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第三章

身代わり濃姫(53)

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 伝令の者が慌ただしくやって来て、蔵ノ介に何か耳打ちをした。
 蔵ノ介は指示を出して伝令の者を持ち場へ戻した後、美夜みやを振り返った。
「やはり、どうやら戦になりそうですね」
 蔵ノ介のその言葉に、美夜は心臓をつかまれたような気持ちになった。
 この部屋に入った時点で覚悟を決めていたはずなのに、手が震え、呼吸が落ち着かなくなってしまう。
 ここは戦場でいえば本陣にあたり、美夜が座っているのは、本来であれば信長が座るはずの総大将のための床几しょうぎだった。
 何もせずにこんなところに座っていて良いのだろうか……せめて厨房ちゅうぼうの仕事でも手伝うほうが良いのではないかと訴えた美夜の言葉を、蔵ノ介は静かに否定した。
 名目上とはいえ城主である美夜が、厨房などに入って右往左往する姿を見せるのは良くないと。
 何か指示を出したり戦ったりすることよりも、総大将というのは、生きて本陣にいるというのが、味方にとっては何よりも心強く思えることなのだと蔵ノ介から聞かされた。
 だからとりあえず美夜はここにいるけれども、ただ座って戦が終わるのを待つというのは、想像以上に心をすり減らす仕事だった。
「大丈夫ですか?」
 蔵ノ介に心配そうな顔をして見つめられているのに気づいて、美夜ははっとする。
「大丈夫です。すみません。戦が始まれば、私に何かするべきことはありますか?」
帰蝶きちょう様は引き続き、そのままで大丈夫です。何かすることが出てきたときは申し上げます」
「わ、分かりました……」
「たとえ戦が始まっても、すぐに敵が中まで入ってくることはありません。城門を破るまでにまず時間がかかりますから。ですから当面、城内は安全です」
「門を破られることはあるのでしょうか?」
「敵の数や武器の種類によってはあり得ます。ですが、時間がかかるでしょうし、そう簡単には破らせません。こちらも対策は取ってあります」
 蔵ノ介に状況を詳しく教えてもらい、美夜は少し安堵する。
 少なくとも、城の中の人間から死者が出ることは、当面なさそうだと理解した。
「分かりました。ありがとうございます」
 戦が始まっても相変わらず美夜にできることは何もなく、ただこうして城の奥の安全な場所に居続けることしかできないようだ。
 たぶん、信長もよほど人数の少ない戦以外ではそうなのだろうと思う。
 総大将が軽々しく前へ出て行ったりすれば、総大将がち取られた時点で戦は終わってしまう。
 今の美夜も、総大将というわけではないが城主ではあり、立ち場的には総大将と変わりはないと蔵ノ介は言った。
 そして敵が狙っているのも、おそらく美夜だと考えられる。
 だからこそ、今ここで、何もできない自分をなげいて迂闊うかつな行動を取ったりすることはしてはならないと自分に言い聞かせた。
「あー、大丈夫だって。最悪の事態になっても、あたしが帰蝶を守る。心配するな!」
 美夜の顔が強ばってしまっているのを、甘音あまねは気にしてくれているようだ。
「ありがとう、甘音」
「それより、その格好、なかなか似合ってるぜ!」
 甘音がその格好と美夜を指さして言ったのは、美夜がいつもの着物ではなく、武道着を借りて着ているからだった。
 さすがに、戦が始まってまでいつもの長くて動きにくい着物姿では、城の者たちの士気に関わるのではないかと思い、サイズの合う武道着を探してもらってそれに着替えたのだった。
 そこに甘音から胸当てを借り、薙刀なぎなたを側に置くと、戦場に行くには頼りないものの、とりあえず一応は戦えそうな格好にはなった。
 実際に美夜自身が戦うような段階になるようなことがあれば、それはかなり危うい状態ではあるのだろうが、この時代では言葉が大事なのと同じぐらいに、こうした形式も大事だということを、美夜はもう理解している。
 それにもともと美夜は合気道をやっていたこともあって、裾の長い着物よりは、こうした武道着のほうが気持ちは落ち着くし、動くのもだんぜん楽だった。
(普段もこの格好でもいいのに……)
 とは思うが、それもこの時代のTPOや信長の立ち場を考えると難しい話なのだろう。
 蔵ノ介の元へは状況報告が次々に入ってきているようだったが、美夜は言われたとおり、微動びどうだにしないようなそぶりを続けながら、ここに座り続けるしかない。
(まさかこんなことになるなんて思わなかったけど……信長様も同じようにしているのよね……)
