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それを掌中の珠と云ふ
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岩館は朽木の右手を取った。右手首より先は無かった。手首は黒く炭化し、肘まで続く腕であったものが橈骨に沿って爆ぜていた。
どんなに痛く、恐ろしかっただろう…。樹精は火を怖がるのに。
無理に受肉させるのではなかった、と岩館は思った。枝葉か霞の手であれば、岩館でも再生できる。しかし受肉した手を焼かれてしまうと…。
この子を初めて見つけた時、儚いと思った。
せっかくこの世界に生じたのに乱雑な木立の合間に朽ちていきそうだった。白い靄の中にそのまま溶けて無くなりそうだった。日を透かすほど細い蜘蛛の糸さえ雨に負けぬ作りを持っているのに、これでは雨にも風にも雪にも負けてしまう。下手をすれば足下を流れる水でさえこの子を引き摺り倒してしまう。
自然の習いに従うならば、弱いものは残れない。
だが岩館はその弱い枝葉の手をとった。
その時の本心を、朽木に告げたことはない。
風雨の盾になる様に寄り添い、堅い岩の鎧の一部を落とした。決して他には触れさせぬ部分を曝け出す。堅い手で真珠色の細くやわらかな根を、そこへ導いた。
自らのあやかしの気を吸わせながら、酷いことをしている、と思った。ゆらゆら揺れるこの名無しの木に、尋ねることなく意のままにした。
木には岩を割る強い力があると、その頼りない枝葉の手を引いて、陽の照り返しを優しく含めたような真珠色の瑞々しい命の色を愉しんだ。
小さな白い掌と細い指を形作り、自分の身体に回させた。風で飛ばぬように、真っ直ぐ伸びていくように。うたた寝で傾ぐ細い体をそうっと支える。
壊さぬようにくすぐると、声なく身を震わせる。
ああ、笑っていると岩館は勝手に思う。
目覚めて不思議そうに自分の顔を見つめ返す小さな顔を硬い岩の両手で挟む。
おれはおまえにひどいことをしている。
そしてそれがよくないこととしりながらもっとひどいことをおまえにするぞ。
絹の様に滑る髪を刈り終えた後の藁の様に乱し、白い小さな顔に泥はねのようにそばかすを散らす。眷属を作る様に、名無しの容姿を整えていく。誰も欲しがらぬように。誰にも求められぬように。
美しいものは奪われる。争いの種になる。
名無しの命が生まれながらに持っている黄金比を歪めながら、岩館は暗い喜びに浸った。誰の目にも止まらなければ誰に奪われることもない。これからは時々この場に訪れて、ひっそりと愛でれば良い、そう思っていた。
そうして里にもどり、名無しの悲鳴で乱雑な木立の間に飛び戻り、引き倒されて猪にやわらかな根を貪られているのを目にした時、岩館の怒りは膨れ上がった。殺意にまで高まった怒りを開放することに岩館は何の躊躇いも感じなかった。
殴りつけ、動かぬようになった毛の塊を裂いてはらわたを引き出す。赤くどろどろした中にかみ砕かれたイモリや蛙やもう何かわからぬ葉や茎のようなものが散らばる。
ない。
自分だけが触れた真珠色が、ない。
離れた茂みで動いた毛玉をまとめて踏みつぶした。もはや何の慈悲もない。
春に生んだ子のために餌を漁った雌猪と母を待つうりぼうを引き裂き踏み潰し、地中の奥深くに埋めた。憎悪と殺意がおさまらぬ。この地に生きる全ての獣を根絶やしにしても狂うような殺意が。
『いわだて』
か細い声で名を呼ばれなければ。
山津波となって、生きている全てを怒りに任せて押しつぶしたかもしれなかった。
『いわだて、どこ』
地に引き倒された顔の色の定まらぬ瞳が、ぼんやりと空を見上げている。たなびく雲、葉の緑、夕焼けの橙を映していた素直な瞳が、狂った岩館の顔を鏡のように映す。
『いわだて、おれしんじゃうの』
小さなつぶやきに岩館の胸は引き裂かれた。
「死なぬ、死なせぬ」
弱いものは生き残れない。食物連鎖は自然の摂理で生きるために根を齧った獣に何の罪もなかった。罪深いのは岩館だった。
もっとあやかしの気を分け与えて、獣に負けぬ力をつけさせることもできた。戦えぬならば足を与えて逃げる道を残すこともできた。名無しを歪めて弱いまま、この場に留めたのは岩館の我欲だ。
根がなければ成長できない。あやかしとしてからだの出来上がっていない名無しは、このままではゆっくりと消滅してしまう。
「目をつぶって、良い子でじっとしているんだ。すべて終われば里に連れて行ってやる」
