十二英雄伝 -魔人機大戦英雄譚、泣かない悪魔と鉄の王-

園島義船(ぷるっと企画)

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零章 第四部『加速と収束の戦場』

七十五話 「RD事変 其の七十四 『信仰の破壊⑧ 信仰の死んだ日』」

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 サンタナキアは、しばしその姿を見つめていた。

 目は虚ろで、生気が抜けてしまった今の彼にとって、すべてはどうでもよかったのだ。だから、突然現れた存在を見つめることしかできなかった。

 本当ならば、もう何にも反応しないはずだった。
 無視し続けるはずだった。

 しかし、その者は、こう言った。

「ボクには、君の望みを叶えることができる」

―――望みを叶える

 その者は、そう言ったのだ。それが嘘や偽りでなければ、今サンタナキアがもっとも望むことは、アレクシートを蘇らせることである。彼が再び戻り、生きることである。

 否、自分を愛することである。

 彼の愛を受けることが、サンタナキアにとってはすべてなのだ。アレクシートが生きるということは、その結果をもたらす手段にすぎない。同じ場所に存在したいという欲求は、そこから生まれるのだ。

 そして、自分も愛したい。アレクシートを愛することで、彼はもっと愛してくれるだろう。愛は愛を呼び、混じり合い、より深く広がっていくのだから。

 それは最高の喜悦。最高の喜び。人間は、そのためだけに生きているといえる。愛があるところに人がおり、人がいるところに愛がある。愛が、愛だけがすべての源泉である。

 しかし、そんなことはありえないこと。普通に考えれば、一度死んだ者を蘇らせるなどできない。理性はそう訴える。そんなことは当然だ。誰でも知っている。

 しかもアレクシートは、血の沸騰を引き起こしている。一度これが発動すれば、どんな人間でも生きてはいけない。因子が破壊されてしまうからだ。一瞬でも引き起こしてしまえば手遅れである。

 聞いた話によれば、血の沸騰は魂そのものにすらダメージを与え、死後も大きな代償を受けてしまうという。肉体と精神、霊は密接な関係にあるのだ。だからアレクシートは、もう誰の手にも負えない。すべてを白狼の使いに任せるしかない。

 偉大なる白狼は慈悲深い存在。傷ついた魂を癒すために、特別な世界を用意しているという。そこは人間世界でいうところの【病院】であり、霊的な治療を施し、ゆっくりとリハビリをさせる場所だという。

 ああ、愛深き偉大なる者よ。あなたがたは、どんな人間でも見捨てない。人の過ち、人の愚かさすら包んでしまう愛の化身なのだ。だから、だから、そのまま任せてしまうほうがよいのだ。

 しかしながら、【感情】は納得しない。
 サンタナキアの感情は、そうしたいとは思っていない。

 カーリス教の秘蔵の本の中には、魂の治癒についてのものが存在する。多くは禁術と呼ばれるものであるが、人間の蘇生はけっして不可能ではない。魔王技にもそういった類のものがあるのは事実だ。

 触れたい。また触れられたい。その想いが抑えられない。だって、そうじゃないか。初めて触れた光を愛してしまうのは、そんなにいけないことだろうか。誰だって、失いたくないと思うものじゃないか。

 何度か迷ったあと、それでもすがるような視線を、その人物に向ける。その人物は、サンタナキアを笑顔で見つめながら、ただ黙って見守っている。おそらくサンタナキアが、言葉を発するのを待っているのだろう。

 それからしばらく間があったが、ようやくにしてサンタナキアは、かすれた声で話しかけた。

「あな…たは……。天使…なのか?」

 天使とは、まさにその名の通り、天からの御使いのことである。一般的に天使とは、女神から派遣される者たちであり、世界のシステムのために活動している。

 たとえば、さきほど述べた魂の再生、循環に関わる仕事をしている白狼の使者。狼の姿をしているが、彼らも立派な天使であるといえる。言ってしまえば、偉大なる者たちからの使いは、すべて天使なのである。
 
 天使の言葉には、すぐに従わねばならない。それは神の言葉、神の意思。あらゆるものに優先されるものである。天使ならば、奇跡を起こすことも可能なのではないか。そう思ったのも無理はない。

 されど、その人物は首を横に振る。

「残念ながら、ボクは天使じゃない。こんな冷たい赤い雨の中に舞い降りる者が、本当に天使だと思う?」
「御救いの天使…ならば」
「ああ、そうだね。人がもたらした痛みの中に舞い降りる天使。人を救うために降りる天使の話。ボクは嫌いじゃないよ」

 だいぶ和らいだが、空からは赤い雨がいまだ降り注いでいる。そのすべてが痛みをもたらし、すべての人間の心をずたずたにしている。まるで世界の終わりかのような光景である。

 これが神話ならば、御救いの天使が現れるところだ。人を助けるために舞い降りる者。人の罪を赦す存在。そうした逸話が存在するのは事実である。

「でもね、これは人が招いたこと。人自らが招いたことなんだ。それは因果の法則によって、人自らが負う責任だと思うよ。つらくても、哀しくても…ね」

 この痛みも、すべては人間の自由意志によって引き起こされたことである。人が愛をもって人に接していれば、神の法則を守っていれば、このようなことにはならなかった。

 それはユニサンを殺したサンタナキアが、一番理解していた。手に残る不快な感覚。怒りで誰かを殺した感覚。それを責めるように降り注ぐ赤い雨。そのどれもが哀れな因果を示していた。

「だから、ボクは天使じゃないよ」
「では……誰……願いは…?」
「天使でなくても願いは叶えられる。ボクには、彼を蘇生させることができる。もちろん、彼の破損した因子を癒すこともできるんだ。それでは不満かな?」
「そんなこと…でき……」
「できるよ。ボクにはできる」

