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第35話 夜を煮込むように — Like Warming the Night
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午前九時。役員会議が終わると同時に、社内ポータルに一文が追加された。
――『九条ホールディングス案件については、パートナーシップ戦略室が一次対応を行うものとする。』
会議室を出た匠真が、真っ直ぐ営業部の島に戻ってくる。
俺は立ち上がり、目で問いかけた。
「決まった」
「一応、営業部は関わらなくて良くなったけど、会社としては関わることになるって事だよね」
「ああ。形だけの窓口を置く――という判断だ。とにかく、おまえは怜央には近づくな」
「うん……気をつける。あ、良かったら隆哉に九条のこと聞いてみようか?」
「それはやめてくれ」
「そのほうがいい?」
「おまえは、室内飼いのネコが野生のライオンの懐に飛び込むような、無防備すぎるところがある」
「それは言い過ぎでは……」
「言い過ぎじゃない」
「分かった。隆哉のことは、向こうから連絡があってからにする。その時はちゃんと相談するよ。それでいい?」
「ああ」
短い会話のあと、匠真は「天峰を前に進める」とだけ言い、机上の資料をまとめた。
会社が“波風を立てない選択”をしたとしても、俺たちの優先順位は揺らがない――その確認だった。
◆
天峰酒造プロジェクトは、準備段階から速度を上げた。
俺は秘書として匠真の予定を押さえつつ、技術側――インテリジェント・システム部(IS部)にも頻繁に顔を出すようになる。
「金泉の成分変動、温度相関の外乱に近いですね。発酵側のセンサー値と分けて扱わないと、学習が崩れます」
「じゃあ環境データは別レイヤーで持って、転移学習で蔵ごとの癖を吸わせる?」
「うん。そのほうが早い。あと、酵母活性のプロキシに使ってる指標、アメリカでやってたやつ流用したい」
IS部のエンジニアは優秀だ。だが“現場の癖”を理解するには、別の言語がいる。
天峰の仕込み場で聞いた杜氏の言葉、現場の匂い、温度、足音――そういう“非データ”をどうアルゴリズムへ訳すか。
そこに自分の役割がある気がして、自然と机に向かう時間が長くなった。
夕方。匠真が様子を見に来る。
「まだ終わらないのか?」
「うーん、もうちょっと。キリのいいところまでチェックしていく。先に帰ってていいよ」
「手伝う」
短い二音に、肩の力が抜ける。
ログの異常検知のルールを見直してもらい、俺はデータ連携の仕様書を詰める。
二人がかりだと、時間はちゃんと前に進む。
「ここの例外、営業側の運用に合わせてメッセージ変えよう」
「了解。じゃあ“在庫過不足の予兆アラート”って文言にする」
「いい。現場が迷わない」
そうやって詰めているうちに、時計はいつの間にか二十二時を回っていた。
「それでも二十二時か……」
「うちに寄っていけ。どうせ今日もろくなものを食べてないんだろ?」
「朝はヨーグルト食べた」
「それだけか?」
「そういえば、それだけだな」
「おまえ……」
すごまれて、思わず口が滑る。
「じゃあ、オムライスが食べたい」
「お子様か」
「いいだろ、今日は仕事頑張ったんだし。作ってよ」
「……仕方がないな」
言葉とは裏腹に、彼の表情はどこか楽しそうだった。
◆
深夜近い東京の道は、窓の外で静かな光を流していく。
車内で交わす話は、さっきまでの仕様の続きで、時々どうでもいい雑談が混ざる。
会社の外に出ても、俺たちの会話は仕事から完全には離れない。
それがいやじゃないと思えるくらいには、同じ景色を見ている。
「明日の午前、天峰のデータ受け取り確認が来るはずだ」
「IS部の担当には俺からも共有しておく」
「頼む」
赤信号で車が止まる。窓の向こう、コンビニの前に猫が丸くなっていた。
思わず笑ってしまう。
「……何だ」
「いや、室内飼いでも、外に出たら猫は猫だなって」
「野生のライオンに近づくな」
「はいはい」
冗談めかして、互いに息がほぐれる。
会社は会社の論理で動き、俺たちは俺たちの現実を進める。
守るべき順番を、間違えないように。
◆
部屋に着くと、匠真は迷いなくキッチンへ向かった。
卵を割る音、バターが溶ける香り、ケチャップが小さく弾ける気配。
湯気の向こう、彼の背中がいつもより少し近い。
「チキンライス、味見」
「……うまい」
「それは良かった」
数分後、皿の上にふっくらとした黄色い丘が出来上がる。
スプーンを入れると、卵がとろりと割れ、赤い道がのぞいた。
「いただきます」
「食え」
「命令形」
「早く冷める」
一口目で、身体が思い出す。
湯気、塩味、わずかな甘さ――どれもが、今日という一日をやさしく終わらせてくれる味だった。
「……うまい」
「知ってる」
短い会話が、灯りの下でほどける。
窓の外の風が、ほんの少し春めいていた。
守るという選択は、時に誰かを遠ざけることになる。
それでも、目の前の一皿を温かいまま差し出せるのなら、今はそれでいい。
明日また、前に進むために。
******************
「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「夜を煮込むように — Like Warming the Night」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