『うん』
「そして今日のことはすべて忘れてしまえ、いいな、目を閉じて眠れ」
『…うん』
わずかなためらいの後に名無しは頷いた。どうして忘れなくちゃいけないの?と物問いたげな瞳を閉じた。
眠りに落とした体の、裂けた部分に岩館は自身の核を深く埋めた。根を失って吸えないならば、こうして深く繋がってあやかしの気を送るしかない。
形を変えなかった薄い唇を愛おしく思いながらついばみ呼気を送り込む。
腰を早く奥深く打ちつけたくなるのを堪えて、損なわれた根のかわりに細い脚を作っていく。
名無しの身体の奥深く、樹を穿てば必ず開く洞を癒さず埋めなかったのは岩館の消せぬ情念だ。己を引き抜いた痕の傷口の境目を丹念に糸を編むように硝子を熔かすように繊細に閉ざす。
あやかしとして完全に成体になっても最奥の洞は空虚なままだろう。気づかぬまま時がたっても体はその洞があったことを忘れない。
何か足りぬことにいつか気づけ。
岩館は何度も口づける。
その洞をぴったりと満たせるのはおれしかいないことにいつか気づけ。そう思っていた。
木立から里に連れ帰り、強い身体になるように、里の棟梁の金剛から名をもらった朽木は、腹ただしいほどに何も覚えておらず岩館は影でやきもきした。むずむずし、イライラし、嵐の日にとうとう我慢ができず飛び出した。びしょ濡れになり所在なさげに立っていた朽木の首根っこをひっ捕まえて、懐のあわせに入れた。眠そうな顔を見ると叫び出したくなった。
大雪の日も不安になり、もどかしく思い、最後は矢も楯もたまらず朽木を探しに行った。
雪の中で足指を真っ赤にしてしょんぼりと立っている朽木を見た時は、小突き回したくなった。
でも岩館の胸に氷のように冷たい頬を押し当てて、すぅすぅと眠られると胸がいっぱいになってしまう。
今また傷つけられて朽木は眠っている。
手枷のように炭化した黒い部分は断ち落とすか、削り落す必要がある。おそらくおびただしいあやかしの気を使い失うことになる。それをまた岩館が補う。岩館自身も多くの気を失うことになるが自らの手で閉じた境目を開いてやわらかい場所で一つに溶けるのだ。その喜びに勝るものはなかった。
朽木の手を焼いた篝を憎みながら、猪を屠った時ほどの殺意がわかなかった。
理由はわかりすぎるほど分かっている。こんなに早くにまた朽木を抱けるとは思っていなかったから。
誰も邪魔のできない岩屋で、岩館は衣を脱ぎ捨てた。
どんなに痛く、恐ろしかっただろう…。樹精は火を怖がるのに。
無理に受肉させるのではなかった、と岩館は思った。枝葉か霞の手であれば、岩館でも再生できる。しかし受肉した手を焼かれてしまうと…。
この子を初めて見つけた時、儚いと思った。
せっかくこの世界に生じたのに乱雑な木立の合間に朽ちていきそうだった。白い靄の中にそのまま溶けて無くなりそうだった。日を透かすほど細い蜘蛛の糸さえ雨に負けぬ作りを持っているのに、これでは雨にも風にも雪にも負けてしまう。下手をすれば足下を流れる水でさえこの子を引き摺り倒してしまう。
自然の習いに従うならば、弱いものは残れない。
だが岩館はその弱い枝葉の手をとった。
その時の本心を、朽木に告げたことはない。
風雨の盾になる様に寄り添い、堅い岩の鎧の一部を落とした。決して他には触れさせぬ部分を曝け出す。堅い手で真珠色の細くやわらかな根を、そこへ導いた。
自らのあやかしの気を吸わせながら、酷いことをしている、と思った。ゆらゆら揺れるこの名無しの木に、尋ねることなく意のままにした。
木には岩を割る強い力があると、その頼りない枝葉の手を引いて、陽の照り返しを優しく含めたような真珠色の瑞々しい命の色を愉しんだ。
小さな白い掌と細い指を形作り、自分の身体に回させた。風で飛ばぬように、真っ直ぐ伸びていくように。うたた寝で傾ぐ細い体をそうっと支える。
壊さぬようにくすぐると、声なく身を震わせる。
ああ、笑っていると岩館は勝手に思う。
目覚めて不思議そうに自分の顔を見つめ返す小さな顔を硬い岩の両手で挟む。
おれはおまえにひどいことをしている。
そしてそれがよくないこととしりながらもっとひどいことをおまえにするぞ。
絹の様に滑る髪を刈り終えた後の藁の様に乱し、白い小さな顔に泥はねのようにそばかすを散らす。眷属を作る様に、名無しの容姿を整えていく。誰も欲しがらぬように。誰にも求められぬように。
美しいものは奪われる。争いの種になる。