 その人物から、じわり、と何かが滲んだ。

 戦気ではない。それは戦うためのオーラではない。されど、異様に濃密で、異様に奥深い迫力を感じさせた。ものすごく薄いのに、なぜか底が見えない。見通せないほど、深い深い深遠が広がっている。

「君は知っているかな。【王気】には、破損した因子を修復する力があるって」

 王気。あらゆる気質の中で、最高のものの一つ。

 人々を導く力であり、それ自体が強力なエネルギーであり、宇宙を創造した力と同じものである。いまだこの力は活動を続けており、宇宙を拡大し続けている無限のパワーである。

 基本的には男性が持つことが多いが、女性でも持つことができるし、この人物のように中性、あるいは【無性的】な人間でも持つことができる。

 彼が無性的なためか、その王気は男性的でも女性的でもなく、非常に透き通った透明の色をしていた。しかし、王気であることには違いなく、王気であるからこそ、破損した因子を直すことができる。

「王…気? 本物……なのか?」
「まずは証拠を見せよう」
「―――っ! うう!! ああっ!」

 その人物が手をかざすと、透明な王気はサンタナキアに降り注ぐ。赤い雨に濡れてボロボロだった自分を包み、回転し、まるで洗濯機のように洗浄していくのがわかった。

 されど、それは不快ではない。透明な王気が赤く染まるたびに、サンタナキアの中から毒素が抜けていくのがわかった。透明な王気が、すべてを肩代わりしてくれているのだ。

 そして、ぐちゃぐちゃだった因子が、急速に元に戻っていく。ビデオを巻き戻しするかのように、時間が巻き戻っていくように、早送りの中をサンタナキアは、ただただ浮遊する。

 その数秒によって、サンタナキアの因子は、大部分が修復されていた。

「まだまだ完全ではないけど、だいぶ戻ったよ。でも、全部が直せるわけじゃないことも知らないといけないよ。一度覚醒してしまったところは、戻すことができないものもあるからね」

 たとえ蓋をしても、一度開いてしまった因子は、ちょっとしたきっかけでまた開いてしまうことがある。肉体が一度体験しているので、その感覚が残っているのだ。

 たとえば、自転車のコツを覚えてしまえば、記憶を失っても身体は覚えているものである。潜在意識に蓄えられた感覚は消えないのである。それゆえに、場合によっては無意識のうちに、自分の限界を超えて力を出してしまうことがある。

 この性質を利用して強化するのが、ロキの改造手術である。軽微のオーバーロードによって、彼らの因子の蓋を半分外すことで、通常以上の力を解放させるのである。ただ、因子を強制的に開くことには変わりないので、結局は数年で死んでしまうのだが。

 現在のサンタナキアは、正当な方法で治癒されているので、ロキの手術と比べればだいぶましである。少なくとも、無意識のうちに暴発することはないだろう。

 そう、この人物の王気は本物なのだ。

「あぁ…ぁぁ…。本物…。本物……なのか!!」
「言っただろう? 天使じゃないって。ボクは―――【王】だ」

 その人物は、自らを王と名乗った。そして、証拠を見せた。サンタナキアの因子を修復するなど、王以外にはできないからだ。

 ただし、王気には相性というものもある。できれば、自分にもっとも近しい属性の王の庇護下に入り、その加護を受けるのが一番である。もっとも、この人物のものは無性的なので、誰にでもそれなりに効果があるのが最大の特徴である。百は無理だが、八十までは誰でも回復できるのだ。

「おう…王が…いれば……アレク…が…?」
「王だからって、蘇生ができるわけじゃない。ボクだからできるんだ。もちろん、ボク以外でもできる者はいるよ。魔王とか、第一支配者階級の一部のマスターとかね。彼らは失われた魔王技を使えるから。でも、今すぐ処置しないと、彼は死んでしまうよ」
「アレクは…死んだ!! 死んだんだ!」
「いいや。まだシルバーコードが切れていない。境目にいる」

 人間の死とは、シルバーコードが切れることを指す。

 肉体と霊体が完全に切れてしまえば、二度と戻すことはできない。それが法則である。されど、それが切れていなければ、まだ死んでいないということだ。

 シルバーコードが切れていない理由は、それなりに考えられる。人によっては、肉体と霊体の分離がスムーズにいかないことがある。

 これはよく、物的な影響力が強く残っている人間に起こる。霊体にまで物的影響が染み込んでいるので、切れるまで時間がかかるのだ。しかも痛みが伴う。

 それ以外にも、肉体が仮死状態になっているだけ、というケースもある。ゾンビの伝説などは、いまだシルバーコードが切れていない状態で墓場に入れられ、何かのきっかけで蘇生したものを指している。

 あるいは、すでにシルバーコードが切れていても、肉体は活動を続ける場合がある。与えられた生命力が残っていて、魂のない肉体だけが反射で動くのだ。この場合、肉体が死に抵抗しているように見えるので、周囲の人間は恐怖を感じるが、実際はただの死後の物的反応にすぎない。

 つまりは、シルバーコードこそが、すべての生死を決める要素なのだ。

 生命はすべて霊にある。霊が活力を与えるから、肉体は活動し、細胞分裂を繰り返すのだ。生命とは、霊である。霊とは生命であり、すべてを構成する要素なのだ。

 では、アレクシートの場合はどうだろう。
 心臓が止まっているのに、なぜ切れていないのだろう。

 その答えを、この人物は知っていた。視えていた。

「ああ、すごいよ。彼は。愛が…、愛が溢れている。君への愛が、まだ離れることを拒否しているんだ。そして、女神もそれを認めている。知っているかい? 女神はね、祈りを叶えてくれるんだよ。でも、形だけの祈りには応えない。心からの真摯な祈りにだけ褒美を与えるんだ」

 深い、深い愛の祈りに、女神が応えないことがあるだろうか?
 愛の存在たる女神が、知らんぷりをすると思うだろうか?

