彼にはみえない

橘 弥久莉

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episode4 帰れない道

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キィ、と、無機質な音を立ててドアが大きく開かれる。足を踏み入れた

部屋は、やはり、他と同じように老朽化が進んでいたが、色あせた

カーテンや部屋の雰囲気から、男の子の部屋だということが見てとれた。

そうして、部屋の右奥に目をやる。ベッドの上に一人の女性が腰かけている。

濡れた髪が貼り付いていて顔は良く見えないが、あれは春樹君の

お母さんに違いない。つばさは、彼女の側へ行って話しかけようとした。


その時だった。


突然、つばさの左肩にひやりと誰かの手が置かれた。

びくりと心臓が飛び跳ねて、躰を硬くする。大きく見開いた目で、この手の

主を確認するが、残念なことに、嵐も斗哉も、つばさの3歩前に立っていた。


ということは………


つばさは、恐る恐る肩に置かれた手に目をやった。

骨ばってゴツゴツした手は、男性のものだ。しかも、じっとりと濡れている。


ああ、やっぱり………


つばさは、絶望的な気分で、ゆっくり振り返った。

肩に手をのせている主と、目が合う。眼鏡をかけた、痩せ型の男性だ。

生気のない虚ろな瞳は、けれど、何かを訴えるようにつばさの顔を

覗き込んでいる。春樹君の、お父さんだ。そう思った時、男性が、ぐい、

と肩を掴む手に力を込めた。


ひいっっ!!!


言い知れぬ恐怖に、つばさは息を呑む。その気配で、嵐と斗哉が振り返った。

「つばさ!!」

嵐の視線がつばさの背後を捉えて、声を上げる。その声に重なるように、

つばさの耳にあの声が聴こえた。

「こっちだよ。…こっち……つばさちゃん」

春樹君の声だ。春樹君が自分を呼んでいる。

つばさは、はっとして肩を掴んでいる男性を見た。男性が頷く。

頷いて、視線を廊下の向こうの、階段に向けた。

この人はきっと、春樹君が下の階にいることを伝えたかったのだ。

そう直感したつばさは、くるりと踵を返して走り出した。




「つばさっ!?」「待てって!!」

2人の声が同時に背後から聴こえたが、つばさの耳には次第に近くなる

春樹君の声しか届かなかった。

「こっち、こっち……つばさちゃん」

階段を駆け下りて、廊下の奥を見る。あの夏の日に、一緒に遊んだ

春樹君の背中が、手招きをしながら左側のドアに消えた。

つばさは、迷わずその後を追った。不思議と恐ろしさはなかった。

春樹君の姿が、あの頃のままだったからだろうか?

春樹君が消えた部屋は浴室で、踏み込んだ瞬間、むっと、

まとわりつくような湿気を感じた。つばさは、バスルームの扉を開けた。

そこに春樹君の姿はなく、目の前の浴槽には、なぜか萌葱色もえぎいろ

水が張られている。濁っていて、中は見えない。

「春樹君!!どこにいるのっ!?」

つばさは、浴室を見渡して声をあげた。その時、浴槽の水面がゆらりと

揺れた。浴槽に近づく。そうして水面を覗き込もうとした瞬間、

ザバッっと2本の手が伸びてきて、つばさの躰を浴槽の中に

引きずり込んだ。

「きゃっ!!」

バランスを崩して浴槽に落ちたつばさは、ありえない深さに足をバタつかせた。

どうしてだろう?浴槽がこんなに深いわけがない。

しかも、自分の足を、何かが強く引っ張っている。これじゃ泳げない。

(溺れる!!)

助けを求めてつばさは手を伸ばした。

ガシと、その手を誰かが掴んだ。嵐だ。けれど、物凄い力でつばさは

引っ張り込まれてしまう。

「!!!!!」

ザバッ、と大きな水しぶきをあげて、嵐も浴槽に落ちた。

2人は、底のない浴槽に引きずり込まれていった。
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