2 / 10
はじめての空気 — The First Air Between Us
しおりを挟む
講義が終わると、桐谷湊と朝倉陽真は、いつも通りに校門を抜けた。駅へ向かう途中の角にある、小さなカフェに寄るのも、いつもの流れだ。
けれど今日は、歩幅を合わせるだけで胸がそわそわする。肩が触れそうで触れない数センチのあいだに、昨日までなかった熱が揺れている。
ガラス戸を押すと、ベルが短く鳴った。浅煎りの香りと木の匂い。窓際の二人掛けは幸い空いている。定位置のように、湊が窓側、陽真が通路側へ腰を下ろした。何度も繰り返した動作のはずなのに、テーブルの幅がいつもより狭く感じられる。
「いつもの、でいい?」
メニューを閉じながら陽真が言う。
「うん。ハニーラテと、レモンのタルト」
「了解」
陽真がカウンターへ向かう背中を、湊はそっと目で追う。昨日の雨音、ラウンジのガラス、逃げ出した自分と、戻って「ごめん」を言えた自分——その全部が、胸の奥でまだ温かい。
戻ってきたトレイから、甘い香りが立ちのぼる。ハニーラテには、小さなハートのラテアート。
「……店員さん、気が利くな」
陽真が照れ隠しみたいに笑うと、湊もつられて笑った。
沈黙が落ちても、前みたいな気まずさはない。湊がタルトを割る音、外の車の音、ミルが豆を挽く音——音の隙間に、言葉にしない気持ちが静かに溜まっていく。
「今日、このあとバイト?」
フォークを持った陽真が、ふと思い出したように聞く。
「うん。夜から。コンビニ、週二回だけだけど、立ち仕事は地味にくる」
「だよな。俺も明日、家庭教師。受験生でさ、来年本番。女子高生相手だと、テンション合わせるのが難しい」
「順調なの?」
「まあまあ、かな。一応、この間の模擬テストでは第一志望はB判定だったらしい。あと一歩だな」
「責任重大だね」
顔を見合わせ、二人とも小さく笑う。互いの予定を知っていることが、昔からそうだったように当たり前で、それが今日は少しだけ特別だ。
「子どものころ、覚えてる?」
陽真が砂糖壺の蓋を回しながら言う。
「川で石投げて、どっちが遠くまで飛ばせるか競争したやつ」
「覚えてる。僕が勝ってた」
「いや、俺だろ」
「じゃあ、またやろう。今度は正式に」
「いいね。負けても泣くなよ」
「泣かない。……泣いたのは、前は君だった気がする」
遡った記憶の向こうから、昨日のキスがふいに顔を出す。目が合う。どちらからともなく視線を外して、ラテを一口。
「さ」
陽真が、ふっと声を整える。
「友達には、まだ言わないでおこうか」
何を、と湊は聞かなかった。
「うん。僕もそう思ってた。まだ、二人だけの秘密にしておきたい」
湊は少しほっとした気持ちだった。
陽真と付き合うことになったのは嬉しいけど、それを男女のカップルのように公言するのは、まだちょっと勇気が必要だ。
きっと陽真も、湊の気持ちを察してくれたのだろうと思う。
秘密は息苦しさではなく、湯気みたいな柔らかさで二人の間に漂った。
店を出ると、昨日とは打って変わって空は高い。夕陽が街路樹の葉を透かし、歩道に揺れる影模様を落としていた。人通りの多い駅前通りでは、手を伸ばせない。代わりに、歩幅を合わせ、信号の変わり目に肩を寄せ、同じ看板に同時に小さく笑う——そんな近さを選ぶ。
手をつないだ男女のカップルが横を通り過ぎる。湊は視線を落として、横断歩道の白線を指先のように踏む。陽真はほんの少し速度を落とした。言葉にしない合意が、足元に生まれる。
人波がふっと切れた。ビルとビルの隙間から、細い帯の夕陽が落ちている。陽真が立ち止まり、湊も止まる。
視線が合う。どちらも、何も言わない。
距離が、自然に縮まった。
触れるだけの、短いキス。驚くほど静かで、誰にも気づかれないほどささやかに。
離れた途端、湊の頬に遅れて色が差した。陽真は目尻をやわらかく下げて、囁くより少しだけ強い声で言う。
「家まで送る」
「うん、ありがとう」
◆
家が近づくにつれ、口数が少なくなってしまう。
また明日、大学で会えるのは分かってるのに、離れるのが少しさみしい。
夕暮れの住宅街、アスファルトの匂いと遠くの犬の声。
同じ道なのに、今日だけは照れくさくて、少し誇らしい。
「……また明日」
「うん、明日」
昨日は逃げ出した道を、今日は並んで歩いている。手はつながない。腕も組まない。けれど――
***************
今回のお話は、YouTubeの楽曲「はじめての空気 — The First Air Between Us」とリンクしています。良かったら、楽曲のほうも聴いてみてくださいね♫
「はじめての空気 — The First Air Between Us」はこちら⇒ https://youtu.be/Z-1XrMSMEP8
けれど今日は、歩幅を合わせるだけで胸がそわそわする。肩が触れそうで触れない数センチのあいだに、昨日までなかった熱が揺れている。
ガラス戸を押すと、ベルが短く鳴った。浅煎りの香りと木の匂い。窓際の二人掛けは幸い空いている。定位置のように、湊が窓側、陽真が通路側へ腰を下ろした。何度も繰り返した動作のはずなのに、テーブルの幅がいつもより狭く感じられる。
「いつもの、でいい?」
メニューを閉じながら陽真が言う。
「うん。ハニーラテと、レモンのタルト」
「了解」
