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第36話 Don’t Let Him Worry ― 君を惑わせないように
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九条ホールディングスとの正式なやり取りが、パートナーシップ戦略室を窓口として始まった――その報告が社内に回ったのは、週明けの朝だった。
会議室では誰もその名を口にしなかったが、空気が微かに変わる。
Lucent Coreという巨大な組織の中で、わずかな“温度のずれ”が走るだけで、フロアのざわめきが変わるのを、颯は感じ取っていた。
「九条の件、戦略室のほうから営業部にも一応共有したいらしい」
「形式的なもんだろ。向こうも“社内協力体制”を見せたいだけだ」
匠真は短く答える。
パソコンの画面には、天峰酒造のデータログと、AIモデルの進行スケジュール。
九条の“く”の字を聞くだけで眉をひそめるのが、最近の癖になっていた。
営業部の島を通ると、他のチームの社員たちが囁く声が聞こえる。
「営業部は九条に関わらないのか」「天峰酒造の件で手一杯だろ」「あれは久々の大規模案件だもんな」
結論から言えば、“営業部ではない”という事実だけが、颯たちの防波堤だった。
匠真の目には疲れの色があった。
天峰酒造プロジェクトの立ち上げは想定以上の速さで進んでおり、毎日が時間との勝負だ。
俺も休みを返上して秘書とエンジニアたちのサポートを兼任していた。
その結果、システム稼働は順調だが――カレンダーアプリには、未消化の代休が赤く点滅している。
(そろそろ、一日くらい……休んでもいいか)
そんなことを考えていた昼下がり、スマホの画面が光った。
送り主は、丸友冬華。
『颯が好きそうなスイーツのお店がオープンするみたいだけど、一緒に行かない?』
文面からして軽い。
仕事関係というより、完全に“友だちのノリ”だ。
思わず笑ってしまいながら、隣の匠真に画面を見せる。
「……おまえら、本当に仲良すぎだろ」
「いや、冬華さんは、ただの友だちだよ。ほら、女友達と同じ感じ」
「同じでも、ややこしい」
「でも、代休もたまってるし、少しくらい休まないと。会社のためにも」
「理屈をつけるな」
「理屈じゃなくて事実だよ。何だったら労基に訴えてやろうか」
匠真は深く息をつき、諦めたように笑う。
「……はいはい。好きな日に休んでいい。ただし、体もちゃんと休めろよ」
「ありがと。ちょっとリフレッシュしてくる」
「あと、もし九条の話が出ても、慎重に返事をしろ。どこに怜央が網を張っているか分からないからな」
「分かってるって」
確かに、九条怜央なら、以前に匠真との結婚話が出た冬華さんに、何らかのつながりを持っていても不思議じゃない。
九条の話題には、気をつけたほうが良さそうだ。
◆
週末。
表参道の一角にできたばかりのスイーツ店「fruits atelier Tendre(フリュイ・アトリエ・タンドル)」。
ガラス張りの店内には、カットされたフルーツが宝石のように並び、天井から吊るされたライトが虹色に反射していた。
ふわりと漂うバニラと焼きたての香り。
すべてが“写真を撮ってください”と言わんばかりだ。
「かわいい……!」
テーブルに運ばれてきたのは、季節限定の“苺とピスタチオのパフェ”。
透き通るようなガラスの層の中に、ピンクとグリーンが幾重にも重なる。
颯はスマホを構え、反射的にシャッターを切った。
「インスタ上げてもいいですか?」
「もちろん。宣伝しちゃって」
「冬華さん、こういうの本当によく見つけますよね」
「癒しは大事でしょ? 甘いものを食べると、疲れがとれるわよね~」
冬華はフォークを手に、幸せそうに笑う。
仕事では見せない柔らかな表情。
その横顔に、颯も自然と口元が緩んだ。
「最近、Lucent Core忙しそうね」
「天峰酒造の立ち上げでバタバタしてて。ようやく、基盤の連携が見えてきたところです」
「天峰の社長、とても喜んでたわよ。紹介して良かった」
「まだまだこれからですよ。AIを入れるだけじゃなくて、文化を残すことも大事なので」
「そういうところ、颯らしいわね」
会話が弾み、パフェが半分ほど減った頃――
冬華がカップの底を見つめながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、九条ホールディングスの件、聞いた?」
「いえ、何かありましたか?」
「アメリカのSynApexって会社がメインで受けることになったみたい。Lucent Coreはサブポジションになるらしいけど」
「へえ、そうなんですね……」
スプーンの動きが止まる。
自分の会社のことなのに、冬華さんのほうが詳しいことに苦笑するしかない。
