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まれびと来たりて

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「その小さな力というのは、律が講義をしている原子とやらの話か? 今度聞かせてくれ」

「まぁ近いかなぁ。どうだろ。説明する自信はないや」

 苦笑いをすると、オスカーは目を細めて笑う。

「何か足りないものがあったり、困ったことがあったら言ってくれ。できることなら何でもするからな。では、また夜に」

 最初は反対していたのに、今ではオスカーもセドリックも律のやっていることを後押ししてくれている。律は笑ってうなずいた。

 オスカーは外までついてきたが、忙しいのか施療院まではついてこなかった。律を抱きしめて額にキスをすると、名残惜しげに城の中に戻っていった。すぐに帰って来るのに、大げさだなと笑う。

 代わりにイホークがぴったりとついてくる。オスカーやセドリックが下がらせるとき以外は律のそばから離れない。ありがたいのだが、いかにも軍人といった堅苦しい雰囲気のイホークがそばにいるのは、少し息苦しい。

 他には騎士が二十人ついている。どれも腕利きの男達だという。大事にされているからだろうが、それだけではなく、律のやっていることが危険だからだろう。

 オスカーなどは中隊を連れていけと騒いでいるほどだ。さすがに街中で百人の兵士が移動するのは目立ちすぎる。逆に危険だとセドリックが止めてくれたので、それはなくなったのだが。

「帰れ! 妖術で人々を惑わす邪悪な悪魔め!」

 施療院の前まで行くと、紫の長衣を着た太ったアマルが大きな声を上げ、碧の木で出来た杖を振りまわした。アマルとは聖職者のことであり、この国の宗教の指導者でもある。

 エリン国の宗教はガイアという神――もしくは概念というべきか――が中心だ。多神教よりも一神教に近いのだろうが、律がいた世界の古の宗教に近くもある。

 ガイアは大地の母であるとされている。碧の木はガイアの分身であり、その根は地中奧深くに伸び世界中に広がってガイアのエネルギーを供給しているというのだ。

 アマルはガイアの代弁者としている。彼らは民のために祈りの言葉を唱え、道徳を説き、知恵をあたえる。その知恵の一つが医療だ。

 王の一族が治癒力を持っていることもあるのだろう。この国で癒やしの力はもっとも尊いものであり、魔法使いガーディアン以外が医療を行う場合は、ガイアの使徒であるアマルが行うことになっている。

 それなのに、得体の知れない男が、得体の知れない治療を始めたのだ。アマルが批判をするのは当然であるし、同時に、彼らの治療で利権を得ている連中がいい顔をしないのも当然だ。だからこそ、オスカーは心配しているのだ。

「下がっていただきましょう。リツは施療院の院長です」

 イホークが律を背中に隠すようにして、前に立った。

「私達は認めておりませぬぞ」

「施療院は王の持ち物。そしてリツを指名したのは王です。何故貴方がたの許可が必要だと?」

 律はハラハラしてイホークの顔とアマルの顔を見た。イホークはいつもと変わらぬ冷静な表情をしていたが、その目は鋭くアマルを見据えている。少しでもおかしな動きをしたら斬られてしまいそうな雰囲気だ。

 一方アマルも引く気配はなかった。垂れた瞼の下から覗かせる眼光は、鋭いというよりも人を見下すような冷たさを持っている。

「ガイアの力は弱まり、邪悪な力が入り込もうと蠢いておるのが私にはわかる。この得体の知れない外国人の言うとおりにすれば、いずれ国が滅びてしまうぞ」

「ガイアの力が去ろうとしているからこそ、新たな知恵が必要なのでしょう。王は聡明なお方です」

「王の盾であるサー・イホークともあろう者が戯言を。王を諫めるのもサーの仕事であるぞ」

「私は一介の騎士でたかだか盾ですから、王に助言する立場にはありません。では、急ぎますので」

 イホークが目線をアマルに向けたまま、軽く首を振って、律に中に入るように促す。律が施療院の中に入るまで、イホークはじっと立って動かなかった。

 律は中に入ると、ようやく息を吐き出した。腐ったような臭いが鼻をついたが、最初の頃よりましになったのは、清潔を徹底した成果が出たのか、それともただ単に慣れただけか。

「国が滅びるなどどの口が言う。利権を手放したくない老獪な魔物は自分達だろう」

 イホークが室内に入ってくると吐き捨てるように言う。どうやらイホークはアマルをよく思っていないようだ。口にこそ出さないが王のセドリックもそのようであり、宗教と王家の対立とまではいかないが、お互いを目の上のたんこぶだと思っているのだろう。

「俺にはそういうのよくわからないですから。俺は俺のやれることをするだけです」

 イホークが律の顔を見て、少しだけ笑うと、律の頭をクシャリと撫でた。怖い印象があるイホークが優しく頭を撫でてくれるのは好きだった。

「でも、さすがにあれはちょっと気味が悪いから川に返したいな」

 律は水槽の中にいるひるをちらりと見る。ひるは黒い体をくねらせ水の中を泳いでいた。彼らはしやけつのために飼われているのだ。律のいた世界でもひるを治療に使うことがあると聞くが、ここでは頻繁に使われている。