 信長は戦にも慣れているから、ただ座っているだけではなく指示を出したりもしているのだろうけど、本当にこれは大変な仕事だと美夜は思う。
 城の外ではすでに命のやりとりが始まっており、その失われる命も生かされる命も、すべての責任は、指示を出している蔵ノ介ではなく、代理とはいえ城主である美夜にある。
 今回は守り手側だから、城門を破られない限りは大きな犠牲は出ないと蔵ノ介は言っていたが、犠牲に大小はないと考えてしまうのは、自分が甘いからなのだろうか……。
(たぶんそうなんだろうと思う。戦場では人が死ぬのが当たり前……それをできるだけ少なくするのが、上に立つ人の仕事なんだから……)
 それは分かっていても、決して口に出すことはできなくても、美夜は誰も死なないで欲しいと思ってしまう。
 信長は美夜に戦場は見せたくないと言った。
 その理由が今は少し分かるような気がした。
「始まりましたね」
 蔵ノ介の声にはっとする。
 外から大勢の声が聞こえ、時折、打撃音のようなものも聞こえる。
 城門からある程度離れたこの場所にも、戦の喧噪けんそうは届くのだ。
「相手がどの程度こちらの準備を予想しているかにもよりますが、ほどなくいったん退かざるを得ない状態になるはずです」
 蔵ノ介は美夜にそう告げた。
 佐々木信親ささきのぶちかが城攻めを決めたからには、それなりの数と装備があったからだと考えられるが、こちらの準備を彼はどの程度理解しているのだろう。
 蔵ノ介は城に着いてからの短い間に、城に残る者一人一人に役割を与え、的確に配置を指示した。
 美夜にはいったい何のことか分からないような指示ばかりだったが、一人もあますことなく役割を与えていくその手腕は見事だと思った。
 普段は里を取り仕切っているとはいえ、ほとんど里から出ることのない蔵ノ介が、ここまで戦に精通しているとは、美夜は思いもしなかった。
 蔵ノ介は、全員が持ち場を守り切ることができれば、信長や光秀が清洲きよすに到着するまで持ちこたえることができる……そう言っていた。
 やがてほどなく、蔵ノ介が言ったとおり、外の喧噪がやんだ。
 おそらく、いったん城門に寄せた敵が、退いていったのだろうと美夜は思った。
 ほうっと、美夜は息を吐く。
「今からそれじゃ、吉法師きっぽうしが帰ってくるまでもたねーぜ」
 甘音がからかうように言って笑うので、美夜も少しだけ笑みを浮かべる。
「うん、分かってるんだけどね……」
「どうせじたばたもできねーんだから、もっとどんっと構えてりゃいいんだよ」
 甘音が傍にいてくれるのは、本当に心強いと美夜は思う。
 侍女たちは今は皆、厨房の手伝いに行っている。
 もともと城の中に残っていた者が少なかったこともあるが、女たちにも希望する者には外での役割や伝令の役割を蔵ノ介は与えた。
 意外にも、外に出ても良いからと戦の手伝いを希望する女たちは多く、だから厨房に残っている者は本当にごく僅かだった。
 そのため、残った女たちが総出で戦に出ている者たちのための飯を炊いても追いつかないのだという話を聞きつけた各務野かがみのたちが、厨房を手伝いに行くことになったのだった。
 それで美夜は自分もせめて厨房を手伝おうと思ったのだが、それは蔵ノ介にあっさり却下されてしまった。
(本当は何かをしているほうが楽だけど……でも、ここに座る者にはここに座る者の責任があるから……)
 信長の代わりにこの場所を守るのが美夜の今与えられた役割であり、飯炊きは今の美夜にとっては役割ではないということだった。
「次の攻撃で、敵の総数がどの程度で、どの程度の武器を準備しているかが分かるはずです。それによって、こちらも策を変える必要があるのかどうか検討します」
「はい……」
 美夜には何が何だかさっぱり分からなかったが、蔵ノ介は美夜を今は城主として扱っているので、細かく報告してくれるのだと思う。
(ちゃんと認めてもらえてるってことよね……すごいプレッシャーではあるけど……)
 蔵ノ介の言葉通り、また外に喧噪が響き始めた。
 敵が再び寄せてきているのだろうと思う。
 城門を挟んで命のやりとりをしているのだと思うと、美夜はせめて祈らずにはいられなかった。
(どうか一人でも多くの人の命が助かりますように……)
 美夜は武士ではないから、それぐらいのことを祈るぐらいは許されると思う。
 そして、それぐらいのことしか、今の美夜にできることはなかった。

(どういうことだ……)
 予想外の展開に、信親は焦りがこみ上げてくるのを感じていた。
 信親の予定では、最初の突撃でもう城門は突破できているはずだった。
 しかしまだ城門を突破するどころか、傷一つつけることができていない。
