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アベル・カルリエ侯爵子息は幼い頃見た夢を叶える

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 アベル・カルリエ侯爵子息は、カルリエ侯爵家の次男坊だ。
 穏やかで頭の良い兄がおり、すでに父親の仕事を手伝っている。
 だから家族は、アベルが騎士を目指すと言っても誰も止めなかった。跡継ぎがすでに決まっているため、侯爵家の名を汚すような真似さえしなければいいという考えであった。しかもアベルが目指していたのは「王妃専属」の騎士で、王族との関わりがより深まるのは大歓迎であるという。
 王族との関わりだとか、そういうものはどうでも良かった。
 アベルにとって重要なのは、何より大切な少女のそばにいること。
 
 カロリーナ・ベランジェ公爵令嬢。
 
 フェルディナン・バダンテール第一王子の婚約者。
 二人と幼馴染という関係であったアベルは、幼い頃からカロリーナに恋心を抱いていた。だけれどすでにその頃から、カロリーナはフェルディナンの婚約者で。彼女がフェルディナンを慕っている様は、その眼差しから仕草からで、すぐにわかった。
 それでもアベルは、彼女への想いを消すことは出来なかった。王妃として相応しくあるために、フェルディナンを支えるためにと必死に、時に涙を堪え、努力する姿は何よりも美しく、輝いて見えた。弱音を漏らすこともなく、不満をつぶやくこともなく。「フェル様の隣に並ぶためには、これくらいなんてことないわ」――そうやって晴れやかに笑っていた彼女への想いは、気の所為だと思うことすら不可能なほどはっきりとしていた。
 叶うことのない想い。決して伝えてはいけない感情。
 まだ二桁に満たない年齢のときにアベルは、自身の感情に蓋をした。
 だけれどその想いは、決して消えることはなかった。しっかりと閉められたはずの蓋からは時々、想いが零れそうになる。少しずつ、少しずつ。成長と共に、カロリーナへの想いも大きくなっていった。
 共に並び立つことが出来ないのなら、せめて彼女の盾になろう。何ものからも守る存在になろう。
 彼女専属の騎士に。彼女を守るためだけに存在するものに。
 学園に通い始めてからも、アベルはカロリーナのそばにあった。王妃となるひとの、護衛ーーそんな理由をつけて。だけれど当然、フェルディナンも共にあった。彼らは似合いの夫婦になるだろうと、誰もが噂した。
 そのフェルディナンの様子がおかしくなってきたのは、入学してからそれなりの月日が流れた頃だ。彼はカロリーナと過ごす時間を減らし、素行の悪い貴族平民とつるむようになった。さらに女生徒には見境なく声をかけ、貴族にあるまじき距離で会話をしたり、時には触れ合うような真似もしていた。
 カロリーナは何度も苦言を呈した。アベルも何度も、付き合いを考えろと告げた。
 だけれどフェルディナンが態度を変えることはなく、結果。
 カロリーナはフェルディナンから酷い言葉で突き放され、心の病を患ってしまった。
 
 許せなかった。
 カロリーナから愛情を向けられながら、それを無視するような――拒絶するような態度をとっていたことが。彼女に好かれているのだと傲慢になっている幼馴染の友人のことが、堪らなく憎らしかった。
 彼が王族だろうが、王位継承者だろうが関係なかった。ただ怒りの感情のままに、フェルディナンを責めた。
 その後、カロリーナとフェルディナンの婚約は解消となって。アベルの「王妃専属の騎士」になる夢も、途絶えた。
 毎日カロリーナのもとへ通いながら、今後のことを考える。騎士になるための訓練も、幾分か疎かになっていた。

 どうして自分は、彼女のもとに通い続けているのか。
 彼女の心はずっと、フェルディナンに向けられているのに。彼女の心に、俺はいないのに。
 何のために。なぜ。どうして。
 
「何であなたが諦めているんですか! カロリーナ様の心にあなたがいない? そんなはずないでしょう! ずっとそばで見守ってくれていたあなたを、今も変わらず傍らに居てくれるあなたを、カロリーナ様が見ていないはずないじゃない!」