 違う。断じて違う。

 祈りとは、波動である。それは強烈な磁力を持っており、自動的に同じ力を引き寄せる。その想いに応えた者たちが、自然に集まってくる。助力する。同じ想いに感動した存在たちが助けてくれるのだ。

 ただし、祈りの波動は階層を昇るにつれて純粋になっていく。地上で放った祈りの波動は、物的階層、幽的階層、霊的階層と昇るにつれて、その本質の部分だけを伝えていく。そして、愛の園の最上部、最後の神的階層に届く頃には、ただただ真っ白なピュアな想いだけが届く。

 愛の、愛の想いだけが。

 その愛の願いを原因として、結果となる奇跡が起こる。一見するとありえないことなので、人々は奇跡と呼ぶのだが、実際は原因を伴った立派な結果でしかない。因果の法は絶対である。

 たとえば、人間の寿命を延ばすくらいは、そう難しくはない。価値があり、意味があり、周囲の進化を促すものであると判断されれば、数ヶ月から数年くらいは、伸ばすことが可能だ。

 死期が近い病弱の母親が、まだ若い子供のために祈ることがある。「神よ、私が死ぬにはまだ早いのです。子供のために、どうか、どうか、いましばしの時間をお与えください」と。

 結果、医者は一ヶ月の命だと言ったが数年生きて、子供を教育する時間が与えられた。これはご都合主義ではない。それだけの条件を母親が整えたのだ。愛を、愛を、ただ愛を発したのだ。

 それは偽りの祈りではない。カーリス教でやるような、形だけの文言の羅列ではない。本当は清らかでない者が歌う賛美歌など、女神には届かない。その階層に届くまでに、化けの皮が剥がされるからだ。

 だが、サンタナキアの愛の祈り、アレクシートの愛ある行動、そのすべては波動となって女神に届く。自分のすべてを犠牲にしても相手を想う気持ちが、次元を超越したのである。それこそ真なる祈りであり、その効用である。

 因果の法は、愛の法である。
 真実の愛を放つ者にこそ、因果は味方となるのだ。

「アレク…アレク……。私は…、愛している……。心から……」
「そう。アレクシートも君を愛している」
「愛…して。愛…されて。でもそれは…」
「なぜ人間は、愛を恥じ入るのだろう? 愛は素敵じゃないか。どんな愛だって、愛は愛であるだけで最高のものなんだよ。それが君なんだから、何も恥じることはないんだ」

 サンタナキアは、心のどこかで愛する気持ちを恥じていた。男が男に対して強い愛を抱くというのは、世間的に見れば嫌悪されても仕方がないことである。

 しかし、それは俗世的なやましいものではない。純粋であり、情熱的であり、激しい炎によって、やむにやまれずに求めるものなのだ。

 それを、愛の使者であるケマラミアは肯定する。
 その理由も、彼は知っていた。

「君たちは【アフィニティ】だ。アフィニティを知っているかい? 同じ霊が、二つに分かれた存在なんだ。同じ霊だから、成長の仕方も進化の仕方も一緒なんだよ。だから惹かれあう」

 人の本体である霊とは、巨大な知性的意識体である。

 地上で表現されている部分は、とてもとても小さい。人間一個の意識は、霊全体の、本当にごくごく一部しか使用していない。そして霊は、進化のために自己の分霊を大量に生産する。

 生み出された分霊は、同じ世界であっても次元が違う各階層に散らばって体験を得る。無限の体験を得ることで霊は成長するので、同じ地上に生まれる意味がないからだ。

 よって通常は、同じ霊の分霊同士が出会うことはありえない。
 地上に生まれても、生まれる時代が違う。
 両者は同じ場所に存在することができないのだ。

 されど、何事にも例外がある。
 それが、アフィニティである。

 同じ霊同士が、同じ場所に生まれる。同じ世界に生まれる。どんなに離れていても、生まれた国や性別が異なっても、あるいは同じでも、両者は惹かれあうのである。

 一人がもう一人を追いかけ、もう一人が一人を追いかける。両者は、常に一つになろうとするのである。そして死後は、いつか一つになる。もともと同じ存在だからである。

 通常、同じ分霊が同じ場所にいても、互いを認識しないこともある。それを考えれば、サンタナキアとアレクシートは奇跡的な出会いを果たしたといえるのだ。

「君たちは、たまたま男同士に生まれただけだ。もし片方が女性ならば、まさに『運命の異性』になっていただろうね。永遠の愛を誓い合える存在になっただろう。でも、それは些細なことだろう? 君たちの愛が変わるわけじゃない」
「そう…。そう……だ。何も…変わらない。アレクと私は、同じだ。同じ…存在だ。だから、だから……一緒に…いたいんだ」
「君の愛は、なんて情熱的なんだ! 片時も離れるのが嫌なんだね! すごくいいと思うよ! うん、すごくいい!!」

