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まれびと来たりて
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「休むなら部屋で休めばいい。ここでは休めないだろう」
「ここは落ち着くんだ」
オスカーがふっと笑う。
「本当に本が好きだな」
オスカーが律の隣に座ると、従者のジェムがワインを注いだグラスをテーブルに置き、すっと下がった。黒い髪に黒い瞳。ぽっちゃりとした体をしている、律と同じ年頃の男だ。
「優秀な従者だ。忠実でもある」
オスカーの言葉に、律はうなずいた。
「えぇ、とても信頼できる友人です。俺には勿体ないくらいだ」
「勿体ない? 字も読めない、馬鹿でのろまでグズな男だ。それを使えるようにしたのはリツだろう。むしろジェムが身に余る主人に使えていると神に感謝すべきだ」
律は顔をしかめてオスカーを見る。
「そんな言い方は……」
「本当のことだろ。何が悪い」
王子としての傲慢さが顔を出した。育ちや身分を考えれば仕方がないのだろうが、オスカーのこういうところは好きではない。
同時に、ジェムは今まで何度もこういった侮蔑にさらされていたのだろうと思うと辛くなる。
「ジェムは難読症ってやつだと思う。知能に問題はなくても、文字を読んだり理解するのが難しかったりとか、そういうの。俺達の世界には結構な割合でいるんだ。一説には一割いると言われている。この世界ではどうかわからないけど、そもそもこの国は識字率が低いから知られていないだけじゃないかな。彼らは脳での処理方式が違うだけだから、適切な方法を選択すれば他の人間と同じように学習できる。俺達の世界にはディスレクシアでも成功者は沢山いるし、現にジェムはとても頭が良い。彼らの経典であるカラムを全て暗唱できるんだ。タルミニアからエリンに来たのは七つのときだから、それまでに全て暗記したことになる。驚異的だよ。俺でも無理だ。だから、ジェムを馬鹿にするのはやめてほしい」
西にある国家、タルミニアは、実質エリンの属国だ。三百年前にエリンに攻め入ったが返り討ちに遭い敗北した。その勢いのままエリンはタルミニアを征服したが、民族も風習も宗教も違うため自国の国土にはしなかった。征服の労力よりも、忠実な同盟国になることを選択したのだ。
だが、王の一族であるディン族は政権から追われ、ディン族の幼い子ども達は人質としてエリンに連れていかれた。その風習はその後も長く続き今に至る。子ども達の立場は奴隷であったが、バイベルと呼ばれ教育と洗脳をされた後にタルミニアに返され、タルミニアの要職についた。
そうやって徐々にエリンに侵食されたタルミニア、特に子ども達を奪われ続けたディン族は力を失い、昔の栄光は見る影もないという。
ジェムも七歳のときにバイベルとして連れてこられた一人だ。教育してもものにならなかった失敗作で、要人として国に帰ることも、二つの国を繋ぐ国使にもなれなかった。容姿が優れていれば去勢後に王の後宮に入ることや、魔法使いの愛人にでもなれただろうが、幸運と言うべきか、ぽっちゃりとした体と、愛嬌はあるが美しいとはいえない顔立ちではそれも無理だった。
可哀想なジェムはエリン国民にもタリミニア国民にもなれず、城で召使いとして働くことしかできなかった。だが律は、そんな状況におかれていてもニコニコ笑って、懸命に働くジェムが好きであり、だからこそ自分の従者として指名したのだ。
じっとオスカーが見てくる。また余計な話をしてしまったようだ。あ、と呟いて俯く。
「ご、ごめん。また、俺、変なことを……」
オスカーはこめかみにキスをしてくると首を傾げて顔を覗いてくる。
「悪いことをしていないのに謝るな。悪い癖だ。簡単に謝罪をするような男は誇りがなさすぎる」
「ごめ……」
また謝りそうになったが、ぐっと口を閉じると、ぐしゃりと頭を撫でられた。
「リツは物知りなだけじゃなくて、その知識を人のために使う善き人間だ。ジェムが字を読めないのは事実で、そのジェムをリツがそれなりにしたのも事実だ。それに、ジェムの火傷を見事に治した。ジェムが忠実なのはリツだからだ。自分に自信を持て」