名無しの命が生まれながらに持っている黄金比を歪めながら、岩館は暗い喜びに浸った。誰の目にも止まらなければ誰に奪われることもない。これからは時々この場に訪れて、ひっそりと愛でれば良い、そう思っていた。
そうして里にもどり、名無しの悲鳴で乱雑な木立の間に飛び戻り、引き倒されて猪にやわらかな根を貪られているのを目にした時、岩館の怒りは膨れ上がった。殺意にまで高まった怒りを開放することに岩館は何の躊躇いも感じなかった。
殴りつけ、動かぬようになった毛の塊を裂いてはらわたを引き出す。赤くどろどろした中にかみ砕かれたイモリや蛙やもう何かわからぬ葉や茎のようなものが散らばる。
ない。
自分だけが触れた真珠色が、ない。
離れた茂みで動いた毛玉をまとめて踏みつぶした。もはや何の慈悲もない。
春に生んだ子のために餌を漁った雌猪と母を待つうりぼうを引き裂き踏み潰し、地中の奥深くに埋めた。憎悪と殺意がおさまらぬ。この地に生きる全ての獣を根絶やしにしても狂うような殺意が。
『いわだて』
か細い声で名を呼ばれなければ。
山津波となって、生きている全てを怒りに任せて押しつぶしたかもしれなかった。
『いわだて、どこ』
地に引き倒された顔の色の定まらぬ瞳が、ぼんやりと空を見上げている。たなびく雲、葉の緑、夕焼けの橙を映していた素直な瞳が、狂った岩館の顔を鏡のように映す。
『いわだて、おれしんじゃうの』
小さなつぶやきに岩館の胸は引き裂かれた。
「死なぬ、死なせぬ」
弱いものは生き残れない。食物連鎖は自然の摂理で生きるために根を齧った獣に何の罪もなかった。罪深いのは岩館だった。
もっとあやかしの気を分け与えて、獣に負けぬ力をつけさせることもできた。戦えぬならば足を与えて逃げる道を残すこともできた。名無しを歪めて弱いまま、この場に留めたのは岩館の我欲だ。
根がなければ成長できない。あやかしとしてからだの出来上がっていない名無しは、このままではゆっくりと消滅してしまう。
「目をつぶって、良い子でじっとしているんだ。すべて終われば里に連れて行ってやる」
『うん』
「そして今日のことはすべて忘れてしまえ、いいな、目を閉じて眠れ」
『…うん』
わずかなためらいの後に名無しは頷いた。どうして忘れなくちゃいけないの?と物問いたげな瞳を閉じた。
眠りに落とした体の、裂けた部分に岩館は自身の核を深く埋めた。根を失って吸えないならば、こうして深く繋がってあやかしの気を送るしかない。
形を変えなかった薄い唇を愛おしく思いながらついばみ呼気を送り込む。
腰を早く奥深く打ちつけたくなるのを堪えて、損なわれた根のかわりに細い脚を作っていく。
名無しの身体の奥深く、樹を穿てば必ず開く洞を癒さず埋めなかったのは岩館の消せぬ情念だ。己を引き抜いた痕の傷口の境目を丹念に糸を編むように硝子を熔かすように繊細に閉ざす。
あやかしとして完全に成体になっても最奥の洞は空虚なままだろう。気づかぬまま時がたっても体はその洞があったことを忘れない。
何か足りぬことにいつか気づけ。
岩館は何度も口づける。
その洞をぴったりと満たせるのはおれしかいないことにいつか気づけ。そう思っていた。
木立から里に連れ帰り、強い身体になるように、里の棟梁の金剛から名をもらった朽木は、腹ただしいほどに何も覚えておらず岩館は影でやきもきした。むずむずし、イライラし、嵐の日にとうとう我慢ができず飛び出した。びしょ濡れになり所在なさげに立っていた朽木の首根っこをひっ捕まえて、懐のあわせに入れた。眠そうな顔を見ると叫び出したくなった。
大雪の日も不安になり、もどかしく思い、最後は矢も楯もたまらず朽木を探しに行った。
雪の中で足指を真っ赤にしてしょんぼりと立っている朽木を見た時は、小突き回したくなった。
でも岩館の胸に氷のように冷たい頬を押し当てて、すぅすぅと眠られると胸がいっぱいになってしまう。
今また傷つけられて朽木は眠っている。
手枷のように炭化した黒い部分は断ち落とすか、削り落す必要がある。おそらくおびただしいあやかしの気を使い失うことになる。それをまた岩館が補う。岩館自身も多くの気を失うことになるが自らの手で閉じた境目を開いてやわらかい場所で一つに溶けるのだ。その喜びに勝るものはなかった。
朽木の手を焼いた篝を憎みながら、猪を屠った時ほどの殺意がわかなかった。
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