鬼神の都~退屈上皇と大神の花宮(はなみや)~

志麻友紀

文字の大きさ
3 / 9

第一章 望月の変【一】

しおりを挟む



 いずれのおんときか。

 都は、天子さまのおわす花の御所に、きら星のごとく数多くの女御にょうご更衣こういといわれるお妃様たちが集い、その寵を競い合っておりました。

 その中に、とくにご身分が高いわけでもなく、お妃の位においても更衣という一段下がったお身の上でありながら、帝の御寵愛を一身に受けたお方がおられました。

 しかし、過ぎた立身というものは身を滅ぼすもの。他のお妃様のお恨みから数々の嫌がらせを受け、その方はご心労のあまりはかなく――。

――と、古い物語ならそう続くのだが。

 なんてことはなく。

主上おかみ、わたくしは地獄に帰ります」

「そ、そんな竜吉りゅうきつ、また、弘徽殿こきでんの女御に意地悪でもされたのか? それとも他の妃達からの呪詛じゅそか?」

 御所は、後宮のはずれにある桐壺でのこと。梅重ねも美しい十二単の唐衣姿の更衣に、帝はとたんに瞳を潤ませ、その膝に顔を伏せて泣いた。その冠の乗った頭を、よしよしと更衣は撫でてやる。

「いいえ、いいえ。別に弘徽殿の女御様の女房達に、昨夜も帝の夜のお召しの際、渡殿わたどのの両方の扉の錠をかけられて立ち往生した、というわけではございませんわ」

「あったではないか……!」

「このわたくしを前にしては、錠などあってないようなもの。いつものごとく軽々と扉を開けて、御寝所に参りましたが」

 それが分かっていて、あちらも懲りないこと──とばかりに、竜吉は口許にかざした檜扇ひおうぎの内側でそっと嘆息をつく。

「呪詛については、毎日どころか、ただいまも蠅のようにまとわりついてきておりまする」

「ヒッ!」

 その言葉に帝が顔をあげると、更衣は檜扇で、ぱしりと見えないそれをたたき落とした。

「ですが、わたくしが帰るのは、弘徽殿の年増ババアの意地悪に我慢が出来なくなったとか、無駄に打ち寄せる五月蠅うるさ呪詛じゅそに耐えられなくなったから、というわけではございません」

 更衣の声音は静かだが、その奥には、長い歳月を見てきた者だけが持つ諦観めいた落ち着きがあった。

 「年増……」と帝はつぶやいた。たしかに帝の一番最初の妃にして年上女房である弘徽殿こきでんは、二十代半ばではあるが、ババアというほどではない。

「で、では何故帰るなどと!」

「わたくしの地上での二十年の“刑期”が終わったからです。元々は、三途の川でうっかり死にかけていたわらべのあなたを助けたのが原因ですが」

 いや、三途の川を渡りかけていたのだから、すでに死んでいたのだが。

 今の帝は生来の病弱で、幼い頃はかなり頻繁に死にかけていた。

 病弱にくわえて、不運でもあるのがこの帝だ。その三途の川が長雨で増水し、そこでまた溺れて二度目の『死にかけ』を味わった。

「わたくしはあのとき、奪衣婆だつえばの小遣い稼ぎのお手伝いをしておりました。溺れるあなたの助けを求める声に……つい、うっかり……手を差し伸べてしまい」

 竜吉は閻魔大王の九百九十七番目の娘だ。数は多いが大王はすべての娘に甘い。甘いゆえに、死者を生き返らせるという掟破りをしても、流罪二十年ですんだのである。

 地獄の尺度でいえば、二十年など瞬きほど。――それでも竜吉には、短くも長い“人の時”だった。

「なんの縁か人の子に生まれたわたくしは、こうしてあなたと出会った訳ですが、これもまた宿業なのでしょう」

 帝はその言葉の意味をすべて理解しているわけではなかったが、更衣の微笑の奥に、別れの気配がゆるやかに差していることを感じていた。

 これを更衣は宿業とため息をつく。三条の大納言だいなごん家の一人娘として産まれた竜吉が、更衣こういとして宮中にあがり、この帝の目に留まったのはまさしく運命の必然であろう。