「そんな大層なもんじゃ……それにあれは、今でも後悔しているし、正しいことかわからない」
「何故だ」
「彼を実験台にしたようで……」
律が湿潤治療を提案し始めた頃、ジェムが足に火傷を負った。律はすぐにオスカーに治療をしてくれるように頼んだのだが、ジェムは律に治療をしてほしいからとオスカーの治癒の手を拒絶した。
律は医者ではないため、火傷の深度もわからない。とてもではないが責任を取れなかったが、ジェムは頑なだった。ジェムならば失敗しても隠せるし、成功したら宣伝になるというのだ。律が治療法を提案しながらも怪我人を実際に治療するのには怖じ気づき、行動を起こさないことに気が付いていたのだろう。
ジェムの足には小さな水疱がいくつかあった、律は記憶を便りに、水ぶくれを取り除いた後に、馬油を塗って傷口を乾燥させないように患部を山羊革で覆った。
あせもや細菌感染、かぶれなどが出ないように、こまめに患部を洗い、馬油を塗って患部を覆うのを繰り返す。それくらいであればジェム本人にもできただろうが、律は自身で責任を持ちたかったのでつきっきりで治療をした。
痛みをほとんど伴わず傷は治癒した。それに安堵するのと同時に、自信をもつことができた。その後、羊や山羊の革を手配し、施療院にて湿潤治療を開始した。全てジェムのお陰だが、確信もなくジェムを治療をしたことに未だ後ろめたさを持っているのだ。
「どうやらジェムの実直さはリツ譲りのようだ」
顔を上げてオスカーの顔を見ると、その目はとても優しい。そんな目を律に向けてくるのは龍司だけだった。嬉しさと、懐かしさでなんだか胸が痛くなる。
「自分のやっていることに自信を持て。上の者が自信を持たねば、下の者は不安になるだけだ。リツは自信のない者に自分の体を触らせたいか」
「ううん」
「ならば、どんなことがあっても不安そうな顔を見せるな。見かけ倒しでもいいから」
「そうだね。そのとおりだ」
オスカーは律をぎゅっと抱きしめてくると、頭をグシャグシャと撫でた。
「可愛くて、素直で、賢いリツ。碧のガイアなんて、ただの飾りだと思っていたが、リツは違っていた。ここに来てくれたのがリツでよかった。俺は幸運だ。神に愛されているのを感じる」
「また大げさな」
律がクスリと笑うと、オスカーは体を離して、少しムッとした顔をした。
「本気で言っている。俺もリツみたいに人を助けられる王になりたい。そのためにはリツの助けがいる。だからずっと俺のそばにいてくれ」
「俺でよければ手は貸すけど、でも……ずっとは……無理だよ……ごめん」
オスカーが顔をしかめる。今度は謝るなとは言わなかった。怒っているような、悲しんでいるような顔をしているのに何も言わない。いつもはすぐ思ったことを口に出すのに何も言わないということは、余程怒っているのか。だが、龍司を諦めるという言葉は、決して口にはしたくなかった。
「そろそろ行かないと」
なんだか気まずい雰囲気になったので立ち上がると、オスカーも立ち上がる。すかさずジェムがそばに来ると、マントを差し出してきた。
「ありがとう」
受け取ろうとしたが、何故かジェムはマントから手を離さなかった。
「もう少しお休みになられたほうがいいのでは。無理をなさらないでください」
「ジェムは優しいね。大丈夫。研究室にいたときは徹夜で実験とかしてたし、このくらいは全然余裕だよ」
「研究室?」
オスカーが二人の間にずいっと入り、首を傾げる。
「リツは何の研究を?」
「電子工学、って言ってもわからないよね。小さな力で物を動かすための研究をしてたんだ」
「てっきり医学を学んでいたと思っていた」
「うん。医者になりたかったけど、人の命を扱う自信がなくて」
人の命を助ける仕事をしたいと思っていた。律の成績なら医学部にもいけただろう。だけど、律には自信がなかった。いや、自信がなかったというよりも、意気地がなかった。人の命を助けることよりも、人の命を救えなかったときのことを考えてしまい、そんな重責を担う仕事はできないと逃げたのだ。それがなんの因果か、全く別の世界で医者の真似事をしている。人生とは不思議だ。