陽真がカウンターへ向かう背中を、湊はそっと目で追う。昨日の雨音、ラウンジのガラス、逃げ出した自分と、戻って「ごめん」を言えた自分——その全部が、胸の奥でまだ温かい。
戻ってきたトレイから、甘い香りが立ちのぼる。ハニーラテには、小さなハートのラテアート。
「……店員さん、気が利くな」
陽真が照れ隠しみたいに笑うと、湊もつられて笑った。
沈黙が落ちても、前みたいな気まずさはない。湊がタルトを割る音、外の車の音、ミルが豆を挽く音——音の隙間に、言葉にしない気持ちが静かに溜まっていく。
「今日、このあとバイト?」
フォークを持った陽真が、ふと思い出したように聞く。
「うん。夜から。コンビニ、週二回だけだけど、立ち仕事は地味にくる」
「だよな。俺も明日、家庭教師。受験生でさ、来年本番。女子高生相手だと、テンション合わせるのが難しい」
「順調なの?」
「まあまあ、かな。一応、この間の模擬テストでは第一志望はB判定だったらしい。あと一歩だな」
「責任重大だね」
顔を見合わせ、二人とも小さく笑う。互いの予定を知っていることが、昔からそうだったように当たり前で、それが今日は少しだけ特別だ。
「子どものころ、覚えてる?」
陽真が砂糖壺の蓋を回しながら言う。
「川で石投げて、どっちが遠くまで飛ばせるか競争したやつ」
「覚えてる。僕が勝ってた」
「いや、俺だろ」
「じゃあ、またやろう。今度は正式に」
「いいね。負けても泣くなよ」
「泣かない。……泣いたのは、前は君だった気がする」
遡った記憶の向こうから、昨日のキスがふいに顔を出す。目が合う。どちらからともなく視線を外して、ラテを一口。
「さ」
陽真が、ふっと声を整える。
「友達には、まだ言わないでおこうか」
何を、と湊は聞かなかった。
「うん。僕もそう思ってた。まだ、二人だけの秘密にしておきたい」
湊は少しほっとした気持ちだった。
陽真と付き合うことになったのは嬉しいけど、それを男女のカップルのように公言するのは、まだちょっと勇気が必要だ。
きっと陽真も、湊の気持ちを察してくれたのだろうと思う。
秘密は息苦しさではなく、湯気みたいな柔らかさで二人の間に漂った。
店を出ると、昨日とは打って変わって空は高い。夕陽が街路樹の葉を透かし、歩道に揺れる影模様を落としていた。人通りの多い駅前通りでは、手を伸ばせない。代わりに、歩幅を合わせ、信号の変わり目に肩を寄せ、同じ看板に同時に小さく笑う——そんな近さを選ぶ。
手をつないだ男女のカップルが横を通り過ぎる。湊は視線を落として、横断歩道の白線を指先のように踏む。陽真はほんの少し速度を落とした。言葉にしない合意が、足元に生まれる。
人波がふっと切れた。ビルとビルの隙間から、細い帯の夕陽が落ちている。陽真が立ち止まり、湊も止まる。
視線が合う。どちらも、何も言わない。
距離が、自然に縮まった。
触れるだけの、短いキス。驚くほど静かで、誰にも気づかれないほどささやかに。
離れた途端、湊の頬に遅れて色が差した。陽真は目尻をやわらかく下げて、囁くより少しだけ強い声で言う。
「家まで送る」
「うん、ありがとう」
◆
家が近づくにつれ、口数が少なくなってしまう。
また明日、大学で会えるのは分かってるのに、離れるのが少しさみしい。
夕暮れの住宅街、アスファルトの匂いと遠くの犬の声。
同じ道なのに、今日だけは照れくさくて、少し誇らしい。
「……また明日」
「うん、明日」
昨日は逃げ出した道を、今日は並んで歩いている。手はつながない。腕も組まない。けれど――
***************
今回のお話は、YouTubeの楽曲「はじめての空気 — The First Air Between Us」とリンクしています。良かったら、楽曲のほうも聴いてみてくださいね♫
「はじめての空気 — The First Air Between Us」はこちら⇒ https://youtu.be/Z-1XrMSMEP8
1
あなたにおすすめの小説
執着
紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。
Candy pop〜Bitter&Sweet
義井 映日
BL
「完璧な先輩」が壊れるまで、カウントはもう、とっくに『0』を過ぎていた。
「185cmの看板男」が、たった一人の恋人の前で理性を失う。
三ヶ月の禁欲を経て、その愛は甘く、激しく、暴走する――。
「あらすじ」
大学の「看板男」こと安達大介は、後輩の一之瀬功(こう)を溺愛している。
ついに迎えた初めての夜。しかし、安達の圧倒的な「雄」の迫力に、功は本能的な恐怖で逃げ出してしまう。
「――お前は俺を狂わせる毒だと思ってた」
絶望した安達と、愛しているのに身体が竦む功。
三ヶ月の「じれったい禁欲生活」を経て、看板男の仮面が剥がれるとき、世界で一番甘い夜が始まる。
★本編全6話に加え、季節を巡る濃密な番外編1本も公開中!近日最新エピソードも追加予定!
(2月の看病編/3月のホワイトデー編公開予定です)
お話が気に入った、面白かった、と思ってくださったら、お気に入り登録、いいね、をお願い致します!
作者の励みになります!!
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