 ひるだけではない。水銀やその他の怪しい薬たちが治療の現場では使われているが、それら医療に関わる物品はアマルが流通を握っている。もしそれが必要ないとなれば、彼らの収入は減ってしまうだろう。

 だが、そんなことまで考えていては律の頭はパンクしてしまう。あえてそういったことは頭の中から追いやり診察にきた患者を見た。 

「よくできているね。君達は優秀だよ」

 患者の傷口が綺麗になっているのを見て、看護師達に笑顔を向ける。看護師を募集すると、給金がいいためか予想以上に人は集まった。律は学があるかは気にせず、根気があり素直な人間を厳選したのだが、それがよかったようで治療自体はすぐに軌道に乗った。

 次から次へと患者が来るのに対応していく。この世界では些細な怪我でも命に関わる可能性がある。そもそもガイアの川の癒しの力は市民までには行き渡ってはいない。貴族達が独占しているという。なので元々彼らは施療院で治療するのは日常だ。

 第一、川の水に怪我を治療するほどの力など元々ないのかもしれない。セドリックもオスカーも口にこそ出さないがそれを感じているのではないかと律は思っている。だが、それを否定するのは政治的にも宗教としてもまずい。聖なる川を否定することはガイアの力を、強いては国のあり方を否定することになる。もっともこの都市では疫病の発生率が少ないのは事実であるようだから、ガイアの川には特別な力があるのかもしれないし、他の要因で流行病がないだけかもしれない。律はその要因を探ってみたくはあったが好奇心には目を瞑るしかない。


「アルコールが足りないね」

「はい」

「革も手配しなきゃ」

 優秀な助手でもあるジェムが返事をする。ジェムは記憶力がいいので、紙が貴重なこの世界では優秀なノートブックでもあるのだ。

「でも、セドリックには言いにくいよね」

 独り言のように呟く。仕事を一つ始めるだけで次から次へと課題が出てくることにうんざりしていた。

 この世界は物資が豊かな日本とは違う。たとえば消毒用のエタノールを生成するためには発酵法を使うしかない。石油や天然ガスから生成するのはとても望めないからだ。

 しかし、エタノールを入手するためにワインを蒸留すれば、ワインの値段はあがるだろう。また、国民に行き届くように革を用意すれば、生活に必要な革が足りなくなってしまう。そうなればアマルは勿論、国民だって黙ってはないだろう。それを回避するためには、作物の収穫量を上げるしかなく、そのための施策を提案しなければならない。ただ物資をねだるだけではいけないと律は思っていた。

「革の回収率は?」

 傷口は水で洗うだけで消毒はしないので、エタノールは今のところ機具や手の消毒用だ。なくてもなんとかなる。だが、革がないのは困った。

「三割ほどです」

「そんなに治っていない?」

「治っていても返しにこないだけでは」

「そうか……」

 治療は治験も兼ねているので無料で行っている。ただし、革を返却するのが条件だ。律は怪我を治してもらったので返しにくるのは当然だと思っていたのだがそれは甘かったらしい。ガッカリするのと同時に、龍司の言葉を思い出す。龍司は裏の世界を知っているからか、それとも律が世間知らずだったからか、「お前は世間知らずで、人を信じすぎる。それだけ馬鹿にされてよく人を信じられるな」とよく言った。

 それだけではなく、「まぁそれがお前らしくていいところだけど。汚いことは知らないでいい。何かあったら相談しろ。俺がなんとかするから」と言ってくれた。実際にトラブルがあったときは、相談しなくても律の顔色や噂話を聞きつけて知らないうちに対処してくれていた。律が人から騙されたり、真に汚い面を見ずに済んだのは龍司のお陰だ。離れれば離れるほど、龍司がしてくれたこと、与えられたものに気が付いていく。その度に自分の力で立たなければと思うのだ。

 今回もそうだ。落ち込んでいる場合ではないと己の頬を軽く叩く。

「落ち込んでもいられないね。対策をしないと。革を返却した人には何かお礼をしようか」

「怪我を治したのにですか」

 聞いていたジェムが顔をしかめる。

「納得できないかもしれないけど、俺達が今一番知りたいのは治癒率と怪我の状態だ。跡が残るかも知りたい。今はまだ治験の段階だし、情報は金を出してでも欲しいから綺麗事は言ってられない。王に相談をしてみる」

「はい。さすがリツ様」

 ニコニコと笑うジェムとは反対に、イホークは何を考えているかわからない無表情で見てくる。王にそんなことまで頼むなと言いたいのかもしれないが、そんなことは気にしていられなかった。

 怪我人の様子を見て、看護師達を指導をしてと、めまぐるしく時間は過ぎていった。

「そろそろ帰った方がいい」

 イホークが声をかけてきたので窓の外を見ると、空がうっすらと赤くなっている。

「そうですね」

 夜勤の看護師に挨拶をすると施療院をあとにした。

 律は馬車に乗ると大きくため息をつく。一日が過ぎるのはあまりにも早くて、何もできないまま時間だけがたっていく感覚に苛立ちを覚える。早く龍司を探しに行きたいのに踏み出すこともできずにいた。治療だって律の一方的な行為であって誰も喜んでいないのかもしれない。だから誰も革を返しにこないのか。一体自分は何をしているのか訳がわからなくなってきて両手を顔で覆った。その様子をイホークがじっと見ていた。

