初恋リフレイン ― Melody of First Love

梵天丸

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第3話 この先のこと — What Lies Ahead

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 土曜日の午後、湊の部屋には紙の匂いが満ちていた。
 机いっぱいに広げられたノートと参考書、色の抜けた付箋、二人分のシャープペン。窓の外では、洗濯物が風に揺れ、廊下を走る子どもの声が遠くで弾む。

 玄関のチャイムが鳴り、間を置かずにもう一度。いつもの癖だ。湊がドアを開けると、陽真がペットボトルのアイスコーヒーと紙袋を掲げた。

「おやつ係です」
「……ありがとう。今日も、よろしく」

 紙袋の中にはコンビニのドーナツが二つ。湊は笑う。

「結局、僕のバイト先で買ってるじゃん」
「お布施。週二しか入ってないんだろ? 少しでも売上に貢献」
「そんなピンポイントな応援いらないよ」

 いつもの小さな冗談。肩の力が少し抜ける。

 二人で机に向かうと、とりあえず数学の過去問から始めることにした。

「二次関数の最大最小。ここ、毎年出してくる」
「知ってる。ここは……平方完成、で合ってる?」
「合ってる。軸は?」
「えっと、x = -b/(2a)」

 湊がノートに式を並べるあいだ、陽真は湊の横顔をちらと見る。まつ毛の影が紙の白さに落ちて、鉛筆の音だけが部屋に小さく響いた。

「英語、もやる?」
「やる。長文の推し問題持ってきた」

 プリントの一段落に線を引き終わったとき、途切れた沈黙がふいに意識に戻ってきた。机の上は勉強の道具で埋まっているのに、視線はそこに落ちてくれない。
 肩先が、何度か触れた。離れた。触れた。離れた。
 湊がキャップを回す。陽真がシャープペンを持ち直す。どちらの手も、わずかに落ち着かない。

「……休憩、する?」

 先に言ったのは湊だった。

「いいね。ドーナツ、わけよう」

 ベッドに腰を下ろすと、マットレスがゆっくり沈む。二人の重さの分だけ、近さの実感が増していく。
 粉砂糖の甘さが、口の中にほどけた。陽真の指先に少し白い粉が残って、それを拭おうとした湊の手と、陽真の手が重なる。

 視線が重なった。言葉は、どちらからも出てこなかった。
 ほんの少しの間を挟んで、陽真が身をかがめる。湊は目を閉じるのが、昨日より少しだけ早かった。

 一度、触れる。二度目は、すこし長い。
 心臓の音が、相手にも聞こえてしまいそうで怖い。けれど、離れたくないと思ってしまう。
 湊の手が、遠慮がちに陽真のシャツの裾をつまんだ。陽真の指が、湊の頬から耳の後ろへ、髪を梳くみたいに滑る。

 ベッドの上に倒れこむ形になって、天井の白が視界いっぱいに広がった。
 陽真の影が重なって、距離は、もう数字では測れない。

「……湊」

 低い声が喉の奥で震える。

「……無理しないで。大丈夫?」

 湊は頷いた。頷いてから、自分が頷いたことに、少し驚く。
 背中を支える手の温度が、ゆっくり広がっていく。Tシャツ越しに伝わる心拍が、やけに大きい。

 ほんの少しだけ、怖さが顔を出した。
 陽真の匂い、体温、重さ。全部が嫌じゃない。むしろ、嬉しい。だけど——準備ができているか、と聞かれたら、きっとまだだ。
 言葉にしなくても、分かってほしい。けれど、言わなければ伝わらないこともある。

