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第三章:開かずの間

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「そうか。地上に降りる日が決まったか」

 呟くように言うと、四角い水盤に張られた
水がゆらりと揺れ、白く光る水面みなもに映る女性
が微笑を浮かべた。

 「しばらくは、こうして会うことも叶わな
くなるのじゃな。ずっと待ち焦がれていたと
いうのに寂しく思うのは、あまりにぬしの不在
が長すぎたからかの」

 切なげに言うとまた水面が揺れ、響くよう
な澄んだ声が返って来る。


――もう少しの辛抱です。時が満つるのを待
っていてくださいまし。わたくしは必ず右京
さまの元へ参りますゆえ。


 水面に映る女性を見つめ、右京がその笑み
を撫でるように手をかざす。くっ、と痺れる
ような痛みが胸に走り、喉に迫り上がって来
る何かを飲み込んだ。

 「愛しておるぞ、……ね」

 深い深い想いを込めて言うと、女性の目に
きらりと涙が光った。




◇◇◇




――ピンポーン♪


 「はーい」

 軽やかな音が家の中に響いて、廊下のモッ
プ掛けをしていた古都里は手を止める。パタ
パタとモップを手にしたままで玄関へゆくと、
格子戸を開け「いらっしゃい、小見山こみやまさん」
と、目の前に立つ老齢の女性に笑いかけた。

 「こんにちは、古都里ちゃん。ちょっと
早めに着いちゃったんだけど、いいかしら?」

 ゆったりとした所作で家に上がり、靴を揃
えて腰を伸ばしたお弟子さんに「もちろん」
と、頷く。朝一番から来ている二人のお弟子
さんはまだお稽古の最中で、耳を澄ませば優
雅な箏の音色が一階の廊下まで聴こえてくる。

 「温かいお茶をお持ちしますので、応接の
間で待っててもらえますか?肌寒ければケー
プもお持ちしますけど」

 労るようにお弟子さんの背に手をあてて顔
を覗き込むと、彼女は眼鏡の奥の目をやんわ
りと細めた。

 「そうね。じゃあお願いしようかしら?」

 そう言って階段を上り始めた、少し丸まっ
た背中を古都里は見守る。御年八十六歳にな
る彼女は、天狐の森の最年長のお弟子さんで、
けれど週に二回、午前のお稽古に休まず通っ
ている。無事に二階まで上がれるだろうかと
下から背中を見上げていた古都里は、階段の
途中で立ち止まってしまった彼女に気付き、
駆け寄った。

 「大丈夫ですか?小見山さん。どこか痛む
んですか?」

 はぁ、と浅い息を繰り返しながら胸に手を
あてている彼女の背中を擦る。心なしか顔色
が優れない気がするが……それを口にしてい
いものかどうか迷ってしまう。すると、彼女
は目尻の皺を深めながら緩く首を振った。

 「ごめんなさい、大丈夫よ。最近、階段を
上ると息が切れて苦しくなってしまうの。年
のせいかしらねぇ?」

 ふぅ、と大きく息を吐いて笑ってくれたの
で、古都里は安堵する。彼女の背を支えなが
ら階段を上りきると、ふと、胸にあてていた
左手の薬指に目を留めた。
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