていたから遠距離でも大丈夫なんだって安心していた。
けれどここ数ヶ月は連絡も途絶えがちで、電話はもちろんメッセージも既読がつかないことが増えていった。
私は私で資格試験が重なっていたから深く考えず、落ち着いたら連絡しようなんて思っていた矢先__久々に連絡がきたと思ったら、結婚のお知らせだったのだ。それも一斉通知でテンプレみたいな内容。
驚いてすぐに電話をしたけれど繋がらなくて、二日後に長文で釈明のメッセージがあった。
いわく、赴任先の後輩に告白されて、断ってもアタックされ続けて、部署内でデートくらいしてやれって焚きつけられて仕方なく会った結果、付き合うことになってしまったらしい。
その頃には元彼の中では私とは自然消滅したことになっていたようだ。
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