恋というには幼すぎ

shuben_liehu

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 約束の時間までに仕事を終わらせて早々に会社を出た私は、クリスマスに彼と再会した駅に着く。改札を抜けて顔をあげると、既に早河はすぐ前の柱に背を預けて私を待っていた。

「……よう」
「……おう」

 タッチの差で早河が私に気づく方が早かったらしく、私が口を開く前に片手をあげて声をかけてくる。開いた口と吸い込んだ酸素のやり場に困り、私は頷いて返した。



 飲みに行くから付き合え、というメールを一言送った後、昼休みが終わるころに早河から返信があった。「19時にイヴん時に会ったあの駅前で」という短い返答。冷静に考えれば、私から声をかけて彼がそれを断る筈がないのだが、彼からの返信を確認した私はなぜか奇妙な安堵を感じていた。

 嘗て早河を誘って遊びに行こうと計画を練っているときには全く考えもしなかったが、さすがに前回会った時にした会話の内容が内容だっただけに、妙に身構えてしまう自分がいる。

 おいおい、まさか早河の感情が感染したんじゃなかろうな、などと性質の悪い病原体が発症した患者を見るような眼でモニターに映った自分の顔を見返し、今更ながら私は苦々しい気持ちをかみしめてやけくそ気味に笑ってみた。
 相手が男であろうが無かろうが、早河であろうが無かろうが、真顔であんなことを言われてしまえば誰だって身構えるものだ、等というのは、この際言い訳にすぎないか。

 改札で年が明けてから初めて顔を合わせた私たちは、何とも言えない気まずさにしばらくその場を動けずにいた。
 暫くにらみ合った後、ぎこちない口調で挨拶を交わす。

「ア、アケマシテオメデトウゴザイマス」
「ア、ドウモゴ親切ニ。本年モヨロシクオ願イシマス」

 微妙な空気の漂う中、先にその空気に耐えきれなくなった私が歩きだした。ついてくる早河の気配を背中に感じながら、さてどこへ行こうと考える。近くの居酒屋でいいだろうか。早河は私以上に酒に強かったはずだ。サークルの飲み会では常に私がつぶされる側だった。
 言い訳させてもらうなら、私は早河に強要されて酒をしこたま飲まされたのであって、自分から潰れるほど飲んだ経験はない。「酒はたしなむ物」が私の持論である。

 追いついてきた早河がこちらをちらりと見る。その視線に気づいて見返せば、どこか困ったように笑いかけてきた。それは私の記憶の中にある、彼がいくつも見せた笑顔のどれとも合致しない、酷く頼りない笑顔だ。
 それを見た私は、彼もこの数日間、私と同じく動揺し続けて過ごしたのかもしれないな、と何となく考えた。彼にしてもあの日私に強要されなければ、己の感情を私にぶつけようとは思っていなかったのだろう。
 思えば彼は私にあの言葉を告げた後、さっさと改札を抜けてホームに入っていってしまった。最寄駅へ向かう電車が三十分おきにしか来ないと少し前にぼやいていたのにである。彼は彼なりに、頭を冷やそうと吹きさらしの寒いホームへ向かったのかもしれなかった。
 私はふとおかしい気分になる。自分だけがこの男に動揺させられていたのだと思い込んでいたが、どうやらそうでもないらしい。私が彼とどのような関係を築きたいのか必死に思いを巡らせている間、彼も「本当にあれを恋愛と呼んでしまってよかったのか」などと考えていたのかもしれない。



 ようやく空いている居酒屋を見つけて入ると、簡単に酒とつまみを注文して待つ。お通しがやって来て、それぞれの注文したジントニックとスクリュードライバーがテーブルに置かれ、店員が去っていったのを見計らって、早河が口を開いた。

「……こないだの返事か」

 答える代りに注文したスクリュードライバーで唇を湿らせ、私は問い返す。

「……その前に、色々聞きたい」

 早河は頷くと、自分の前に置かれたジントニックに口をつけた。

「多分お前さ、俺が言えって言わなかったら、此間の事も言わなかったんだろうけど」
「うん。言う気なかった」

 じゃあさ、と、私は早河の顔を伺いながら問いかける。

「ずっと言わないままだったら、どうするつもりだったんだよ」
「……どうもしない。気持ちに整理がつくまではそのままのつもりだった」

 静かにそう言って、早河はジントニックをまたあおった。元々早いペースで酒を飲む彼だが、ふと思う。……それにしたってペースが速くはないだろうか。すでにグラスの中身は半分ほどに減っている。

「……恋愛ってさ、俺達の年になるともう、自由とかない気がしてくるんだよなぁ」

 早河はやってきたつまみを口に運びながらそうつぶやく。自分が言おうとしていた事を先に口に出され、私は面喰らってグラスを口にあてたまま彼を見なおした。

「ほら、俺はさ、末っ子でもう初孫ってわけじゃないからあんまり言われないけどさ。坂城の所は一人っ子だろ」
「あ……ああ、うん。よくお見合い写真とかさりげなく机に置かれたりする」

