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第37話 Breath in Silence ― 雨音の向こうで ―
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――表参道の角を曲がると、暖簾の端にだけ金の糸が織り込まれた、控えめで品のいい日本料理店が現れた。
外観は古い町家ふうだが、ガラス越しに見える中庭は丁寧に手入れされ、灯りは水面の揺れに合わせるように低く呼吸している。
「ここだよ」
隆哉が、いつもの人懐こい笑顔で振り向く。
のれんを見上げた瞬間、胸の奥がきゅっと固くなる。
高級割烹。完全予約制。よく磨かれた木の匂い。
――思い出すな。あの夜。
九条怜央が静かに笑って、「いずれ、君は匠真の“元恋人”になる」と告げたあの席。
店は異なるが、雰囲気はよく似ていた。
“準備はもう半分整っている”――あの優雅な声の温度。
九条ホールディングスの会長就任の知らせを聞いたとき、あの言葉の“半分”が現実になったのだと、喉の奥が冷えた。
「どうした? 顔色」
「……ううん。すごいな、こんな店、よく知ってるな」
慌てて笑顔をつくると、隆哉は「実は」と得意げに肩をすくめた。
「教えてもらったんだ。ここがおすすめだって。本当は予約なしじゃ入れないらしいけど、口をきいてくれた」
「へえ……そんな知り合い、いるんだ?」
「九条の会長だよ。就任したばかりらしいけど、若いのに優秀で、仕事がやりやすい」
九条の会長――怜央。
喉の笑みがそのまま凍る。ここで帰るか? 踵を返す理由はいくつも思いつく。
けれど、ここまで連れてきてくれた隆哉に、それをぶつけるのは違うと思った。
――入ろう。話題を選べばいい。九条の話には触れない。触れさせない。
◆
案内は驚くほど滑らかだった。磨かれた廊下を抜け、障子の先に用意されていたのは、外の音がすっかり遠のくほどの静けさをたたえた個室。
壁の土の色、うっすらと光沢のある器、季節の枝もの。
“初めまして”の客が通されるには、少し出来すぎている。
「わ、すごい。こういうの、映画の中だけかと思ってた」
アメリカ暮らしの長い隆哉は、少年みたいに素直に目を輝かせていた。
九条と匠真の関係も、俺が怜央と顔を合わせたことも、彼は知らない。
その無邪気さに、少し救われた気がした。
「酒はどうする?」
そっと問われて、俺は首を振る。
「明日も仕事だし、やめとく。隆哉は?」
「俺も今日はやめておく。料理だけでも十分うまい」
少し照れて笑うその横顔が、懐かしい。
高級割烹らしく、食事は時間をかけてゆっくりと進んでいく。
先付が運ばれ、温度の違う出汁の香りが重なる。
俺はアメリカ留学の頃の話を切り出した。
カルチャーギャップ、眠らない開発フロア、AIの導入で守られた職人の手――九条に繋がらない話題を慎重に選ぶ。
隆哉はよく笑い、よく頷き、時々子どもみたいに目を丸くした。
「俺、前は和食ってあまり好きじゃなかったけど、ここのはうまいな。レベルが違う」
「そうだな。すごくおいしい」
季節の碗が熱を運び、焼き物の香ばしさが遠い雨の匂いを連れてくる。
箸先を置く音まで美しく整えられた、静かな時間――のはずだった。
◆
コースの終盤。
器に映る灯りが、ふっと揺れて二重になる。
視界の奥が微かに霞んで、指先の感覚が遅れて届く。
何かがおかしい。
フォークが、するりと指から滑り落ちた。
◆
がちゃん、と小さな音が静寂に響いた。
さっきまで笑っていた颯が、テーブルに突っ伏している。
「颯?」
隆哉は慌てて立ち上がり、颯の体を支えた。
まったく力が入っていない様子だ。
「どうした、顔、真っ青だよ」
「……お酒、飲んでないのに、なんで……」
「もしかして、具合でも悪かったか?」
隆哉の問いかけに、颯は力なく首を横に振る。
その瞬間――着信音。
画面に浮かぶ名前は、九条怜央。
「……はい、城ノ内です」
スマホの向こうから、くすくすと笑う声。
『奥の部屋を空けてごらん。僕からの“プレゼント”だよ』
穏やかな声なのに、不穏な香りがする、と隆哉は思った。
無言で立ち上がり、障子に手をかける。
音を立てないように引くと、薄明かりの間。
畳に、布団が二組、整って敷かれていた。枕元には新しいタオルと水。
どこにも乱れがない。
『自由に使っていい。店には伝えてあるから』
ぷつり、と通話が切れる。
隆哉の手の中で、黒い画面が冷たく沈黙する。
「……そういうことか」
低く呟き、隆哉は膝をついて崩れかける颯の肩を支えた。
障子の向こうでは、静かな雨の音がゆっくりと強くなる。
******************
「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「Breath in Silence ― 雨音の向こうで ―」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
♫「Breath in Silence ― 雨音の向こうで ―」はこちら⇒ https://youtu.be/AUrySNoHRqQ