 ケマラミアは、サンタナキアの愛に打ち震える。

 霊の視点で見れば、地上での死の別れなど、ほんの一瞬である。永遠の生命の進化にとって、数年であろうが数十年であろうが、瞬き一つの短い時間である。
 
 されど、人間はそれすらも惜しむ。
 一秒たりとも離れたくないと願う。

 なんて愚かしいほどに狂おしい独占欲。そこまで愛を燃やせる存在は、少なくとも精霊の中にはいない。常に幽的階層に関わる彼らには、物的世界の感情が理解できないのだ。

 愚かさこそ人間であり、愚かだからこそ人の成長は劇的になる。ケマラミアは、そこが大好きなのだ。

「はぁぁぁ、君はやっぱり素晴らしい。さあ、ボクに見せてくれ。君のすべてを」
「何を言って…。早く……アレクを……何でもする…から」

「そう、ちゃんと自己紹介をしないとね。ボクの名前は、ケマラミア」


―――君が殺した、黒い者たちの仲間だよ


―――君が愛するアレクシートを殺した、ね



 ぶちん



 ケマラミアの言葉がすべて終わる前に、聡明たる者は、すべてを理解した。一瞬で情報が構築され、目の前にいる存在の正体が視える。いやがおうにも、わかってしまう。

 直後、閃光が走った。

 その鋭いものは、赤い雨の中を切り裂き、あらゆるものを破壊するために突き進む。大地が欠け、空気が割れ、闇が滅びるかの如く、まっすぐにケマラミアに向かっていく。

 激しい怒りが、激しい衝動が駆け抜ける。
 目の前の存在を破壊しようと走る。

 だがそれは、ケマラミアの直前で止まった。
 否、止められた。

「無礼者! マスターに触れるな!!!」

 ケマラミアの眼前には、一人の精霊が具現化していた。

 丸い頭にふさふさの毛は、モグラを彷彿とさせ、顔や鼻もそれに酷似している。身体も体毛で覆われており、非常に硬質であるため、それ自体が鎧といっても過言ではない防御力を誇る。

 彼にとっての最大の武器は、両手の爪であろうか。太くて長い頑強な爪は、突き刺すというよりは「はたく」ことに長けており、あらゆるものを跳ね除ける力を持つ。

 その人型のモグラのような精霊、カンズオングラ〈災厄除けの土龍〉が、突如襲いかかってきたサンタナキアを、ケマラミアの眼前で受け止めたのだ。放っておけば、間違いなく害悪となったであろう。そして、実際にケマラミアを殺そうとしたのだ。

「ううううううう!! うあぁああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 サンタナキアは、再び獣のような形相に戻っていた。ケマラミアの言葉に反応し、怒りが全身を駆け巡ったのだ。折れた腕を伸ばし、ケマラミアの首をへし折ろうとする。

 その姿は、まるで狂った人形である。

「鎮まれ!!」

 カンズオングラが、サンタナキアを弾き飛ばす。彼の能力は、あらゆる災厄から身を守るものである。霊的な攻撃、精神的な攻撃、物理的な攻撃から、主人を守るための盾である。

 今まで、この盾を越えられた者はいない。この上位精霊は、かつての神々が使う防御結界に等しい力を宿している。防御特化ゆえに攻撃は苦手だが、防ぐことに関しては中級神術に匹敵する。

 が、眼前の存在は体勢を整えると、かまわず襲いかかる。

 カンズオングラはケマラミアの前に立ち、指一本も触れさせない気構えである。彼は、守るために生み出された存在。それだけが存在意義である。そこには、絶対的な自負と自信がある。

「うぁぁあああああああああ!」
「何度やっても無駄よ! 諦めろ! マスターの慈悲がわからぬのか!」

 カンズオングラはさきほどと同じように、サンタナキアを弾こうとする。爪で受け止め、身体で支える。人間より遥かに強い力を持つ彼にとって、この程度は問題ではない。

 なにせサンタナキアの両手は折れており、身体も傷だらけで満身創痍。しかも剣すら使っていないのだ。剣士が、己の肉体だけで立ち向かってくるのだから、そこに脅威は存在しない。

 そう思っていた。
 その場にいた、ケマラミア以外の者は、そう考えていた。

 だが、赤い双眸から溢れた光が、サンタナキアを覆うと同時に、その力が一気に高まる。圧力が高まる。燃え上がるように、激しく爆発する!!

 サンタナキアが、カンズオングラの爪を握り締め―――


―――引きちぎった


「―――ぬぐおおおおおお!」

 どこにそんな力があるのか。残っているのか。折れた腕で掴むこと自体、恐ろしい激痛に違いないのに、彼は何の躊躇いもなくやってのけたのだ。

 爪を引きちぎられた箇所からは、光の粒子のようなものが飛び散る。これは擬似的に生み出した肉体を構成する要素、人間でいうところの血肉に相当するものである。

 カンズオングラは大地の精霊なので、視覚的には黄色い粒子が飛び散る。だが、それがどんな色であれ、生命力を弾き飛ばされたことには変わりない。手に激痛が走った。

「馬鹿なぁあ! この俺の爪を! なぜ、人間などが! もう手負いではないか! どこにそんな力が!」
「邪魔をするなぁぁああああああ!」

 サンタナキアは、さらにもう片方の爪、五本を引きちぎる。それから顔面に、これまた折れて捻じ曲がった指を突き刺すと、頬から半分を抉り取った。

「ぐぎゃぁああああああ!」
「カンズオングラ!! なんてことを! 今、癒すわ!」

 衝撃の現場を見ていたクロ・ロアンクレーンカ〈あなたとの永遠の愛花〉が、即座に具現化し、カンズオングラに癒しの力を施す。花に蓄えられた精気を注入すると、カンズオングラの顔が再生を始める。

「うおおおおおおおおおお! 死ね、死ね、死んでしまえ!!」

 それでもかまわず、サンタナキアは顔面を破壊し続ける。再生が間に合わないほどに、破壊して、破壊して、破壊し続ける。カンズオングラがすでに意識を失いつつあるにもかかわらず、攻撃をやめない!