「ここは落ち着くんだ」
オスカーがふっと笑う。
「本当に本が好きだな」
オスカーが律の隣に座ると、従者のジェムがワインを注いだグラスをテーブルに置き、すっと下がった。黒い髪に黒い瞳。ぽっちゃりとした体をしている、律と同じ年頃の男だ。
「優秀な従者だ。忠実でもある」
オスカーの言葉に、律はうなずいた。
「えぇ、とても信頼できる友人です。俺には勿体ないくらいだ」
「勿体ない? 字も読めない、馬鹿でのろまでグズな男だ。それを使えるようにしたのはリツだろう。むしろジェムが身に余る主人に使えていると神に感謝すべきだ」
律は顔をしかめてオスカーを見る。
「そんな言い方は……」
「本当のことだろ。何が悪い」
王子としての傲慢さが顔を出した。育ちや身分を考えれば仕方がないのだろうが、オスカーのこういうところは好きではない。
同時に、ジェムは今まで何度もこういった侮蔑にさらされていたのだろうと思うと辛くなる。
「ジェムは難読症ってやつだと思う。知能に問題はなくても、文字を読んだり理解するのが難しかったりとか、そういうの。俺達の世界には結構な割合でいるんだ。一説には一割いると言われている。この世界ではどうかわからないけど、そもそもこの国は識字率が低いから知られていないだけじゃないかな。彼らは脳での処理方式が違うだけだから、適切な方法を選択すれば他の人間と同じように学習できる。俺達の世界にはディスレクシアでも成功者は沢山いるし、現にジェムはとても頭が良い。彼らの経典であるカラムを全て暗唱できるんだ。タルミニアからエリンに来たのは七つのときだから、それまでに全て暗記したことになる。驚異的だよ。俺でも無理だ。だから、ジェムを馬鹿にするのはやめてほしい」
西にある国家、タルミニアは、実質エリンの属国だ。三百年前にエリンに攻め入ったが返り討ちに遭い敗北した。その勢いのままエリンはタルミニアを征服したが、民族も風習も宗教も違うため自国の国土にはしなかった。征服の労力よりも、忠実な同盟国になることを選択したのだ。
だが、王の一族であるディン族は政権から追われ、ディン族の幼い子ども達は人質としてエリンに連れていかれた。その風習はその後も長く続き今に至る。子ども達の立場は奴隷であったが、バイベルと呼ばれ教育と洗脳をされた後にタルミニアに返され、タルミニアの要職についた。
そうやって徐々にエリンに侵食されたタルミニア、特に子ども達を奪われ続けたディン族は力を失い、昔の栄光は見る影もないという。
ジェムも七歳のときにバイベルとして連れてこられた一人だ。教育してもものにならなかった失敗作で、要人として国に帰ることも、二つの国を繋ぐ国使にもなれなかった。容姿が優れていれば去勢後に王の後宮に入ることや、魔法使いの愛人にでもなれただろうが、幸運と言うべきか、ぽっちゃりとした体と、愛嬌はあるが美しいとはいえない顔立ちではそれも無理だった。
可哀想なジェムはエリン国民にもタリミニア国民にもなれず、城で召使いとして働くことしかできなかった。だが律は、そんな状況におかれていてもニコニコ笑って、懸命に働くジェムが好きであり、だからこそ自分の従者として指名したのだ。
じっとオスカーが見てくる。また余計な話をしてしまったようだ。あ、と呟いて俯く。
「ご、ごめん。また、俺、変なことを……」
オスカーはこめかみにキスをしてくると首を傾げて顔を覗いてくる。
「悪いことをしていないのに謝るな。悪い癖だ。簡単に謝罪をするような男は誇りがなさすぎる」
「ごめ……」
また謝りそうになったが、ぐっと口を閉じると、ぐしゃりと頭を撫でられた。
「リツは物知りなだけじゃなくて、その知識を人のために使う善き人間だ。ジェムが字を読めないのは事実で、そのジェムをリツがそれなりにしたのも事実だ。それに、ジェムの火傷を見事に治した。ジェムが忠実なのはリツだからだ。自分に自信を持て」
「そんな大層なもんじゃ……それにあれは、今でも後悔しているし、正しいことかわからない」
「何故だ」