彼女の情報収集能力は、かなり優れている。
(SynApex――アメリカのAIスタートアップ。Lucent Coreの海外協力先でもあった。その代表が、隆哉だ)
スプーンの動きが止まる。
すごいな、隆哉。
昔からあいつは要領がよくて、人との距離の取り方が上手かった。
それに優秀なエンジニアでもある。
隆哉が関わるなら、九条ホールディングスも安泰だろう。
だが、心のどこかで小さな棘が引っかかる。
(嫌な予感がする……)
カフェを出る頃には夕方になっていた。
冬華は手を振り、「また行きましょうね」と笑顔で去っていく。
颯も笑顔で見送ったが、胸の奥には小さなざわめきが残った。
◆
人通りの少ない通りを歩いていると、角の向こうから声がした。
「……颯!」
「えっ――隆哉?」
立っていたのは、スーツ姿の城ノ内隆哉だった。
さっき冬華さんから隆哉の話を聞いたところだったので、偶然すぎて驚く。
「久しぶり。まさかこんなところで会うとは」
「本当だね……。仕事?」
「うん。今ちょうど、打ち合わせが終わったところ」
「そうなんだ」
「よかったら、少し飯でも行かない? 話したいこともあるし」
一瞬、返事に迷った。
だが、すぐに匠真の顔が浮かぶ。
「ごめん、ちょっとスケジュールの確認だけする。ちょっと待ってて」
隆哉から少し離れた場所でポケットからスマホを取り出し、番号を押す。
『どうした』
「今、隆哉に会って。食事に誘われたんだけど――その…行ってもいいかな?食事が終わったらすぐ帰るから」
少しの沈黙。
決して気持ちよく送り出したい心境ではないだろう。
やがて、ぶっきらぼうな声が帰ってくる。
『九条がらみの話には慎重になれ。あと門限は二十二時だ』
「分かってる。部屋で待っててくれていいから」
『一秒でも早く帰りたくなるように、マンションの外で待ってる』
「了解」
電話を切ると、思わず笑いがこみ上げた。
相変わらず、律儀で、少しだけ子供っぽい。
「……いいよ、少しなら」
「そうこなくちゃ。颯を連れていきたい店があるんだ」
「へえ、どこだろ」
隆哉は笑って、歩き始める。
夕暮れの風が吹き抜ける。
(なるべく早く帰って、匠真を安心させよう)
******************
「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「Don’t Let Him Worry ― 君を惑わせないように」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
♫「Don’t Let Him Worry ― 君を惑わせないように」はこちら⇒ https://youtu.be/zGkbwpsnC0k
会議室では誰もその名を口にしなかったが、空気が微かに変わる。
Lucent Coreという巨大な組織の中で、わずかな“温度のずれ”が走るだけで、フロアのざわめきが変わるのを、颯は感じ取っていた。
「九条の件、戦略室のほうから営業部にも一応共有したいらしい」
「形式的なもんだろ。向こうも“社内協力体制”を見せたいだけだ」
匠真は短く答える。
パソコンの画面には、天峰酒造のデータログと、AIモデルの進行スケジュール。
九条の“く”の字を聞くだけで眉をひそめるのが、最近の癖になっていた。
営業部の島を通ると、他のチームの社員たちが囁く声が聞こえる。
「営業部は九条に関わらないのか」「天峰酒造の件で手一杯だろ」「あれは久々の大規模案件だもんな」
結論から言えば、“営業部ではない”という事実だけが、颯たちの防波堤だった。
匠真の目には疲れの色があった。
天峰酒造プロジェクトの立ち上げは想定以上の速さで進んでおり、毎日が時間との勝負だ。
俺も休みを返上して秘書とエンジニアたちのサポートを兼任していた。
その結果、システム稼働は順調だが――カレンダーアプリには、未消化の代休が赤く点滅している。
(そろそろ、一日くらい……休んでもいいか)
そんなことを考えていた昼下がり、スマホの画面が光った。
送り主は、丸友冬華。
『颯が好きそうなスイーツのお店がオープンするみたいだけど、一緒に行かない?』
文面からして軽い。
仕事関係というより、完全に“友だちのノリ”だ。
思わず笑ってしまいながら、隣の匠真に画面を見せる。
「……おまえら、本当に仲良すぎだろ」
「いや、冬華さんは、ただの友だちだよ。ほら、女友達と同じ感じ」
「同じでも、ややこしい」
「でも、代休もたまってるし、少しくらい休まないと。会社のためにも」
「理屈をつけるな」
「理屈じゃなくて事実だよ。何だったら労基に訴えてやろうか」
匠真は深く息をつき、諦めたように笑う。
「……はいはい。好きな日に休んでいい。ただし、体もちゃんと休めろよ」
「ありがと。ちょっとリフレッシュしてくる」