「何!? 何をしているの!? こんな人間、知らない! やめて、もうやめて!! 狂ってるわ!!」
「下がれ、クロ・ロアンクレーンカ!」

 次に具現化したのは、ケマラミアが連れてきた上位精霊三人、最後の一人。その存在が出現すると同時に、サンタナキアが炎に包まれた。

 ジ・グ・ニグレッダーヌ〈邪滅の塵香火〉。火の上位精霊で、強力な破邪の炎を操る精霊である。ケマラミアが生み出した眷族の中では、最上位の攻撃力を誇っている。

 上半身は猛々しい人間の男性の形をしているが、下半身は存在しない。その代わりに、腰から下は八又に分かれた炎が噴き出しており、それがタコの足のように自在に動き、サンタナキアを捕縛している。

 捕縛した箇所からは激しい炎が噴出し、身体を焼いている。もはや焼くという言葉が生ぬるいほど、熱したフライパンに乗せられたバターのように溶けていく。

 ユニサンが、マギムフレアの術式事故に巻き込まれた時に助けたのが、このジ・グ・ニグレッダーヌである。実際に解除したのはケマラミアだが、術式に込められた原始精霊たちが暴れないように抑えていたのは、彼である。

 周囲の火の精霊を無条件で使役するだけの力を持つ、強力な上位精霊である。その彼が力を使えば、人間など一瞬で消滅する。事実、緊急事態であったため、彼もそのつもりで攻撃を開始していた。

 ケマラミアの許可を取る暇がなかった。そんなことをしていれば、仲間が殺されてしまう。今のサンタナキアは、それほど危険で凶暴であったのだ。

 だが、だがである。

「こんなものがぁああああああああ!」

 サンタナキアの戦気が、ジ・グ・ニグレッダーヌの炎を吹き飛ばす。王竜級の人間が苦戦する魔獣でさえ、彼の炎ならば数秒で焼き殺すことが可能である。

 それを一蹴した。その気迫だけで、だ。

「ありえぬ。ありえぬ…! なぜ人間―――がっ!」

 ジ・グ・ニグレッダーヌの顔が苦悶に歪む。束縛を解いたサンタナキアが、今度は彼に攻撃を仕掛けたからだ。

 その姿は、まさに獣。

 束縛された際に、ただでさえ折れた両腕は完全に炭化してしまったので、唯一残された口でジ・グ・ニグレッダーヌの肩に噛み付いたのだ。そして、噛みちぎった。

 ジ・グ・ニグレッダーヌの肩からは、まるで炎のような赤い粒子が飛び散っている。それが顔にかかるたびにサンタナキアの顔が焼けるが、それでもかまわずに噛み続ける。

「人間…なのか!? これが人間なのか!!!」

 その様相に、上位精霊たちは恐怖する。

 その異様な姿。異様な感情。制御しようにもしきれない【怒り】が、精霊たちの心に突き刺さり、畏怖させる。精霊は人間以上に感情に敏感である。彼らそのものが繊細で、より意識の世界に近い存在だからだ。

 ゆえに、精霊は人の感情とともにある。たとえば、土の精霊であるカンズオングラは、その大地の性質を生かして、人々の忍耐強さを鍛える役割を果たす。

 土とは、豊穣であり、栄養であり、循環を示す力である。大地が生まれる長い時間、すべてはじっくりと生長する。人間の霊魂も同じで、大地のように長い時間をかけて成長する。

 その人間の波動を受けて、精霊も成長する。人間は、常に精霊とともにあるのである。同じ存在であり、共同体であり、仲間である。そうなるように創られたからだ。

 しかし、怒りという感情はすべてを破壊する。その調和も、その愛情も、すべてすべてすべて壊してしまう。

「何なの!! 何なの、これは! 知らないわ! わたくしの知っている人間じゃない! こんな人間は、知らない!! 嫌っ! やめて! もうやめてぇええええええ! その思念を止めてぇええええええ!!」

 あまりの波動に、クロ・ロアンクレーンカが絶叫する。それほどまでにサンタナキアが発する怒りは攻撃的で、破滅的だったのだ。身体中を炎で焼かれながらも噛み付く姿は、見る者を戦慄させた。

「もう終わりだ。そこでやめよう、サンタナキア。これ以上は仲間にする行為じゃない。君は仲間に酷いことをする人間なのかい? 仲間を怖がらせて楽しむ趣味はないだろう? さあ、口を離して」

 それを止めたのは、ケマラミアである。その顔の笑みは変わらないが、言葉には少しだけ強い制止の力が宿っている。

 だが、サンタナキアは、その言葉に激怒する。

「仲間・・・! 仲間だと!! 私が! お前たちの!! 仲間だと!!!」
「そうだよ。紛れもない事実だ。君は、ボクたちの仲間だ」
「ふざけるな!! 殺してやる!! お前たちを殺す!!」

 サンタナキアから、強烈な怒りの波動が迸る。双眸はさらに光を増し、血の涙が溢れ出す。

 その姿は、まさに【鬼】。

 ユニサンの般若の顔すら上回る、悪鬼の姿である。それこそバーンに相応しい顔であることを、今のサンタナキアは知らない。あるのは、ただただ敵に対する怒りのみ。アレクシートを殺した敵に向けられる殺意のみである。

「その瞳のことも知らないだろう?」
「そんなことは、どうでもいい!!」
「そうかい? でも、君には興味深い話だと思うよ。それは【聖眼】といってね、かつて聖女カーリスが持っていた瞳なんだよ。それでも、どうでもいいと思うかい? 無関係だと思うのかい? その焼き付けられた印は、本当に偶然かい?」
「っ……カーリス…様の…」
「そう。彼女が持つ【予測視】の能力だ。君はすでに体感しただろう?」

 サンタナキアは、この聖眼の力を使ってオロクカカを倒した。その時、あらゆる攻撃の軌道が見えた。まるで未来の映像が視えたかのように、数秒先のラインが、はっきりと映っていたのだ。

 そして、攻撃の際も相手のすべてが見通せた。どう防御して、どこに欠陥があるのか、どこを攻撃すればどうなるのか、あらゆる予測ができた。来る場所がわかっていれば、避けるのはたやすい。弱い場所がわかれば、倒すのもたやすい。もちろん、そこにサンタナキアの実力が加わってこその結果である。

「君は何も知らない。何もわからない。でも、ボクたちは君の知らないことも知っている。君が納得するかどうかはともかく、色々な疑問にも答えられるし―――」


「君の愛する者を助けられる」


「―――!!」

 その言葉に、サンタナキアが反応し、怒りが小さくなったのがわかった。彼にとって、怒りよりも大切なことがある。それこそがアレクシートなのである。

 しかし、怒りとは恐ろしい。敵への怒りによって、愛する者のことを一瞬でも忘れてしまうのだから。もっとも大切なもののはずなのに、怒りによって人はすべてを失ってしまうのだから。

