「みえない僕と、きこえない君と」

橘 弥久莉

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第三章:雨の中で

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 アパートから彼女の家までは、歩いて20分
程だった。自転車通勤をやめてから数カ月経つ
が、あのころは、まさか、彼女を迎えに行く
ためにこの道を歩くことになるとは、思っても
みなかった。

 両手をパーカーのポケットに突っ込み、早足
で歩く。どきどきと胸を打つ鼓動はいつもより
速く、あと数十分もすれば彼女に会えると思う
だけで、さらに速さを増してしまう。
 早く会いたい。
 その想いのまま、僕は彼女の家を目指した。



 約束の時間よりも15分以上早く着いてし
まったが、家の前に立ち、彼女の部屋らしい
出窓を見上げると、すぐに窓の向こうから
彼女が顔を出した。

 (お、は、よ、う)

 唇の形だけで言葉を伝える。にこりと笑っ
て、彼女が手を振る。
 まるで、ロミオとジュリエットのように、
密やかに、窓越しにやり取りをすると、
まもなく、彼女は僕のところへとやって来た。

 (おはよう)

 薄紅色のシフォンのスカートを風に靡かせ
ながら、彼女が手話で言う。いつもより、
少し雰囲気が違って見えるのは、スカートと
同じ色のアイシャドウが薄く瞼に塗られて
いるからか。
 普段、彼女はあまり化粧を施さない方なの
で、ちょっと新鮮だった。

 (行こうか)

 右手の人差し指で、進む方向を指し示すと、
彼女はにこりと頷いて僕の隣を歩き始めた。





 「のどかだなぁ……」

 入り口近くの陸上競技場を抜け、園内の中
ほどまで進むと、すでに、芝生広場は休日を
楽しむ人たちでいっぱいだった。

 真っ青な空の下を駆け回る子供たち。
 バドミントンを楽しむ恋人たち。
 そして、ぐるりと芝生を囲む歩道をジョギ
ングする人たち。

 それぞれが、思い思いに休日を満喫してい
る。
 僕は足を止め、新鮮な空気を吸い込んだ。
 緑に囲まれているだけあって、空気が
美味しい。朝食を抜いて来たお腹が、くぅ、
と小さく鳴った。
 不意に、つんつん、と、彼女が僕の腕を
突いた。その合図に彼女を向くと、遠くを
指差している。サングラス越しに目を凝らし
てみれば、芝生広場の向こうに、黄色の移動
販売車が見えた。どうやら、あそこでコッペ
パンが売っているらしい。
 僕は指文字で言った。

 (お腹空いたね。買いに行こうか)

 その言葉に、彼女は嬉しそうに頷く。
 ここに来るまでも、僕たちは「携帯」や
「指文字」、時には「口話」を使って言葉の
やり取りをしていた。あまり余所見をしている
と危ないから、長い会話は出来なかったけれど……
 ベンチに座ればもっとゆっくり話せる筈だ。
 薄く敷いてある砂利を踏みしめながら、
僕たちは移動販売車へ向かった。
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