「あと、もし九条の話が出ても、慎重に返事をしろ。どこに怜央が網を張っているか分からないからな」
「分かってるって」
確かに、九条怜央なら、以前に匠真との結婚話が出た冬華さんに、何らかのつながりを持っていても不思議じゃない。
九条の話題には、気をつけたほうが良さそうだ。
◆
週末。
表参道の一角にできたばかりのスイーツ店「fruits atelier Tendre(フリュイ・アトリエ・タンドル)」。
ガラス張りの店内には、カットされたフルーツが宝石のように並び、天井から吊るされたライトが虹色に反射していた。
ふわりと漂うバニラと焼きたての香り。
すべてが“写真を撮ってください”と言わんばかりだ。
「かわいい……!」
テーブルに運ばれてきたのは、季節限定の“苺とピスタチオのパフェ”。
透き通るようなガラスの層の中に、ピンクとグリーンが幾重にも重なる。
颯はスマホを構え、反射的にシャッターを切った。
「インスタ上げてもいいですか?」
「もちろん。宣伝しちゃって」
「冬華さん、こういうの本当によく見つけますよね」
「癒しは大事でしょ? 甘いものを食べると、疲れがとれるわよね~」
冬華はフォークを手に、幸せそうに笑う。
仕事では見せない柔らかな表情。
その横顔に、颯も自然と口元が緩んだ。
「最近、Lucent Core忙しそうね」
「天峰酒造の立ち上げでバタバタしてて。ようやく、基盤の連携が見えてきたところです」
「天峰の社長、とても喜んでたわよ。紹介して良かった」
「まだまだこれからですよ。AIを入れるだけじゃなくて、文化を残すことも大事なので」
「そういうところ、颯らしいわね」
会話が弾み、パフェが半分ほど減った頃――
冬華がカップの底を見つめながら、ふと思い出したように言った。
「そういえば、九条ホールディングスの件、聞いた?」
「いえ、何かありましたか?」
「アメリカのSynApexって会社がメインで受けることになったみたい。Lucent Coreはサブポジションになるらしいけど」
「へえ、そうなんですね……」
スプーンの動きが止まる。
自分の会社のことなのに、冬華さんのほうが詳しいことに苦笑するしかない。
彼女の情報収集能力は、かなり優れている。
(SynApex――アメリカのAIスタートアップ。Lucent Coreの海外協力先でもあった。その代表が、隆哉だ)
スプーンの動きが止まる。
すごいな、隆哉。
昔からあいつは要領がよくて、人との距離の取り方が上手かった。
それに優秀なエンジニアでもある。
隆哉が関わるなら、九条ホールディングスも安泰だろう。
だが、心のどこかで小さな棘が引っかかる。
(嫌な予感がする……)
カフェを出る頃には夕方になっていた。
冬華は手を振り、「また行きましょうね」と笑顔で去っていく。
颯も笑顔で見送ったが、胸の奥には小さなざわめきが残った。
◆
人通りの少ない通りを歩いていると、角の向こうから声がした。
「……颯!」
「えっ――隆哉?」
立っていたのは、スーツ姿の城ノ内隆哉だった。
さっき冬華さんから隆哉の話を聞いたところだったので、偶然すぎて驚く。
「久しぶり。まさかこんなところで会うとは」
「本当だね……。仕事?」
「うん。今ちょうど、打ち合わせが終わったところ」
「そうなんだ」
「よかったら、少し飯でも行かない? 話したいこともあるし」
一瞬、返事に迷った。
だが、すぐに匠真の顔が浮かぶ。
「ごめん、ちょっとスケジュールの確認だけする。ちょっと待ってて」
隆哉から少し離れた場所でポケットからスマホを取り出し、番号を押す。
『どうした』
「今、隆哉に会って。食事に誘われたんだけど――その…行ってもいいかな?食事が終わったらすぐ帰るから」
少しの沈黙。
決して気持ちよく送り出したい心境ではないだろう。
やがて、ぶっきらぼうな声が帰ってくる。
『九条がらみの話には慎重になれ。あと門限は二十二時だ』
「分かってる。部屋で待っててくれていいから」
『一秒でも早く帰りたくなるように、マンションの外で待ってる』
「了解」
電話を切ると、思わず笑いがこみ上げた。
相変わらず、律儀で、少しだけ子供っぽい。
「……いいよ、少しなら」
「そうこなくちゃ。颯を連れていきたい店があるんだ」
「へえ、どこだろ」
隆哉は笑って、歩き始める。
夕暮れの風が吹き抜ける。
(なるべく早く帰って、匠真を安心させよう)
******************
「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「Don’t Let Him Worry ― 君を惑わせないように」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
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