「いいかい。助けられるんだ。ボクは助けられる。君と、君の友をね。でも、君の了承がなければできない。君が望まなければ、与えられない。不思議に思うかもしれないが、これがルールなんだ」

 人間の思考からすれば、助けられるのならば、すぐに助ければいいと思う。しかし、ケマラミアにも事情がある。世界にはルールがあって、すべてのことに法則がある。その中の一つに、絶対の決まりがあった。

 求めよ、さらば与えられん。

 叡智は常に存在する。この宇宙が生まれたときから、全存在を生み出した法則が存在している。新しく作られるのではなく、最初に全部そろっているのだ。人間の発展や進化とは、すでにある完全なものを発掘していく過程なのだ。

 ただし、それは求めなければ与えられない。

 それは日常生活と同じである。いかなる知識も、自ら学ぼうとする意思がなければ与えられない。学校に行けばカリキュラムがあるだろうが、世界のシステムが優先するのは、何よりも自由意志である。

 たしかにカリキュラムは用意される。されど、あくまで当人が求めた結果、それが与えられるにすぎない。まずは求めなければならない。これは絶対のルールなのだ。

 サンタナキアが、真実の愛を得るためには、自ら求めねばならない!!

「敵であるボクに対して、それができるかい? ボクは味方だと思っているけど、君がそう思っているのならば、それはとてもつらいことだね。大切なものを奪った相手に頭を下げるなんて、一番つらいことだろう」

 それは怒りを忘れるということ。
 許すということ。

 なんと因果なことだろう。そして皮肉なことだろう。バーンとは、怒りを忘れられない者でありながら、怒りを忘れねばならない存在でもあったのだ。

 怒りに翻弄され、怒りとともにあり、怒りを制御し、怒りを忘れる。すべての矛盾の中に存在するからこそ、それは強くなる。逞しくなる。世界を燃やす存在となれるのだ。

「はぁはぁ…! ゆる・・・す。ゆる……す! ううう、ううううう!!」

 身体中が軋むようだ。怒りを発散するより、遥かに遥かに痛いことだ。口が開き、悶え、歯が何度もぶつかって硬質な音を立てる。炭化した手で自分を抱きしめ、胸の苦しみを抑えようとする。

 爆発しそうだ。今すぐにでも、すべてを壊したい。それは快感だ。快楽だ。愉悦だ。そう、あの時だってそうだった。オロクカカを斬り、ユニサンを真っ二つにした時も、怒りの陶酔の中にいたのだ。

 自分は弱い。欲望に負ける人間だ。今までも、アレクシートの愛を失わないために、人々に尊敬されるように生きてきた。あくまでアレクシートのために、そうしてきた。

 愛を説いても、他人を愛したことはない。愛を受け入れたこともない。アレクシート以外のものに心を許したことはない。懺悔を聞いても赦したことはない。すべては偽りである。

 そんな偽りの仮面に賛美を送る者たちを、蔑んできた。本質を見ることもできない者たちへの侮蔑を感じてきた。それが本当のサンタナキアなのだ。

「私は……弱い」
「弱いのは誰もが同じだよ。誰だって弱い。でも、人間の強さって、そういうものじゃないのかな。ボクはね、人間のことが好きだ。その愚かで弱い面も大好きだよ」
「醜くて……狭量だ。他の人間のことなど……どうでもいい」
「いいじゃないか。他のことを捨てられる代わりに、君の愛はいっそう輝くんだ。それが本物の愛じゃないと、いったい誰が決めたの?」
「アレクのために…、アレクの……の…」
「そうだ。アレクシートのためだ。ならば、それは真実だ。愛を止めてはいけない。愛をさらけ出すんだ」

「ああ、アレク…」

 力尽きたように、サンタナキアは膝を折った。

 それと同時に、三人の精霊は警戒しつつも下がる。負傷したカンズオングラとジ・グ・ニグレッダーヌを、クロ・ロアンクレーンカが精気で回復させていた。彼らはこの程度で死ぬような者たちではないが、その顔にはいまだ恐怖が消えていない。彼らは初めて、人間というものが怖くなったのだ。

「マスター、本当に人間は…許されるのでございますか? 彼らの罪は、あまりに深く感じられます」

 クロ・ロアンクレーンカが、強張った顔でケマラミアに問う。これほど罪深く、これほど凶悪な存在が、これから先の未来を紡げるとは思わなかったのだ。

 同じ進化の道を歩む生命体同士でありながら、これだけの確執が簡単に生まれる。サンタナキアが特別ではないのだ。これが人間と精霊の現状であった。

 そして、いつも人間が壊す。

 人間が精霊側を無視し、自然を破壊する。奪う。憎む。それに巻き込まれる形で被害を受けるのは、いつだって精霊である。人間を嫌悪する者たちが増えるのも当然であった。

 だが、ケマラミアは優しい笑顔を浮かべる。

「そうだよ。人間は、必ず進化できる。ボクが人間になったのは、そのためなんだから。そんなボクたちが信じなくてどうするの? 誰が信じるの?」
「しかし、いくらマスターの御心が崇高でも、周りがそうとは…」
「仮にボクがはりつけになっても、君たちは信じなくてはならない。それがボクの眷属たる者の責務だ」

 ケマラミアの言葉に、三人の精霊が衝撃を受ける。そう、そうなのだ。ケマラミアの眷属であるということは、絶対に人間を見捨ててはいけないということ。

 改めてそのことを思い出し、精霊たちは跪く。

「マイマスター、偉大なる王よ。すべての花を咲かせる御方よ。どうか、我らをお導きくださいませ」
「マイマスター、俺のすべてよ。土の世界すら満たす存在よ。どうか、信じるための忍耐力をお与えください」
「マイマスター、この身の生命よ。あらゆる衝動を抑え、輝く光よ。どうか、あらゆる者に聖火をお与えください」