 アベルの目を覚ませたのは、カロリーナを心から慕うコレット・アルノー男爵令嬢だった。カロリーナが心の病を患ってからは、彼女もアベルと同じようにカロリーナのもとを訪れていた。

「私はっ! 私はカロリーナ様が幸せであればそれでいいのです! たとえ王妃でなくても! 彼女が幸せを感じているのなら、それでいいのです! あなたもそうではなかったのですか! カロリーナ様の幸せを思うからこそ、自分の想いに蓋をして、諦めていたんでしょう!」
「カロリーナ様の願う幸せは、もう二度と手に入らないもの……だったら、だったら他の幸せを見つけてもいいじゃないですか……新しい幸せを、……一緒に寄り添って、探したっていいじゃないですか……!」

 脳裏に浮かんだのは、いつか見たカロリーナの笑顔だった。
 その笑顔を守りたくて、ずっと見ていたくて、彼女の騎士になろうと決めた。
 彼女を傷つける何もかもから、その笑顔を守り抜こうと。
 なのに今、その笑顔はなくなってしまっている。彼女が望んだ「幸せ」と共に、消えてしまっている。
 だったら、取り戻さなければ。彼女の幸せを、彼女の笑顔を。――カロリーナの、隣で。
 夢が途絶えた? ……いいや、それはまだ。
 
 そうアベルが心に決めてから、しばらく。
 何度も彼女のもとへ通い、彼女の名を呼ぶうちに、カロリーナは。
 穏やかな笑顔を取り戻し、アベル、と、名を呼び返した。


◇◇◇


「アベル。……少し、いいだろうか」
 アベルが自宅の庭で、トレーニングの一環として剣を振っている最中だった。フェルディナンが訪れ、尋ねた。
「――なんだ?」
 カロリーナの一件があってから、それまで幼馴染の友人として親しく接していた二人の関係にも少しばかり変化があった。以前までのようにじゃれ合ったり冗談を言うような関係ではなくなっていたのだ。
 アベルはまだ、フェルディナンのことを許してはいない。
「カロリーナ嬢と話をしてきた」
 ぴくりと、アベルの眉が動く。その呼び方が親しみを込めた愛称ではなくなっていることには、すぐに気づいた。
「これまでの謝罪と、……詫びを。彼女が望むことを何でも叶えると言ったんだ」
 ふ、と。フェルディナンの瞳が、憂いを帯びた。視線を伏せ、拳を強く握り込む。
「……彼女が何を望むと思っていたんだ?」
「……それは、わからなかった。ただ、……僕の、願望はあった。こう願ってくれたらいいと、……期待した」
 剣を握るアベルの手には、力が込められていた。湧き上がる感情を抑え、フェルディナンの言葉を待つ。
「もう一度……やり直せないかと。以前までと同じように、出来ないかと。きっと彼女は、そんな僕の愚かな考えもわかっていたんだろう。彼女が望んでくれたら僕は、王位継承権を捨ててもいいと思っていた。もしくはどんな手段を用いても、彼女を再び僕の婚約者にと思ってた。……でも彼女が望んだのは、僕、じゃなかった。国のために立派な王になってくれと、そう言った」
 自嘲気味に笑う幼馴染の友人の姿に、アベルは奥歯を食いしばった。
 何を見ていたんだ。どれだけ彼女のそばにいたんだ。
「お前の隣に並び立つに相応しい王妃になると、立派な国母としてお前を支えると、そう言っていた彼女が……何もかもを捨ててお前を望むと、そう思ったのか?」
「……そうであって欲しいと、思っていたんだ」
 ぎり、と歯を強く食いしばったアベルは、剣の切っ先をフェルディナンに向けた。フェルディナンは驚かなかった。そうされて然るべきだと、受け入れていた。
「俺はな、フェル。カロリーナの心を救えるのはお前だと思ってた。彼女の心が壊れたきっかけがお前なら、治すのもまたお前じゃないとダメなんじゃないかって。……なのに、お前は! 彼女が心を病んでから、何度彼女の元を訪れた? 何時間彼女に声をかけた? 何度名前を呼んだ? 俺が訪ねてやってくれと言っても、遅れていた授業や王子教育を取り戻す方に時間を費やした。なぜだ」
「それは、」
「王位継承権を捨ててもいいと言ったな。ならなぜ、王位継承に関わるものに時間を費やした? カロリーナの心を取り戻すのではなく、自分の時間を取り戻そうとした? ――お前はな、結局王族であることを捨てきれないんだよ。カロリーナがお前の立場が変わることを望まないとわかってた。だけど彼女の愛を諦めたくなかった。……そうだろう!?」
 剣を握る手が震えていた。怒りなのか悲しみなのか、様々な感情が入り混じり体に力が入ってしまう。
 似合いの二人だと思っていた。
 だから諦めた。
 カロリーナを幸せに出来るのはフェルディナンだけだと信じていたから。
 それなのに。
「お前が王子になるために努力をしていたことは知ってる。カロリーナと共に歩んでいこうとしていたことも。なのにどうして諦めた! どうして彼女を傷つけた! フェル、お前はあの日彼女だけじゃなく、俺のことも裏切った! お前を信じて彼女を委ねていた俺を、裏切ったんだ!」
 フェルディナンは何も言い返せなかった。言い返す権利もないと思っていた。何よりアベルの言葉は、事実であったから。
 アベルの言葉の通り、自分は彼らの信頼を裏切った。長い時間、裏切り続けた。王位継承者である責任も考えずに、嫉妬して不貞腐れ、――幼い頃から共にあった彼らが傷つくことも考えずに。
「……すまない。謝って許されることじゃないのはわかっている。……お前の想いを知っていて僕は、カロリーナの好意に胡座をかいた。何をしても許されると思っていた。お前も、カロリーナも……ずっと共に居てくれると、思い込んでいた……」
 心底の後悔が滲んだ声。アベルはもう一度奥歯を噛みしめると、それからチッ、と舌打ちをして剣を捨てた。つかつかとフェルディナンに歩み寄り、勢い良くその頬を殴りつけた。
 本来なら、王族に手を上げるなど許されることではない。
 だけれどフェルディナンは今この場に、護衛を連れていなかった。当然、屋敷の外に待機させてはいるが――自ら彼らに、二人きりにさせてほしいと願った。
 カロリーナを傷つけた自分に対して、アベルが何をするか。想像していないわけではなかった。そして彼はそれを、受け入れる気でいた。
「……優しいな、お前は」
 フェルディナンは体を起こし、殴られて腫れてしまった頬に触れながら言う。
「あのまま切られてもおかしくなかった。……そうされても、良かった」
「馬鹿言うな。そんなことしたらカロリーナとの約束を果たせなくなるだろうが」
 