 そのとき、机の上でスマホが震えた。
 陽真が顔を上げる。湊もつられて目だけ動かす。
 震動が止まって、またすぐに鳴った。通知のポップアップが、画面の上に重なる。

「……ごめん、ちょっと」

 陽真は身体を起こし、伸ばした腕でスマホを取る。画面を見て、息を飲むように短く黙った。

「家庭教師の子?」
「うん。明日テストで、今からでも教えてほしいって。数学、どうしても分からないところがあるらしい」

 陽真は湊を見る。迷っている目だった。
 湊は笑ってみせる。自分の声が思っていたより落ち着いている。

「行ってあげなよ。……それ、君の仕事でしょ」
「でも」
「大丈夫。僕も、復習しておくから」

 ほんの一拍、空気が止まる。
 陽真は「ごめん」と言って、すぐに「ありがとう」と続けた。

「すぐ準備して、行ってくる。終わったら連絡入れる」
「うん」

 陽真は鞄に教科書とノートを詰め、ペンケースを探して机の下を覗き込む。湊はその背中を、ベッドから見ていた。さっきまで重なっていた影が、すこし遠くなる。

「またLINEして」
「分かった」
「ドーナツ、もう一個、持っていく?」
「いや。湊が食べて。糖分は、勉強に大事だから」

 二人とも笑う。笑いながら、笑い合っていることに、少し救われる。

 玄関のタイルにスニーカーの底が当たる乾いた音がした。

「行ってくる」
「うん。気をつけて」

 ドアが閉まる。いつもの光景に戻った部屋の中が、ゆっくりと静けさを戻していく。

 残された部屋は、さっきと同じものが、さっきとは違う場所にあった。ベッドの皺、テーブルの粉砂糖、開いたままの参考書。
 湊は深呼吸をして、机に向かう。鉛筆を握って、さっき途中で止まった問題の途中式をなぞる。

 数字の列は、ちゃんと続いているのに、心のほうの式は、途中で分数が増えて、分母と分子がうまく釣り合わない。
 さっきのキスの感触を思い出す。嬉しいのに、怖い。
 嫌じゃない。むしろ、もっと知りたい。けれど、焦って間違えたくない。
 そんな感情に、名前があるのかどうか、湊は知らない。名前を付けた瞬間に、形が固定されてしまいそうで、まだ恐い。

 机の端に置いたスマホが、短く光った。

〈着いた。ありがとう。終わったらまた連絡する〉

 陽真からだ。続けて、もう一通。

〈さっきの、急ぎすぎた。ごめん〉

 文末に、しばらく迷ったあとに置いたみたいな絵文字がひとつ。湊は、ふっと息を吐いて、返信を打つ。

〈大丈夫。僕も、びっくりしてただけ。テスト、うまくいくといいね〉

 送信。しばらくして、既読の小さな文字が点いた。

 窓を少し開けると、風がカーテンを膨らませる。洗濯物の匂いが部屋に入ってきた。
 湊は椅子から立ち上がり、ベッドの皺を手でならす。さっきまであった重みは、もうない。
 指先に、少しだけ温度が残っている。
 その温度を、どこに置いておけばいいのか、分からない。ノートの隅にメモのように書き留めることもできないし、タンスの引き出しにしまっておくこともできない。

 机に戻って、英語の長文を開く。
 ——未知の領域に踏み出すとき、人は必ず躊躇う。けれど、躊躇いそのものが、踏み出した証でもある——
 本文の一文が、偶然にも今の心に触れて、湊は小さく笑った。こういうときに限って、教科書はやけに親切だ。

 ふと、家庭教師の子の顔もよぎる。来年受験を控えた女子高生。
 陽真が「テンション合わせるのが難しい」とこぼしながらも、結局は連絡が来たらすぐに行くところ。そういう真面目さが、昔から好きだった。
 その真面目さが、さっきの勢いにも繋がってしまうのだと思うと、少しだけ苦笑いも出る。何事にも一直線で、全力で、目の前のものを信じてしまう人。
 だから、ブレーキを知っている自分が、隣にいる意味があるのかもしれない。

 窓の外から、夕方の音が増えてくる。自転車のブレーキ、近所のテレビの笑い声、風鈴。
 湊はシャープペンを置いて、天井を見る。
 この先のことを、少しだけ想像する。男どうしで付き合うということ。
 いずれは、今日みたいに途中で止まらず、最後まで行く日も来るのだろう。そうなったとき、自分はどうしたいのか。どうなっていたいのか。

 答えはまだ、はっきりしない。
 でも、今日みたいに途中で止まることが、間違いだとは思わなかった。
 止まれたことが、むしろ嬉しい。
 「嫌じゃない」と「まだ」は、同じ場所に置いておける。急がなくても、消えない。

 スマホがもう一度鳴る。

〈いま帰り。ありがとう、助かったって言ってた〉

 短い文に、走っているときの息づかいが混じっている気がした。
 湊は、窓の外を見てから、打つ。

〈おつかれさま。ドーナツ、半分残してある〉
〈帰りに寄っていい?〉
〈うん〉

 すぐに来れば、二人でまた机に向かうことになるだろう。問題を一つ解いて、笑って、今日の続きはしない。たぶん。
 それでいい、と思う。
 この先のことは、まだ全部は分からない。
 でも、分からないまま、少しずつ進めばいい。

***********

今回のお話は、YouTubeで配信中の楽曲「この先のこと — What Lies Ahead」とリンクしています。良かったら、楽曲の方も聴いてみてくださいね♫

「この先のこと — What Lies Ahead」⇒ https://youtu.be/ox8VtqYza5g
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