 精霊から発せられる光が複雑な色彩を生じさせ、ケマラミアを称える。ケマラミアの愛に、その偉大なる心に精霊はかしずく。

「みんな、そこまでにしておこう。サンタナキアが困っているじゃないか。ボクは彼のことを知っているけど、彼はボクを知らないのだから」

 サンタナキアは、精霊に取り囲まれたケマラミアを、困惑の表情で見つめていた。まだ眼は赤いが、怒りのままに攻撃するようなそぶりは見えない。そもそも限界なのである。もう肉体の限界をすでに超えている。

「あなたは……誰だ?」
「君にとって重要なことは、ボクが誰かということより、ボクに何ができるか、じゃないかな」
「アレクを…助けられる…と?」
「ああ、早く決断したほうがいいね。彼の想いも無限じゃないから」
「約束…でき…る……か?」

「約束は無意味。今すぐ実現させよう」


―――決まった


 サンタナキアは膝を曲げ、炭化した両手を大地につけ、頭をこすりつける。とめどなく溢れる赤い涙が、すぐにも大地を赤に染めていく。

 血溜まりの中、彼は祈った。
 心の底から祈った。



「アレクを……助け…て……何でも……するから」



 そこには、すべてを失った男がいた。何も求めず、何も必要とせず、ただ愛する者だけを想う、哀れな人間の姿があった。

 人は、強くなれるのだ。

 愛する者のためならば、これほどまでに強くなれる。それをユニサンは示してくれた。それをサンタナキアは見せてくれた。この場で起こった戦いのすべてをケマラミアは見ていた。

「ああ、人間はどうして、こんなにも美しいのだろう。母たる神よ、偉大なる女神よ、ボクを人間にしてくれてありがとう。ボクが死ぬまで、その瞬間まで、そしてボクが死んだあとも愛すると誓おう」

 ケマラミアは、涙を流していた。透明の色をした、この世のものとは思えない純度の高い雫である。その涙を手ですくい、宙に投げる。

「愛よ、すべてを超越する愛よ。すべての生命を生み出し、すべての世界を生み出し、すべての種族を生み出し、すべての形態を生み出した、偉大なる愛よ。愛を結びつけたまえ。愛が、愛だけが、この世のすべてであると示したまえ」

 ケマラミアの涙が、一輪の花になった。
 それは薔薇。真っ赤な薔薇。

 人間のすべてを示す花であり、霊の再生を教える花である。


「ローズ・ヴァイセ・リターニア〈永遠の愛を歌う赤薔薇〉」


 何百という薔薇が散った。薔薇の一枚一枚の花びらには、ケマラミアの王気が宿っており、薔薇から溢れる光には、彼の精気が宿っていた。薔薇は歌う。生命を。その愛を。永遠たれと歌う。

 それはまさに賛美歌。本物の歌。薔薇の一つ一つが超一級の歌い手のように、振動し、音を発する。それが重なり合唱となって、燃えるような赤い振動と光を生み出していく。

 偉大なる母の一人であり、この地上と、愛の園にあるすべての花を生み出した女性の名。その祝福を受けた薔薇が、サンタナキアとアレクシートを優しく包む。
 
 精魂歌せいこんかと呼ばれる、すでに失われた術の一つである。みずからの生命力を糧とし、歌を媒介とし、さまざまな現象を生み出す最高位の力である。

「ああ、あああ……感じる。アレクを感じる…」

 彼と彼が引き合う。サキアがアレクを感じ、アレクがサキアを感じる。アフィニティである彼らにとって、それは自然な結びつきである。心が溶け合い、一つになっていく感覚。

 枯れていった心が、傷つけられていった魂が、その愛に包まれて癒されていく。怒りが喜悦の涙となり、哀しみは感動になる。すべての苦しみと痛みが、愛への道であることを示した瞬間であった。


 トクン。

 トクン。トクン。

 トクン。トクン。トクン。

 トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。トクン。


 それを証明するかのように、アレクシートの心臓が再び鼓動を始める。いまだ目は覚まさないが、その心臓はたしかに動き出したのだ。

 アレクシートは【再生】した。

 その時、何を口走ったのか、もうサンタナキアは覚えていない。

 ただ泣き、泣き狂い、倒れた彼の胸に顔をうずめていた。彼の鼓動が、彼の体温が、少しずつ増していくにつれて、サンタナキアは人間に戻っていく。

 怒りの獣から、感情ある人間へと。

 これが映画ならば、ハッピーエンドだろうか?
 最後に蘇れば、グッドエンドだろうか?
 みんな楽しく、大団円だろうか?

 否。

 すべての物事には法則があり、すべての結果には原因がある。

 そして【代償】がある。


―――次の瞬間、ケマラミアが倒れた


「マイマスター!!」

 クロ・ロアンクレーンカが、すぐさまケマラミアに駆け寄る。

「ああ、なんと…なんという……御姿に…」

 抱き上げたケマラミアの顔は、ひどく衰弱していた。その見た目は激変しており、彼の髪の毛の房にあった色が、すべて消えていた。あらゆる精気が消え果て、その姿は、まるで枯れきった老人のようである。

 それもそのはず。今の能力は、ケマラミアの最大の力の行使である。人間の姿で使用可能な最高レベルの奇跡なのだ。万全ならばまだよかったが、オロクカカのために四分の一を使っていた。

 その失われた分は、違うもので払わねばならない。
 そう、自己の生命力から。

「今すぐ精気をお渡ししますわ! 少ないですが、それならば!」
「…いいんだ。それより、彼を。まだサンタナキアは万全じゃない。後遺症が残ってしまう…から」
「それは無理です、マスター! なぜ、そこまでなさるのですか! なぜ、なぜ!」

