聖なる王女はベッドの上で帝国を救う

梵天丸

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第四十二話 魂の盾としての力

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その日、クリストフは帝国の将来を左右する重要な軍事会議に出席していた。
近隣諸国との緊張が高まる中、帝国の防衛戦略に関する議論が白熱し、会議室には張り詰めた空気が漂っていた。
その、クリストフの精神が極度の集中と緊張状態にあった、まさにその瞬間を狙って、ハルディンはこれまでで最も強烈な精神攻撃を仕掛けてきたのだ。
それは、過去の遠征で多くの部下を失った際の、彼の心に深く刻まれた罪悪感や後悔、そして皇太子としての重圧といった、彼の魂の最も柔らかい部分を容赦なく抉るような、悪意に満ちた鮮明な幻覚と、嘲るような囁きだった。

「お前のせいで彼らは死んだのだ」「お前には皇帝の資格などない」「お前は結局、誰一人守ることなどできないのだ」と。

「うっ…!ぐぅっ…!」

クリストフは、突然襲い来た激しい頭痛と吐き気、そして目の前に広がる凄惨な幻覚に、思わず呻き声を上げ、椅子から崩れ落ちそうになった。
会議室は一瞬にして騒然となり、側に控えていた副官や侍従たちが慌てて駆け寄る。
「殿下!」「どうなさいました!」という声が飛び交うが、クリストフの耳には届かない。
彼の瞳には、再びあの焦点の合わない虚ろな色が浮かびかけていた。
ハルディンが、彼の精神の隙をついて、今度こそ完全に意識の表層へと浮上し、この体を乗っ取ろうとしているのだ。

そのクリストフの魂の危機は、皇太子宮の離れた場所で祈りを捧げていたレティシアにも、まるで鋭い痛みのように、強い波動として伝わった。
クリストフの魂が発する悲鳴にも似た苦痛の波動と、急速に膨張し、会議室一帯を覆い尽くそうとする、濃密で邪悪な闇の気配。
彼女は祈りを中断し、侍女たちの「妃殿下、どちらへ!」という制止の声も聞かず、本能的に会議室の方向へと走り出していた。

重厚な扉を勢いよく開けると、そこには苦悶の表情で床に膝をつき、自らの頭を抱えるクリストフの痛ましい姿があった。
周囲の屈強な軍人や老練な側近たちは、何が起こっているのか理解できず、ただ狼狽えるばかりで有効な手立てを打てずにいる。
レティシアは一瞬たりとも迷わず、床に駆け寄り、クリストフの冷たく震える手を両手で強く握りしめた。

「クリストフ様! しっかりしてください! 私がそばにおります! あなたは一人ではありません!」

彼女はクリストフの瞳を、その魂に語りかけるように真っ直ぐに見つめ、心の中で強く、強く祈った。

聖なる光よ、彼の魂を包み込み、闇の侵食からお守りください、と。

古文書にあった「魂の共鳴」を意識し、彼女の温かい手を通じて、清らかで揺るぎない祈りの力、そして彼への深い愛情が、光の奔流となってクリストフの混乱した精神世界へと流れ込んでいく。
それはまるで、暗く濁った水の中に注がれた一筋の清らかな湧水のように、彼の意識を蝕んでいたハルディンの悪意ある幻影と囁きを、優しく、しかし力強く洗い流していった。

クリストフの苦悶に歪んでいた表情が、徐々に和らいでいく。
瞳から虚ろな色が消え、次第に焦点が合い、目の前にいるレティシアの姿をはっきりと認識する。
激しかった頭痛も、胸を締め付けていた吐き気も、嘘のように引いていった。
彼は、自分の手を強く握りしめ、涙を浮かべながら心配そうに見つめるレティシアの姿を認めると、深く、安堵のため息をついた。

「レティシア…また、あなたに助けられましたね…」

彼の声はまだ掠れていたが、それは紛れもなく彼自身の、意志を持った声だった。

会議室にいた居合わせた者たちは、目の前で起こった一連の出来事に、ただただ息を飲んだ。
屈強な騎士団長も、老練な宰相も手出しできなかった皇太子の突然の変調を、若く美しい皇太子妃が駆けつけ、ただ手を握り、祈るように見つめただけで、瞬く間に鎮めてしまったのだ。
彼らは改めて、レティシア・フォン・リステアという女性が持つ、人知を超えた不思議な力の存在を目の当たりにし、深い畏敬の念を抱かざるを得なかった。
彼女はただ美しいだけの聖女ではない、と。

レティシアは、クリストフが完全に落ち着いたのを確認すると、彼を優しく支えて立ち上がらせた。
彼女の「魂の盾」としての力が、ハルディンのこれまでで最も強力な攻撃から、確かにクリストフを救ったのだ。
この力があれば、ハルディンの精神攻撃には対抗できる。
その確かな手応えを感じつつも、彼女は同時に、これまでになく大きな精神的な疲労感も感じていた。
まるで、魂の一部を削り取られたかのような感覚。
力の行使には、やはり代償が伴うのだ。古文書の警告が、重い現実として彼女の心に刻まれた。

その夜、自室に戻ったレティシアは、心配するナタリアと共に、再び古文書の調査を続けていた。
クリストフを救えた安堵感と共に、聖女の力の危険性も改めて認識し、今後の力の使い方について深く思いを巡らせる。
そんな中、ナタリアが、調査していた別の文献の中から、特に気になる記述を見つけ出し、声を潜めてレティシアに告げた。

「妃殿下、こちらをご覧くださいませ…これは、闇の精霊王クラスの存在と、人間が禁断の契約を結んだ場合の、その契約者の末路について記されている部分なのですが…」

ナタリアの声は、恐怖と嫌悪感でかすかに震えていた。
レティシアが、ナタリアが指し示すその箇所に目をやると、そこには、想像を絶するほど悲惨な結末が、冷徹な筆致で記されていた。
強大な闇の力を得る代償として、契約者は最終的に、その魂ごと闇の精霊王に喰らい尽くされ、存在そのものが完全に消滅するか、あるいは永遠に自我を失い、闇の眷属として主人に隷属し、終わりのない苦しみを味わい続ける運命にある、と。

(黒幕は…こんなにも恐ろしい結末を迎えることを覚悟の上で、あるいはそれを望んで、クリストフ様にハルディンを憑依させるような契約を…?)

レティシアは背筋が凍るような、言いようのない恐怖を感じた。
黒幕の目的は、単なる権力欲や帝国支配といった、理解可能な野心の範疇を超えているのかもしれない。
もっと深く、歪んだ、純粋な悪意や、破滅への渇望のようなものが、その根底に潜んでいるのではないか。
そして、その底知れない悪意を持つ黒幕を止めなければ、クリストフ様だけでなく、この帝国の、いや、世界の多くの人々が、その計り知れない悪意の犠牲になってしまうかもしれない。
彼女の中で、正体不明の黒幕に対する危機感と、それを何としても阻止しなければならないという聖女としての使命感が、かつてないほど強く、激しく燃え上がっていた。

真の敵は、すぐそこまで迫っているのだ。
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