「彼を実験台にしたようで……」
律が湿潤治療を提案し始めた頃、ジェムが足に火傷を負った。律はすぐにオスカーに治療をしてくれるように頼んだのだが、ジェムは律に治療をしてほしいからとオスカーの治癒の手を拒絶した。
律は医者ではないため、火傷の深度もわからない。とてもではないが責任を取れなかったが、ジェムは頑なだった。ジェムならば失敗しても隠せるし、成功したら宣伝になるというのだ。律が治療法を提案しながらも怪我人を実際に治療するのには怖じ気づき、行動を起こさないことに気が付いていたのだろう。
ジェムの足には小さな水疱がいくつかあった、律は記憶を便りに、水ぶくれを取り除いた後に、馬油を塗って傷口を乾燥させないように患部を山羊革で覆った。
あせもや細菌感染、かぶれなどが出ないように、こまめに患部を洗い、馬油を塗って患部を覆うのを繰り返す。それくらいであればジェム本人にもできただろうが、律は自身で責任を持ちたかったのでつきっきりで治療をした。
痛みをほとんど伴わず傷は治癒した。それに安堵するのと同時に、自信をもつことができた。その後、羊や山羊の革を手配し、施療院にて湿潤治療を開始した。全てジェムのお陰だが、確信もなくジェムを治療をしたことに未だ後ろめたさを持っているのだ。
「どうやらジェムの実直さはリツ譲りのようだ」
顔を上げてオスカーの顔を見ると、その目はとても優しい。そんな目を律に向けてくるのは龍司だけだった。嬉しさと、懐かしさでなんだか胸が痛くなる。
「自分のやっていることに自信を持て。上の者が自信を持たねば、下の者は不安になるだけだ。リツは自信のない者に自分の体を触らせたいか」
「ううん」
「ならば、どんなことがあっても不安そうな顔を見せるな。見かけ倒しでもいいから」
「そうだね。そのとおりだ」
オスカーは律をぎゅっと抱きしめてくると、頭をグシャグシャと撫でた。
「可愛くて、素直で、賢いリツ。碧のガイアなんて、ただの飾りだと思っていたが、リツは違っていた。ここに来てくれたのがリツでよかった。俺は幸運だ。神に愛されているのを感じる」
「また大げさな」
律がクスリと笑うと、オスカーは体を離して、少しムッとした顔をした。
「本気で言っている。俺もリツみたいに人を助けられる王になりたい。そのためにはリツの助けがいる。だからずっと俺のそばにいてくれ」
「俺でよければ手は貸すけど、でも……ずっとは……無理だよ……ごめん」
オスカーが顔をしかめる。今度は謝るなとは言わなかった。怒っているような、悲しんでいるような顔をしているのに何も言わない。いつもはすぐ思ったことを口に出すのに何も言わないということは、余程怒っているのか。だが、龍司を諦めるという言葉は、決して口にはしたくなかった。
「そろそろ行かないと」
なんだか気まずい雰囲気になったので立ち上がると、オスカーも立ち上がる。すかさずジェムがそばに来ると、マントを差し出してきた。
「ありがとう」
受け取ろうとしたが、何故かジェムはマントから手を離さなかった。
「もう少しお休みになられたほうがいいのでは。無理をなさらないでください」
「ジェムは優しいね。大丈夫。研究室にいたときは徹夜で実験とかしてたし、このくらいは全然余裕だよ」
「研究室?」
オスカーが二人の間にずいっと入り、首を傾げる。
「リツは何の研究を?」
「電子工学、って言ってもわからないよね。小さな力で物を動かすための研究をしてたんだ」
「てっきり医学を学んでいたと思っていた」
「うん。医者になりたかったけど、人の命を扱う自信がなくて」
人の命を助ける仕事をしたいと思っていた。律の成績なら医学部にもいけただろう。だけど、律には自信がなかった。いや、自信がなかったというよりも、意気地がなかった。人の命を助けることよりも、人の命を救えなかったときのことを考えてしまい、そんな重責を担う仕事はできないと逃げたのだ。それがなんの因果か、全く別の世界で医者の真似事をしている。人生とは不思議だ。
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