♫「夜を煮込むように — Like Warming the Night」はこちら⇒ https://youtu.be/MxIT3YExAqA
――『九条ホールディングス案件については、パートナーシップ戦略室が一次対応を行うものとする。』
会議室を出た匠真が、真っ直ぐ営業部の島に戻ってくる。
俺は立ち上がり、目で問いかけた。
「決まった」
「一応、営業部は関わらなくて良くなったけど、会社としては関わることになるって事だよね」
「ああ。形だけの窓口を置く――という判断だ。とにかく、おまえは怜央には近づくな」
「うん……気をつける。あ、良かったら隆哉に九条のこと聞いてみようか?」
「それはやめてくれ」
「そのほうがいい?」
「おまえは、室内飼いのネコが野生のライオンの懐に飛び込むような、無防備すぎるところがある」
「それは言い過ぎでは……」
「言い過ぎじゃない」
「分かった。隆哉のことは、向こうから連絡があってからにする。その時はちゃんと相談するよ。それでいい?」
「ああ」
短い会話のあと、匠真は「天峰を前に進める」とだけ言い、机上の資料をまとめた。
会社が“波風を立てない選択”をしたとしても、俺たちの優先順位は揺らがない――その確認だった。
◆
天峰酒造プロジェクトは、準備段階から速度を上げた。
俺は秘書として匠真の予定を押さえつつ、技術側――インテリジェント・システム部(IS部)にも頻繁に顔を出すようになる。
「金泉の成分変動、温度相関の外乱に近いですね。発酵側のセンサー値と分けて扱わないと、学習が崩れます」
「じゃあ環境データは別レイヤーで持って、転移学習で蔵ごとの癖を吸わせる?」
「うん。そのほうが早い。あと、酵母活性のプロキシに使ってる指標、アメリカでやってたやつ流用したい」
IS部のエンジニアは優秀だ。だが“現場の癖”を理解するには、別の言語がいる。
天峰の仕込み場で聞いた杜氏の言葉、現場の匂い、温度、足音――そういう“非データ”をどうアルゴリズムへ訳すか。
そこに自分の役割がある気がして、自然と机に向かう時間が長くなった。
夕方。匠真が様子を見に来る。
「まだ終わらないのか?」
「うーん、もうちょっと。キリのいいところまでチェックしていく。先に帰ってていいよ」
「手伝う」
短い二音に、肩の力が抜ける。
ログの異常検知のルールを見直してもらい、俺はデータ連携の仕様書を詰める。
二人がかりだと、時間はちゃんと前に進む。
「ここの例外、営業側の運用に合わせてメッセージ変えよう」
「了解。じゃあ“在庫過不足の予兆アラート”って文言にする」
「いい。現場が迷わない」
そうやって詰めているうちに、時計はいつの間にか二十二時を回っていた。
「それでも二十二時か……」
「うちに寄っていけ。どうせ今日もろくなものを食べてないんだろ?」
「朝はヨーグルト食べた」
「それだけか?」
「そういえば、それだけだな」
「おまえ……」
すごまれて、思わず口が滑る。
「じゃあ、オムライスが食べたい」
「お子様か」
「いいだろ、今日は仕事頑張ったんだし。作ってよ」
「……仕方がないな」
言葉とは裏腹に、彼の表情はどこか楽しそうだった。
◆
深夜近い東京の道は、窓の外で静かな光を流していく。
車内で交わす話は、さっきまでの仕様の続きで、時々どうでもいい雑談が混ざる。
会社の外に出ても、俺たちの会話は仕事から完全には離れない。
それがいやじゃないと思えるくらいには、同じ景色を見ている。
「明日の午前、天峰のデータ受け取り確認が来るはずだ」
「IS部の担当には俺からも共有しておく」
「頼む」
赤信号で車が止まる。窓の向こう、コンビニの前に猫が丸くなっていた。
思わず笑ってしまう。
「……何だ」
「いや、室内飼いでも、外に出たら猫は猫だなって」
「野生のライオンに近づくな」
「はいはい」
冗談めかして、互いに息がほぐれる。
会社は会社の論理で動き、俺たちは俺たちの現実を進める。
守るべき順番を、間違えないように。
◆
部屋に着くと、匠真は迷いなくキッチンへ向かった。
卵を割る音、バターが溶ける香り、ケチャップが小さく弾ける気配。
湯気の向こう、彼の背中がいつもより少し近い。
「チキンライス、味見」
「……うまい」
「それは良かった」
数分後、皿の上にふっくらとした黄色い丘が出来上がる。
スプーンを入れると、卵がとろりと割れ、赤い道がのぞいた。
「いただきます」
「食え」
「命令形」
「早く冷める」
一口目で、身体が思い出す。
湯気、塩味、わずかな甘さ――どれもが、今日という一日をやさしく終わらせてくれる味だった。
「……うまい」
「知ってる」
短い会話が、灯りの下でほどける。
窓の外の風が、ほんの少し春めいていた。
守るという選択は、時に誰かを遠ざけることになる。
それでも、目の前の一皿を温かいまま差し出せるのなら、今はそれでいい。
明日また、前に進むために。
******************
「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「夜を煮込むように — Like Warming the Night」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
♫「夜を煮込むように — Like Warming the Night」はこちら⇒ https://youtu.be/MxIT3YExAqA
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