 どうか、立派な国王になってくださいませ。
 
 カロリーナの言葉が、フェルディナンの脳裏に浮かぶ。それからぐっと、唇を噛み締めた。
 どこまでも自分は甘いのだと思い知る。カロリーナの心をより理解していたのはアベルだった。自分だって彼女を想っていたはずなのに。どうして純粋に、彼女を好きなままでいられなかったのだろう。
 そうしたら今も自分のそばに、カロリーナはいてくれただろうか。隣で笑ってくれただろうか。
 何もかも、今さら、でしかない。
「……僕は、立派な国王になるよ。約束する」
「当たり前だ。今度約束を破るようなことがあれば、そのときは絶縁するからな」
 今このときにもう、そうしていてもおかしくはないのに。アベルは自分とフェルディナンが仲違いすることを、カロリーナが望んでいないと思った。
 アベルはどこまでも、カロリーナを想っていた。
 フェルディナンもまた、それを理解していた。
「彼女を、……カロリーナを、頼む。僕が言えた義理ではないけど……大切、だったんだ。……本当に」
 アベルは返事をしなかった。フェルディナンも返事を望んでいなかった。彼はそのままアベルに背を向けて、その場を後にした。
 一人になったアベルは、フェルディナンを殴った手をじっと見つめて、その手を強く握り込む。それからゆっくり深呼吸をして、落とした剣を拾い上げた。