 早河は苦笑して更にグラスを傾けた。どうも自分には経験がないが、彼の兄がそれをされていたらしい。

 早河の実家は三人兄弟で、彼は末っ子だ。しかも早河が大学四年のとき、両親は父親の退職を待って離婚したという事だった。それでも早河の長兄が結婚したのはまだ両親が離婚する前だったから、感覚としては私の置かれた現状とさして変わらないものだったのだろう。

「この年になるともう、『結婚を前提に』とかそういう台詞が出ちゃうんだよな」
「……うん、ある」
「で、そのうち彼女を『お嫁さん候補』とか言って親に会わせたりさ」
「……よく聞くよな、そういう話」

 言いたい事を先回りして言われると、とんでもなく居心地が悪い。しかし、彼が何を言いたいのか何となくわかってしまった私は、静かに相槌を打ちながらスクリュードライバーを口に含んでいた。

 そう、分かっているのだ。だからこそ、彼はおそらく、なるべくなら言わないようにしていたのだろう。己の現状をよく理解しないままに、彼に致命的な言葉を迫ったのは私だ。恋愛というには幼く、友情と言うには少しばかり進み過ぎた関係に名前を付けて定義させようとしたのは、まぎれもなく私なのだ。
 早河は、殆どからになったグラスをテーブルに置いて問いかけてきた。

「……それが分かってるのに、なんであんな事言ったんだ……って、そう聞きたかったんじゃないのか?」



「………………」

 私は答えずにグラスを置いて、暫く言葉を探す。早河の言葉は半分正解で半分間違っている。
 私は彼を非難したいわけではないし、非難できる立場でもない。ただ、私と早河の不可思議な関係を、我々の今と言う現実の中でどのように位置づけるか。私が扱いかねたその疑問に早河が出した答えが、「恋」であった理由を知りたいのだった。

 それは「恋」ではないと断じてしまう事は簡単だ。しかしおそらく、友人という枠を外れて一歩を踏み出した早河が目の前にいる以上、すでに「友人」には戻れないのだろうということは、私も薄々と気がついていた。「恋ではないなら何なのか」という、新たに生まれる疑問それ自体が、我々の積み上げた関係の瓦解を意味するような気がしてならない。

 ちらりと目をあげた先で、早河は珍しく緊張したような面持ちだった。恐らく私の胸にある懸念を、彼も感じているのだろう。

 問題は、私が彼との関係をどのように考えるかにかかっている。だからこそ、私は彼の真意が知りたいと思ったのだ。

「早河があのときああ言ったのは、俺が無理に言わせたからだろう」

 言いたいことは無限にある。しかし言葉は有限だ。だから選ばなくてはならない。私は一つ一つ慎重に言葉を選んだ。

「俺の記憶ではさ、お前は結構よくもてたと思うんだ。多分それは今も変わってないんじゃないかと思うし。正直俺は、そういう女子たちの申し出を断ってまで、どうしてお前が俺とつるむ時間を選んでいたのか、分からない」

 ひど言い草に聞こえるだろうか。言ってしまってから私の胸に後悔が押し寄せる。あの日早河が俺に絶交されるのではと何度も心配した気持ちが、今は何となくわかる気がした。私もまた、やはり早河に嫌われるのは嫌なのだ。
 ここまで積み上げ、一旦道を違えてなお、崩れずに残ったこの関係が、完全に消えてなくなる事を、あの日の彼は危惧していたのだ。今の私のように。

「そう、か。……聞くまでも、なかったのか」

 口をついて出た言葉に、ふと笑みがこぼれた。聞きたい事など最初から一つしかなかったのではないだろうか。

 私と早河を結ぶこの関係が、男女間に生まれる恋愛という感情と同一のものなのか、それとも別のものなのか、私にははっきりとした答えは出せない。恐らく早河も同様だろう。
 だが、私の失態によって現状が更に悪くなった以上、今天秤に乗せるべきは「恋か否か」等という高尚な問題ではないのだろう。今乗せるべき分銅は、「この関係を打ち切るか、続けるか」なのだ。

 だからこそ、私は改めて口を開いた。

「早河、お前にとって、俺は何だ?」

 ――返ってきた答えは、私にとってどこまでも満足のいく回答だった。

 最後に乗せる分銅が決まった。私はゆらゆらと揺れ動いていた天秤がかたりと音を立てて傾くのを感じながら、テーブルに置いたままだったグラスを手に取り、一気にあおってから、焼けるのどに一、二度せき込んだ後、目の前の男に向かって声を絞り出した。
                               <了>
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