外観は古い町家ふうだが、ガラス越しに見える中庭は丁寧に手入れされ、灯りは水面の揺れに合わせるように低く呼吸している。
「ここだよ」
隆哉が、いつもの人懐こい笑顔で振り向く。
のれんを見上げた瞬間、胸の奥がきゅっと固くなる。
高級割烹。完全予約制。よく磨かれた木の匂い。
――思い出すな。あの夜。
九条怜央が静かに笑って、「いずれ、君は匠真の“元恋人”になる」と告げたあの席。
店は異なるが、雰囲気はよく似ていた。
“準備はもう半分整っている”――あの優雅な声の温度。
九条ホールディングスの会長就任の知らせを聞いたとき、あの言葉の“半分”が現実になったのだと、喉の奥が冷えた。
「どうした? 顔色」
「……ううん。すごいな、こんな店、よく知ってるな」
慌てて笑顔をつくると、隆哉は「実は」と得意げに肩をすくめた。
「教えてもらったんだ。ここがおすすめだって。本当は予約なしじゃ入れないらしいけど、口をきいてくれた」
「へえ……そんな知り合い、いるんだ?」
「九条の会長だよ。就任したばかりらしいけど、若いのに優秀で、仕事がやりやすい」
九条の会長――怜央。
喉の笑みがそのまま凍る。ここで帰るか? 踵を返す理由はいくつも思いつく。
けれど、ここまで連れてきてくれた隆哉に、それをぶつけるのは違うと思った。
――入ろう。話題を選べばいい。九条の話には触れない。触れさせない。
◆
案内は驚くほど滑らかだった。磨かれた廊下を抜け、障子の先に用意されていたのは、外の音がすっかり遠のくほどの静けさをたたえた個室。
壁の土の色、うっすらと光沢のある器、季節の枝もの。
“初めまして”の客が通されるには、少し出来すぎている。
「わ、すごい。こういうの、映画の中だけかと思ってた」
アメリカ暮らしの長い隆哉は、少年みたいに素直に目を輝かせていた。
九条と匠真の関係も、俺が怜央と顔を合わせたことも、彼は知らない。
その無邪気さに、少し救われた気がした。
「酒はどうする?」
そっと問われて、俺は首を振る。
「明日も仕事だし、やめとく。隆哉は?」
「俺も今日はやめておく。料理だけでも十分うまい」
少し照れて笑うその横顔が、懐かしい。
高級割烹らしく、食事は時間をかけてゆっくりと進んでいく。
先付が運ばれ、温度の違う出汁の香りが重なる。
俺はアメリカ留学の頃の話を切り出した。
カルチャーギャップ、眠らない開発フロア、AIの導入で守られた職人の手――九条に繋がらない話題を慎重に選ぶ。
隆哉はよく笑い、よく頷き、時々子どもみたいに目を丸くした。
「俺、前は和食ってあまり好きじゃなかったけど、ここのはうまいな。レベルが違う」
「そうだな。すごくおいしい」
季節の碗が熱を運び、焼き物の香ばしさが遠い雨の匂いを連れてくる。
箸先を置く音まで美しく整えられた、静かな時間――のはずだった。
◆
コースの終盤。
器に映る灯りが、ふっと揺れて二重になる。
視界の奥が微かに霞んで、指先の感覚が遅れて届く。
何かがおかしい。
フォークが、するりと指から滑り落ちた。
◆
がちゃん、と小さな音が静寂に響いた。
さっきまで笑っていた颯が、テーブルに突っ伏している。
「颯?」
隆哉は慌てて立ち上がり、颯の体を支えた。
まったく力が入っていない様子だ。
「どうした、顔、真っ青だよ」
「……お酒、飲んでないのに、なんで……」
「もしかして、具合でも悪かったか?」
隆哉の問いかけに、颯は力なく首を横に振る。
その瞬間――着信音。
画面に浮かぶ名前は、九条怜央。
「……はい、城ノ内です」
スマホの向こうから、くすくすと笑う声。
『奥の部屋を空けてごらん。僕からの“プレゼント”だよ』
穏やかな声なのに、不穏な香りがする、と隆哉は思った。
無言で立ち上がり、障子に手をかける。
音を立てないように引くと、薄明かりの間。
畳に、布団が二組、整って敷かれていた。枕元には新しいタオルと水。
どこにも乱れがない。
『自由に使っていい。店には伝えてあるから』
ぷつり、と通話が切れる。
隆哉の手の中で、黒い画面が冷たく沈黙する。
「……そういうことか」
低く呟き、隆哉は膝をついて崩れかける颯の肩を支えた。
障子の向こうでは、静かな雨の音がゆっくりと強くなる。
******************
「風を捕まえる手 ― 再会は逃れられない衝動」は、YouTubeチャンネル「BL Soundscape」 にて公開されるオリジナル楽曲と完全連動しています。
今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「Breath in Silence ― 雨音の向こうで ―」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫
♫「Breath in Silence ― 雨音の向こうで ―」はこちら⇒ https://youtu.be/AUrySNoHRqQ
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