◇◇◇


「ねぇアベル、あなたはもう聞いた? コレットの婚約者の話」
「いや、聞いてない」
「まぁ、本当? それじゃあ私の口からはまだ話さない方がいいかしら?」
「コレット嬢のことだから、カロリーナに一番に伝えたかったんだろ。だから別に、話してもいいんじゃないか?」
 カロリーナはあれから、以前のような明るさを取り戻しつつあった。
 もう王妃になることはないとわかっているからか、少しばかり砕けた口調で楽しくおしゃべりをするようになった。それは間違いなく、彼女のもとに通うコレット・アルノー男爵令嬢が影響しているのだろう。彼女のお陰で、カロリーナの笑顔も増えていた。
 そのせいか、アベルの表情も穏やかだった。
 コレットとこんな話をした、お母様からいただいたお菓子がとても美味しくていっぱい食べてしまった。
――そんな他愛ない話をするカロリーナが愛おしくて、アベルはいつも聞き役に徹する。彼女が心を壊してしまったときは、アベルが一方的に声をかけていた。返事が返ってくることは滅多になかった。
 それが今、こうして楽しそうに言葉を紡いでいる。「公爵令嬢」でも、「王子の婚約者」でもない、「カロリーナ」の言葉で。
 ただただ、愛しさが込み上げた。
「ねぇ、アベル」
「うん?」
「……えぇと、お茶が冷めてしまったわね。新しく淹れてきましょう」
「あぁ、いいよ。俺が行ってくる。ついでに何か、茶菓子も貰って来ようか」
「アベルったら、私がさっきお菓子をたくさん食べすぎてしまった話、聞いていたの? これ以上食べたら太ってしまうわ」
「じゃあいらないか?」
「……少しだけなら、」
 もじもじと指先を弄りながら、小さな声で呟く。アベルは瞳を細めて嬉しそうに笑うと、わかった、と答えて部屋を出た。
 勝手知ったる、とばかりにキッチンに向かう途中、聞こえてきた話し声にアベルは足を止めた。
「……やはり、婚約は早いほうがいいと思うんだ」
「でもあなた、カロリーナはまだ……」
「いやしかし、約束だけでもしておくべきだ。万が一先に相手が決まってしまったら……」
 ざわりと、アベルの胸が騒いだ。どくどくと鼓動が速くなり、指先は冷えているのに手のひらにはじわりと汗が滲んでいた。
 通りがかった部屋にいたのは、カロリーナの両親だった。会話の内容ははっきりと聞こえないが、カロリーナの婚約に関する話だと言うことはわかった。
 仕事だ会議だとあちこち飛び回り不在気味であった公爵夫妻は、カロリーナが心を病んでからというものずっと家で仕事をしている。それはカロリーナが元気になってからも変わらずで、アベルは時々カロリーナを含めた四人で食事をすることもあった。
 一度病を患ってしまった娘を、夫妻は常に心配している。自分たち亡きあとも、一生彼女の心を支えてくれる存在を求めている言葉は、何度か聞いていた。
 公爵の言葉からして、すでにもう相手の目星はついているのだろうか。これから約束を取り付けるつもりなのだろうか。
 王子との婚約が解消になったとは言え、カロリーナと結婚をと望む声は決して少なくない。
 完璧な淑女、貴族の手本であるような公爵令嬢。――それを求めるものは、今も尚いる。
 アベルは足早にカロリーナの部屋へと戻った。お茶もお茶菓子も持たずに手ぶらで戻ってきたアベルに、カロリーナは首をかしげる。
「アベル?」
 呼ぶ声に、はっと顔を上げた。
 フェルディナンとの婚約は解消された。だけれど、これから先は。もしまたカロリーナが、別の誰かと婚約することになったら?
 自分ではない男の隣に、並ぶことになってしまったら。
 アベルは一度泣きそうに顔を歪めて、それから静かにカロリーナに歩み寄る。椅子に座った彼女の前に片膝を立てて跪き、カロリーナを見上げた。
「……カロリーナ。……ごめん、本当はもっと……お前の心が落ち着いてから、言うつもりだった」
