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第一章 望月の変【一】
しおりを挟むいずれのおんときか。
都は、天子さまのおわす花の御所に、きら星のごとく数多くの女御や更衣といわれるお妃様たちが集い、その寵を競い合っておりました。
その中に、とくにご身分が高いわけでもなく、お妃の位においても更衣という一段下がったお身の上でありながら、帝の御寵愛を一身に受けたお方がおられました。
しかし、過ぎた立身というものは身を滅ぼすもの。他のお妃様のお恨みから数々の嫌がらせを受け、その方はご心労のあまりはかなく――。
――と、古い物語ならそう続くのだが。
なんてことはなく。
「主上、わたくしは地獄に帰ります」
「そ、そんな竜吉、また、弘徽殿の女御に意地悪でもされたのか? それとも他の妃達からの呪詛か?」
御所は、後宮のはずれにある桐壺でのこと。梅重ねも美しい十二単の唐衣姿の更衣に、帝はとたんに瞳を潤ませ、その膝に顔を伏せて泣いた。その冠の乗った頭を、よしよしと更衣は撫でてやる。
「いいえ、いいえ。別に弘徽殿の女御様の女房達に、昨夜も帝の夜のお召しの際、渡殿の両方の扉の錠をかけられて立ち往生した、というわけではございませんわ」
「あったではないか……!」
「このわたくしを前にしては、錠などあってないようなもの。いつものごとく軽々と扉を開けて、御寝所に参りましたが」
それが分かっていて、あちらも懲りないこと──とばかりに、竜吉は口許にかざした檜扇の内側でそっと嘆息をつく。
「呪詛については、毎日どころか、ただいまも蠅のようにまとわりついてきておりまする」
「ヒッ!」
その言葉に帝が顔をあげると、更衣は檜扇で、ぱしりと見えないそれをたたき落とした。
「ですが、わたくしが帰るのは、弘徽殿の年増ババアの意地悪に我慢が出来なくなったとか、無駄に打ち寄せる五月蠅い呪詛に耐えられなくなったから、というわけではございません」
更衣の声音は静かだが、その奥には、長い歳月を見てきた者だけが持つ諦観めいた落ち着きがあった。
「年増……」と帝はつぶやいた。たしかに帝の一番最初の妃にして年上女房である弘徽殿は、二十代半ばではあるが、ババアというほどではない。
「で、では何故帰るなどと!」
「わたくしの地上での二十年の“刑期”が終わったからです。元々は、三途の川でうっかり死にかけていた童のあなたを助けたのが原因ですが」
いや、三途の川を渡りかけていたのだから、すでに死んでいたのだが。
今の帝は生来の病弱で、幼い頃はかなり頻繁に死にかけていた。
病弱にくわえて、不運でもあるのがこの帝だ。その三途の川が長雨で増水し、そこでまた溺れて二度目の『死にかけ』を味わった。
「わたくしはあのとき、奪衣婆の小遣い稼ぎのお手伝いをしておりました。溺れるあなたの助けを求める声に……つい、うっかり……手を差し伸べてしまい」
竜吉は閻魔大王の九百九十七番目の娘だ。数は多いが大王はすべての娘に甘い。甘いゆえに、死者を生き返らせるという掟破りをしても、流罪二十年ですんだのである。
地獄の尺度でいえば、二十年など瞬きほど。――それでも竜吉には、短くも長い“人の時”だった。
「なんの縁か人の子に生まれたわたくしは、こうしてあなたと出会った訳ですが、これもまた宿業なのでしょう」
帝はその言葉の意味をすべて理解しているわけではなかったが、更衣の微笑の奥に、別れの気配がゆるやかに差していることを感じていた。
これを更衣は宿業とため息をつく。三条の大納言家の一人娘として産まれた竜吉が、更衣として宮中にあがり、この帝の目に留まったのはまさしく運命の必然であろう。
即位されて十年あまり、古女房たる弘徽殿の女御にも出来なかった子が、生まれたのも。
「心残りは、吾子のことです」
更衣は、傍らでまっ白の産着に包まれた御子を見る。すやすや眠るその姿は玉のように美しい。世の中にこれほど美々しい赤子がいるであろうか、とさえ思われるほどだ。
「この子の半分は人間。定命を終えるまでは、あちらに連れていくことは出来ません」
「ならば、そなたも刑を終えたからと帰らず、吾子のためにもここに残ってくれ」
「それはなりませぬ。出来ないのです」
「なぜだ?」
「わたくしは明日、死にます。人間の衣を脱ぎ捨て、地獄に引き戻されるのです。父たる閻魔の決めたこと、抗いようもありません」
更衣の声音は、やはり不思議なくらい穏やかであった。帝だけがその静けさに耐えられず、おいおいと泣いた。
宣言どおり、更衣は翌日に亡くなった。帝の嘆きは酷かったが、「これで邪魔者はいなくなった」と後宮の妃達は溜飲を下げた。自分達にもまた寵愛が向くだろうと。
しかし帝は、その後も更衣を忘れることなく、宮中にありながら、まるで半ば出家したように暮らし、その身に女性を近寄らせなかった。
そして、残された御子は、なんの後ろ盾もないながらも帝の唯一の男子として春宮となる。その美貌は抜きん出て、才は天賦。学も芸も武も、人並みを軽々と越えていた。
あまりに天からすべての才をあたえられたような寵児ぶりに、更衣の残した御子を良く思わぬ、弘徽殿の女御と、その兄である左大臣以下の家臣たちは、影でこうささやいた。
──あれは鬼神の子だと。
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