 クロ・ロアンクレーンカには、なぜケマラミアほどの存在が、このような人間相手にそこまでするのか理解できない。彼は偉大なる王の一人。むしろ、すべての人間は、彼にかしずかねばならないはずだ。

 それなのに、なぜ。
 なぜ、ケマラミアはそうするのか。

 その答えは、いつだって同じである。


「人を愛するから―――だよ」


「ああ、マスター!」
「いいね。ボクの子供たち。やるんだ。自分のやるべきことを。正しいことを、正しく、ね」
「ううっ、ううう……」

 クロ・ロアンクレーンカは、何度も逡巡し、何度も振り返りながら、それでも足を止めずにサンタナキアのところまで歩いてきた。

「あなたに加護を。癒しを与えますわ。それであなたは復活する」
「なぜ、そこまで……。あなたがたは、なぜ…」

 サンタナキアは、すっかり彼らのことがわからなくなっていた。これほどの戦いを仕掛け、アレクシートを殺そうとした者たち。されど、それを救おうとする者たちがいる。その矛盾した行動が理解できない。

 クロ・ロアンクレーンカは、悔しさを押し殺すように複雑な表情をしつつも、毅然とした声で宣言する。

「わたくしたちは、正しいことをいたします。だから、あなたも正しいことをなさるとよろしいでしょう」
「正しい? これが…正しいこと?」
「ご自分で決めればよろしいことでしょう。あなたもマスターと同じ【バーン〈人を焼く者〉】なのですから」

「バー……ン? うっうう!」

 その言葉に聞き覚えはない。しかし、その韻が響くたびに、頭の奥が鈍く痛む。激情の中で戦っていた記憶が蘇るようである。

 クロ・ロアンクレーンカの精気がサンタナキアに注がれ、欠損した身体が戻っていく。オロクカカよりも軽度の怪我であったので、彼女の力でも癒せたのだ。ただし、精気を消耗した彼女も、ケマラミア同様に痩せ細っていく。

「マイマスター。終わりました」
「ありがとう。…がんばったね」
「マスター、そのようなお言葉は不要でございます。わたくしのすべては、あなた様のものですから」
「では…、戻ろう。これで役目は終わった…からね」
「マイマスター、俺が支えます。御身に触れることをお許しください」
「ありがとう…カンズオングラ」

 ケマラミアは、カンズオングラに支えられ、この場を立ち去ろうとする。

「待ってくれ!! 見返りは! 私は何をすればいい!! アレクを救ってくれたからには、何でもする!!」

 サンタナキアは、ただで何かをしてもらうつもりはなかった。いや、むしろ何かを要求されるものだと思っていた。

 彼らは自分を仲間だと言った。

 だから、仲間になれ、手を貸せ、協力しろと言われると覚悟していたのだ。その場合は、すべてを敵に回してもいいとさえ思っていた。

 一度光を失ってわかったのだ。

 アレクシートのいない人生では、自分は生きていけない。まるで、か弱い乙女のように軟弱だ。愚かで、浅ましく、惰弱である。だが、それが事実ならば受け入れるしかない。

 だが、ケマラミアは、こう言い残す。

「何も求めない。見返りなど…いらないんだ」
「そんなはずはない! そんなはずは! だって、それが普通じゃないか!」
「君は、嫌なものを…多く見てきたのだね。心が…傷だらけだ」

 カーリス教の信者の自分勝手な願いを叶えてきた。彼らは、常に救いを求めていた。自分が助かることだけを願っていた。そのためならば、自分の罪を他人に渡すことすら厭わない。

 下種げすである。屑である。

 そんな人間と接してきたサンタナキアは、人間の醜さを知っていた。嫌悪していた。だからこそ、何の見返りもなく助けるなど、ありえないと思っていた。

「欺瞞…なのか? 偽善…なのか? あなたがたは…。すべて自己満足…なのか?」

 金髪の悪魔が述べたことは、すべて自分勝手な押し付けなのだろうか。そうでなければ、このようなことをしたりしない。自ら傷つけて、自ら癒すことなどしない。

 その叫びに、ケマラミアは笑う。

「不思議なことじゃないよ。それが人…じゃないか。人の可能性だろう? 人は…美しいんだよ」
「違う、違う、違う! 人は、愚かだ!! あなたがたも、そう言っていたじゃないか! 蔑んでいた!!」
「それは…一時的なことだよ。ゼッカーも…それを知っている……だから自分を…捧げられるんだ」


―――「彼も愛したから」


 愛を知ったから、悪魔になれた。
 本当に人を愛したから、誰かを愛したから。

 それはサンタナキアと同じである。
 彼と同じく、心から本当に愛したからだ。

「ボクたちは…君に強要などしない。誰も強要されてなど…いない。だから、君も自由に…するといい」

 そして、ケマラミアは予言を残す。
 まるで未来を視ているかのように、白金眼が輝く。


「だけど、君はいつか…こちら側に来るだろう。君はもう…知ってしまったから。真実の一端に触れ…琴線に触れたから」


「魂の欲求は、誤魔化せないんだ」


 ケマラミアは、眷属たちに守られながら消えていった。

 サンタナキアは、それをただただ見つめていた。
 アレクシートの温もりを感じながら。

 今の彼には何もわからない。
 何も知らない。
 知らないことが多すぎる。

 だが、一つだけわかったことがある。



「信仰は―――死んだ」



 この日、サンタナキアは死んだ。

 今にして思えば、この時に失ったのだ。

 カーリスへの信仰を。

 今まで自分を培ってきた、偽りの要素を。

 失ったものは戻らない。そして、失っただけ、何か違うもので満たさねばならない。崩れた楼閣の上に何を立てるのか、今の彼には想像もできない。

 廻る。
 宿命の螺旋は廻る。

 その眼に刻まれた聖痕がある限り。


 彼が、バーンである限り。

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