 ぱちりと大きく瞬きをした瞳は、きらきらと美しく輝いている。その瞳をじっと見つめて、深呼吸を一つした。
「好きだ、カロリーナ。俺と結婚してほしい」
 は、と、カロリーナが小さく息を飲んだ。
「ずっと前から……子どもの頃からずっと、好きだ。だけどお前はフェルの婚約者で、フェルのことが好きだったから、俺はこの気持ちをずっと隠すつもりでいた。俺が想いを伝えればお前は、きっと心を傷めると思った。俺の想いを知ったままでフェルと結婚すれば、心から幸せになれなんじゃないかって。言うつもりなかったんだ。少なくとも、フェルとお前が婚約者同士であるうちは」
 秘めたままでいるはずだった。それが彼女の幸せのためだと。
「せめてお前を守る存在であろうと思って、騎士を目指した。王妃専属の騎士になれば、お前の伴侶になれなくても、お前の近くにいることは出来るだろうって思って。……でも、あの事件があって、お前とフェルの婚約が解消されて……でも、カロリーナ。俺の夢は結局、変わらないんだ」
「それは……どういう……」
 戸惑いを浮かべるカロリーナに、アベルは穏やかな笑顔を浮かべて頷いた。
「俺は今でも、お前専属の騎士になりたいんだ、カロリーナ。王妃じゃなくていい、どんな身分だって構わない。誰よりも近くでお前を守り――辛いことも苦しいことも、楽しいことも幸せも、共に分かち合う存在になりたい」
「あ……」
「まだ傷心のお前に、突然こんなことを告げて悪かったと思ってる。……だけど、な。もし、……もし万が一、お前が、他の誰かとまた婚約をするようなことがあったら俺は、もう我慢出来ないと思った。お前の幸せのために諦めることなんか、もう出来ない」
 カロリーナの瞳は揺れていた。彼女をまっすぐに見つめたアベルは、彼女の手をそっと掴んで握りしめる。
「愛してる、カロリーナ。今も、これからも……俺の想いは、変わらない」
 ぱちぱち、と、何度かの瞬きのあと。カロリーナはぽつりと、言葉を漏らした。
「あの、ね……? アベル……私ね、最近ずっと……もしかしたらと、思っていたの」
 今度はアベルが大きく瞬きをした。
「あなたの私を見つめる瞳が、私を呼ぶ声が、……とても、暖かくて。母さまや父さまとも、コレットとも、……殿下とも違う眼差しに、最初は戸惑ったわ。でも、あなたの行動や仕草や、私への気遣いに……私は、自惚れなのだと思って……あなたの優しさは、幼馴染の友人へのものと、そう思い込もうとして……」
 その瞳は優しく、――愛しげで。もしかして、ひょっとして……そう考えてしまうほどに、わかりやすくて。
 フェルディナンに夢中で、気づいていなかった。
 彼はずっと、そばで見てくれていた。専属の騎士になるんだと誇らしげに語って、カロリーナを守るんだと胸を張って。
 カロリーナが王妃になるなら、その専属騎士になると言った。そして王妃になることのないカロリーナを前に、彼は。
(アベルは、ずっと……『カロリーナ』を呼んでくれていた)
 幼い頃からずっと。心を病んだあのときも。変わらぬ想いを込めた声で、呼んでくれていた。
 唇を震わせたカロリーナは、瞳を涙に揺らして。握られた手に自らの手を重ねて、笑顔を浮かべて言った。
「私の、騎士様。……キャロル、と……そう呼んでくださる?」
 想いの、了承の言葉に。
 アベルは目を見開いてカロリーナの手を握ったまま勢い良く立ち上がると、カロリーナの体を強く抱きしめた。
「夢か? こんな都合の良いことが、あるのか?」
「嫌だわ、アベル。一世一代の告白を、夢で終わらせないでちょうだい」
 くすくすと笑う声に、アベルの胸はいっぱいになった。思わず泣きそうになるのを息を飲み込むことで必死に堪え、ふー、と深く息を吐き出す。愛しい人を腕に抱いて、アベルは静かに言葉を紡いだ。
「一生お前を守るよ、キャロル。……お前の、隣で」
「えぇ、アベル。優しい私の騎士様。どうか隣で、笑っていて」