「止めてくれ」

 イホークが町の中で突然馬車をとめるように言う。

「どうしたのですか」

「窓を開ける」

「え?」

「それは危険では」

 ジャムが慌てて首を振るが、イホークはさっさと窓を開けてしまった。

「リツ様」

 馬車にすかさず一人の女性が駆け寄ってくる。律は首を傾げて女の顔を見た。

「見てください。こんなに綺麗になりました」

 頬を指差す女性に、一月前に顔の怪我を治療した女性だと気が付いた。

「ありがとうございました。奇跡みたい」

 嬉しそうに笑う女性に律はどうしていいのかわからず凍り付いたが、すぐに胸の奥から嬉しいという感情が湧いてきた同じように笑う。

「あぁよかったです。とても綺麗になった。いえ、貴方は怪我をしていても綺麗だったけど、でも、そうじゃなくて貴方の笑顔が綺麗なのが一番嬉しいです」

 それに女性は目を見開いた後、顔を真っ赤にしてうつむいた。

「これ、遅くなりましたけど」

 治療に使った革と、クッキーを渡された。バターの匂いが立ち上る。

「そんな、こんな貴重なものを」

 小麦粉も砂糖もバターも貴重なはずだ。慌てて返そうとしたが女性は頑として受け取らなかったので、一つを口に入れ、一つを女性の口に入れると、美味しいと二人で笑った。

 女性を押しのけるように、別の人がやってくる。

「子どもの足が治りました」

「俺もすぐに働けるようになった」

 次々と住民がやってきて、お礼の言葉と一緒に革を返してくる。みんな心から笑っていて、お世辞ではないのは伝わってきた。律は嬉しいのと同時に、こんなに大勢の人に感謝されたのは初めてで、受けた感謝をどう返していいのかわからず、涙がじわりと湧いてくるのを懸命に耐えた。

「そろそろ出発を」

 イホークが窓を閉めて言う。律はイホークから顔をそらすと、目尻を軽く拭った。

「リツは可愛い顔してとんだ女たらしだな。そんな一面があるとは驚いた」

「え?」

「いや、わかっていないならいい」

 律は何を言っているのだろうと首を傾げたが、すぐに頭を下げる。

「ありがとうございます。こんなにお礼を言われたのは初めてで、凄く嬉しいです。それに、革も回収できた」

 イホークはこの状況を知っていて、律に見せるためにわざと馬車を止めたのだろう。その気遣いに感謝をすると、イホークが律の肩をポンと叩いてきた。

 律がイホークの顔を見上げてもう一度お礼を言いにっこりと笑う。イホークはぎゅっと唇を結んで顔をそらした。表情は変わっていないが少しだけ嬉しそうに見えた。気のせいだろうか。

「それよりも、軽率に食べ物を口にするな。リツを気に入らない者は沢山いるんだ。毒が入っていたらどうする」

「あ……そうですよね。ごめんなさい」

 強い口調で叱られて、律は慌てて謝った。完璧に物事を終えられないのはいつものことだがシュンとしてしまう。

 馬車の中には気まずい沈黙が下りてきた。馬の蹄の音と、外から聞こえる喧噪と、心地良いとは言えない振動だけが響いていた。

「私の主は一人だけだ。セドリック王にお仕えすると誓った」

「はい」

 突然何を言い出すのだろうか。律に仕えたくないということをわざわざ言っているのか。そんなことは言われなくてもわかっている。イホークはセドリックの元にいたいはずなのに、律の護衛を嫌々やらされているのだ。

「わかってます。俺を護衛しているのはセドリックの命令で、俺が碧のガイアだからです。勘違いはしていません。貴方が危ない目に遭わないように、軽率な行動はしないように気をつけます」

「いや、そうではなくて……」

 イホークは言葉を探しているようだが、諦めたのか大きくため息をつくと、律の額にキスをしてきた。

「幼いな。実に幼い顔だ」

「はい?」

 突然何を言い出すのだと思って、苦笑いをする。

「だが、美しくもある。無くすのにはあまりにも惜しい命だ」

「え?」

「だからリツは俺が守る。だが、リツ自身が危機感を持たねば守り切れない」

「あ、はい。ありがとうございます」

「それから、これは王の命令だからではない。私が、私の目で見て私の頭で考えて、リツを守るべきだと感じている」

「あ、ありがとうございます」

 律が何故落ち込んでいるの察しての言葉なのだろうか。言葉は足りないが、そこには確かに優しさがあった。

 同時に、オスカーだけではなく、イホークまでもが甘い言葉を吐き出すのかと戸惑う。この世界では普通なのだろうが、律には少々糖度が高すぎる。

 恐る恐るイホークの顔を見ると、イホークは口元を上げて笑う。大人の色気が漂う笑みは雄の色気も持っており、律の心臓は少しだけ高鳴った。
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