 即位されて十年あまり、古女房たる弘徽殿こきでんの女御にも出来なかった子が、生まれたのも。

「心残りは、吾子あこのことです」

 更衣は、傍らでまっ白の産着に包まれた御子を見る。すやすや眠るその姿は玉のように美しい。世の中にこれほど美々しい赤子がいるであろうか、とさえ思われるほどだ。

「この子の半分は人間。定命ていみょうを終えるまでは、あちらに連れていくことは出来ません」

「ならば、そなたも刑を終えたからと帰らず、吾子のためにもここに残ってくれ」

「それはなりませぬ。出来ないのです」

「なぜだ?」

「わたくしは明日、死にます。人間の衣を脱ぎ捨て、地獄に引き戻されるのです。父たる閻魔えんまの決めたこと、抗いようもありません」

 更衣の声音は、やはり不思議なくらい穏やかであった。帝だけがその静けさに耐えられず、おいおいと泣いた。

 宣言どおり、更衣は翌日に亡くなった。帝の嘆きは酷かったが、「これで邪魔者はいなくなった」と後宮の妃達は溜飲を下げた。自分達にもまた寵愛が向くだろうと。

 しかし帝は、その後も更衣を忘れることなく、宮中にありながら、まるで半ば出家したように暮らし、その身に女性を近寄らせなかった。

 そして、残された御子は、なんの後ろ盾もないながらも帝の唯一の男子として春宮とうぐうとなる。その美貌は抜きん出て、才は天賦。学も芸も武も、人並みを軽々と越えていた。

 あまりに天からすべての才をあたえられたような寵児ぶりに、更衣の残した御子を良く思わぬ、弘徽殿こきでんの女御と、その兄である左大臣以下の家臣たちは、影でこうささやいた。

──あれは鬼神の子だと。






しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。 しかし、仲が良かったのも今は昔。 レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。 いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。 それでも、フィーは信じていた。 レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。 しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。 そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。 国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

【完結】さよなら私の初恋

山葵
恋愛
私の婚約者が妹に見せる笑顔は私に向けられる事はない。 初恋の貴方が妹を望むなら、私は貴方の幸せを願って身を引きましょう。 さようなら私の初恋。

【完結】愛されないと知った時、私は

yanako
恋愛
私は聞いてしまった。 彼の本心を。 私は小さな、けれど豊かな領地を持つ、男爵家の娘。 父が私の結婚相手を見つけてきた。 隣の領地の次男の彼。 幼馴染というほど親しくは無いけれど、素敵な人だと思っていた。 そう、思っていたのだ。

【完結】そんなに好きなら、そっちへ行けば?

雨雲レーダー
恋愛
侯爵令嬢クラリスは、王太子ユリウスから一方的に婚約破棄を告げられる。 理由は、平民の美少女リナリアに心を奪われたから。 クラリスはただ微笑み、こう返す。 「そんなに好きなら、そっちへ行けば?」 そうして物語は終わる……はずだった。 けれど、ここからすべてが狂い始める。 *完結まで予約投稿済みです。 *1日3回更新(7時・12時・18時)

そんなに義妹が大事なら、番は解消してあげます。さようなら。

雪葉
恋愛
貧しい子爵家の娘であるセルマは、ある日突然王国の使者から「あなたは我が国の竜人の番だ」と宣言され、竜人族の住まう国、ズーグへと連れて行かれることになる。しかし、連れて行かれた先でのセルマの扱いは散々なものだった。番であるはずのウィルフレッドには既に好きな相手がおり、終始冷たい態度を取られるのだ。セルマはそれでも頑張って彼と仲良くなろうとしたが、何もかもを否定されて終わってしまった。 その内、セルマはウィルフレッドとの番解消を考えるようになる。しかし、「竜人族からしか番関係は解消できない」と言われ、また絶望の中に叩き落とされそうになったその時──、セルマの前に、一人の手が差し伸べられるのであった。 *相手を大事にしなければ、そりゃあ見捨てられてもしょうがないよね。っていう当然の話。

【完結】ドレスと一緒にそちらの方も差し上げましょう♪

山葵
恋愛
今日も私の屋敷に来たと思えば、衣装室に籠もって「これは君には幼すぎるね。」「こっちは、君には地味だ。」と私のドレスを物色している婚約者。 「こんなものかな?じゃあこれらは僕が処分しておくから!それじゃあ僕は忙しいから失礼する。」 人の屋敷に来て婚約者の私とお茶を飲む事なくドレスを持ち帰る婚約者ってどうなの!?

『紅茶の香りが消えた午後に』

柴田はつみ
恋愛
穏やかで控えめな公爵令嬢リディアの唯一の楽しみは、幼なじみの公爵アーヴィンと過ごす午後の茶会だった。 けれど、近隣に越してきた伯爵令嬢ミレーユが明るく距離を詰めてくるたび、二人の時間は少しずつ失われていく。 誤解と沈黙、そして抑えた想いの裏で、すれ違う恋の行方は——。

処理中です...