 アベル・カルリエ。侯爵家次男。
 彼は今、幼い頃からの夢を叶えたのだ。


◇◇◇


「なんで私のいないところでプロポーズしちゃうんですか~~!!」
 カロリーナとアベルの婚約を一番最初に伝えたのは、もちろんコレットだった。
 あれからアベルは公爵夫妻に、カロリーナとのことを伝えた。そして頭を下げ、どうか婚約させて欲しいと懇願した。すると公爵夫妻は笑って、「いや実は、ちょうどきみにそのことを話そうと思っていてね」「キャロルのお婿さんにって、こちらからお願いしようと思っていたのよ」と言っていた。アベルが聞いていた話は結局、アベル自身のことであったという。
 公爵には何人かの兄弟がおり、カロリーナがフェルディナンと結婚することになった場合は甥っ子のうちのひとりを跡継ぎにする予定だったらしい。しかしその結婚の予定はなくなり、それならやはり跡継ぎはカロリーナに、という話になった。そうなると必要なのは入婿だ。カロリーナを想い、支え、生涯共に生きてくれる男性。アベルはまさに、その条件にぴったりだった。
 諸々の話が一段落したところで、コレットに報告をした。そうしたら返ってきた反応が、これである。
「告白って、人前でするもんでもないだろ?」
「でも、だって! 告白を受けてるカロリーナ様、絶対この世で一番綺麗だったと思うんです! でしょう!?」
「まぁ、それは……」
「悔しい! 私も見たかった! その顔を見たのがアベル様だけなんてずるいです!」
 きいい、と心底悔しがっている様子のコレットに、アベルとカロリーナは顔を見合わせて笑った。
 暖かな二人の雰囲気に、悔しがっていたコレットはすぐに笑顔になった。
「カロリーナ様が幸せなら、良かったです。結婚式にはぜひ招待して欲しいなって、」
「もちろんよ、コレット。一番に出すわ。だからあなたの結婚式の招待状も、ぜひ送ってちょうだい」
「! か、カロリーナ様を招待するんだったら、大きな式場を押さえないと……今から父さんに相談して……」
「おいおい、結婚するのはお前なのになんでキャロル基準で考えてるんだよ」
「だって私も婚約者の方も、カロリーナ様のファンですもの!」
 それは初耳だと、アベルは思わず面食らう。カロリーナはそんな二人の様子を、嬉しそうに幸せそうに、瞳を細めて見つめていた。
 
 完璧な公爵令嬢。淑女の見本。非の打ち所のない、王子の婚約者。
 そうでなければならないと思っていた。それが普通なのだと。公爵令嬢として生まれたのだから、決して弱さを見せずに強くあらねばと。
 だけれど、彼らは。
 弱さを見せた自分のそばに、変わらず居てくれる。心の病を患い、会話すらまともに出来なくなった「カロリーナ」を、ずっと呼んでくれていた。
 甘えて良かった。泣いても良かった。
 彼らの、前でなら。

「カロリーナ様?」
「どうした、キャロル。ぼーっとして」
 ほとんど同時に声をかけられ、カロリーナはふふっ、と笑う。
「ねぇアベル、コレット。私今、とても幸せよ。あなたたちは、どうかしら」
 コレットが瞳を輝かせて答える。
「すっごい、すっごい幸せです! カロリーナ様が、笑ってるから!」
 アベルが愛しげな眼差しを向けて言う。
「過去最高に幸せだ、キャロル」
 温かな感情が胸いっぱいに広がって、カロリーナは二人を抱きしめたい衝動に駆られる。代わりに二人の手をぎゅっと握ったら、強い力で握り返された。
 より一層、幸せな想いが増していく。
 
 不意に浮かんだ、フェルディナンの姿。
 彼とこうして話すことは、恐らくもう二度とないのだと思う。
 彼は王族で、王位継承者で。学園を卒業した今、婚約者ではないカロリーナとフェルディナンには、何の接点もなくなっていた。
 カロリーナから彼に会いに行くことはない。そして恐らくは、フェルディナンもこの家を訪れることはないだろう。
(でも、どうか……あなたも、幸せに)
 幼馴染として、元婚約者として、一国民として。

 いつか国王となる、友人へ。
 
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