 それは、城壁に配備された守り手たちによる攻撃に妨げられ、まったく城門に近づくことさえできないからだった。
 城門に近づこうとすれば、城壁から矢や鉄砲玉が飛んだ来たり、石が飛んできたりして、負傷したり死亡したりする兵が続出した。
 守り手の側の準備はてきていないだろうと信親は高をくくっていたが、驚いたことに、敵は短時間の間に完璧な籠城の態勢を取っていたのだ。
 信親はいったん兵たちに撤退を命じ、後ろに配置していた兵たちもすべてかき集め、一気に片を付けようと試みた。
 さすがに数があれば、相手は少人数であるから問題なく城門を突破できるだろうと考えたのだ。
 本来であれば、後ろに控えている兵たちは、帰蝶の身柄を確保後、追っ手に対して使うはずのものだった。
 身柄確保後の戦力に不安は出てきてしまうが、まずは城門を突破しなければ何も始まらない……信親はそう考えたのだが。
 しかし今度は、矢や鉄砲に加えて、油と火矢が飛んできて、戦になれぬ雑兵ぞうひょうたちは右往左往して混乱した。
 火矢は城へ向けては有効な道具とされているが、戦場に向けて火矢を放っても、本来であればあまり意味はない。
 ただ、雑兵たちには大いに効果があったようだった。
「落ち着け! 火矢はたたき落とせば良い!」
 信親がそう叫んでも、兵たちの混乱はそう簡単には収まらず、結局また全軍を撤退させることになった。
(城の中には戦を指揮できるものは誰もいないはずなのに、なぜだ……?)
 まるで信親を翻弄ほんろうするように、敵は寄せるたびに攻撃の手法を変えてくる。
 城に残った者たちも、戦慣れしている者は少ないはずで、あそこまで効率的に攻撃を仕掛けることができるとは、信親には予想もしなかったことだった。
(まずいな……このまま時間をかけていては、殿が戻ってきてしまうかもしれない……)
 もしも信長の指揮する一軍がここにやって来たら、半分が雑兵でしかない信親に勝ち目はない。
 信親は信長がどれほど戦上手かを、そして、信長が直接育てた者たちがどれほど強いかを、これまで間近で見てきて知っているのだ。
(できるだけ早く城門を突破しなくては……しかし、近づくことさえできぬとは……)
 命じられるままに戦うのと、戦で命令を下すのとではまったく違うのだということも、信親は思い知っていた。
 兵たちは雑兵とはいえ、信親の思い通りには動かない。
(信長様なら……たとえ相手が雑兵でも、こんなことはないのだろうが……)
 信親はこれまで傍近くで見てきた信長の用兵ようへいを思い出す。
 信長の用兵はあまりにも見事で、信長は未来が見えてでもいるのだろうかと信親は感じたことがあるほどだった。
 そして、信長の周りには、それに匹敵するほどに用兵の見事な者たちがいる。
 信親が知る限り、明智光秀などがそうだろう。
 明智光秀は、信長の配下となって短いが、戦の策などは信長が光秀に任せるなど、かなりの信頼を得ている。
 しかし、明智光秀は現在、寺本城で戦後の処理に当たっているはずだから、城内にいるはずがない。
 そしてもう一人考えられうる用兵が得意な人間が、周防すおう蔵ノ介だ。
 蔵ノ介は忍びの里をまとめあげ、忍びたちを取り仕切るおさであると同時に、織田家家中での立ち場としては、あの若さで家老に任じられている。
 任じたのは先の当主である信秀だというから、彼の実力は相当のものであると考えられる。
 信親は蔵ノ介の用兵を実際には見たことはないが、信長の用兵を教育したのは彼だといわれている。
 だからこそ、信親は蔵ノ介がいない隙を狙ってこの清洲にやって来たのだ。
 蔵ノ介は現在、忍びの里にいるはずだが、もしも自分が彼の存在を見逃していて、彼が城内にいるのだとしたら……。
(この戦……とても勝つことはできない……)
 信親は決断を迫られていた。
 このまま城門を攻撃して力任せに突破するか、それとも撤退するか……。
「信親殿! 後背こうはいに敵が!」
「なに――!?」
 信親は背後を振り返った。
 確かにそこには数百の、自軍の者ではない兵たちの姿があった。
 そして、その先頭に立つのは――。
「明智光秀……」
 驚く信親を見て、光秀は笑う。
「お久しぶりです、信親殿。どうやら何とか信長様より先に着くことができたようです。まあ、さほど変わりはなかったようですが」
 そう言って光秀が見つめた先に、もう一軍の姿があった。
「信長様……」
 そこには静かな怒りをその目に宿しながら、自分を見据える主の姿があった。
「――待たせたな、信親」
 信親はしばし呆然と、自分を見据える信長を見つめた。
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