紅蓮の獣

仁蕾

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紫雲の章

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 ―コンコン
 ククルカンが孤島に育つ木の上で惰眠を貪っていると、この室内に存在しない扉をノックする音が響いた。
 この部屋の扉を叩くのは、世に二人しか存在しない。
 ―パチン
 指を鳴らせば、予想通りの人物達が木の下に姿を現した。
「相も変わらず、守護神らしからぬ怠惰な姿よの」
「ホントだよ」
 呆れた眼差しでククルカンを見上げるのは、賢帝アザゼル・グラスティア・シュヴァイツ。そしてその隣には、先日、『紅蓮の花嫁』として変化を遂げた桂木弥兎。
《五月蝿い。俺が俺の部屋でどう過ごそう勝手だろうが》
 あふり、と欠伸をしながら最もな意見を告げる。しかし、二人は意に介する事無く、ククルカンに降りて来るよう声を掛ける。
「やれやれ…」と溜息を付きながらも、ククルカンは高い枝の上からフワリと降り立った。
《それで?何の用だ?明日は婚礼の儀だから忙しいだろう?》
 ククルカンが面倒臭そうに言えば、二人は視線を合わせ、小さく頷き合うとその場に片膝を付き、ククルカンに対して頭を垂れた。
 彼が驚いたのは言うまでも無い。
《な、何だ、お前等らしくもない。気持ち悪い!早く立て!》
 酷い言い様である。
 しかし、ククルカンがそう叫ぶのも無理は無い。この二人は、普段から彼の事を恭しく扱う事など一度たりとて無く。
 ある時は友人、ある時は玩具、ある時は相談相手と、確実に守護神に対する接し方などした事が無い。
 それなのに、何故。
「らしくなくて構わぬ」
 アザゼルが微笑みを見せる。
「あんたには、かなり世話になった」
 弥兎も破願して見せた。
「俺の世界では、結婚の時は互いの親に挨拶するもんなんだけど、アゼルさんの親も、俺の親もいないから…親代わりだったあんたに一言伝えとこうと思って…」
《今更…》
「今更だからこそ、だろう?」
 アザゼルの言葉に、ククルカンは頬を掻き、長息を漏らした。
《仕方が無いな》
 ククルカンの了承の言葉に、弥兎は「有難う」と頭を下げると、纏う空気を穏かなものから張り詰めたものへと変えた。
「俺はあっちの世界で養父母から、兄弟から沢山の愛情を貰って、でも、その愛情を返す前に、孝行する前にこの世界に飛ばされて…きっと悲しませたし、深く傷つけたと思う。勿論、自分のせいじゃないし、ククルカンのせいでも、アゼルさんのせいでもない。まあ、しいて言えば…『カラス』達のせいかな?」
 笑って見せるが、その目には僅かな悲しみを滲ませていた。
「だから、幸せになる事は無いだろうと思ってた。愛してくれていた人達を悲しませたんだから、仕方がないって。…でも、この世界に来て、沢山の人達と出会えて、あんたにも出会えて…アゼルさんと出会った」
 悲しみを受け入れ、包み込んだ穏やかな笑み。それは見る者全てを魅了し、癒してくれる微笑みだ。
「幸せになるのが恐かった。家族を傷つけて、幸せになるとか…おこがましいとさえ思ってた。でも、全てを含めてあんたもアゼルさんも俺を受け入れてくれた。…あんたがアゼルさんを育ててくれたから…あんたが俺を受け入れてくれたから、俺はアゼルさんの傍に居れる」
 深い感謝の意が込められた言葉の一つ一つが、ククルカンの胸に響く。不覚にも泣いてしまいそうだ。
「守護神ククルカン…我らにあなたの祝福を頂けぬか?」
 アザゼルの言葉に、ククルカンは照れ臭さを滲ませ後頭部を激しく掻く。
 一度深く息を吐き出すと、意を決したかのように腰を屈め、二人の頬に柔らかな口付けを施した。
《精霊王と美しき龍王に、世界の祝福があらん事を…》
 そう言ってククルカンは、今までにない程の穏やかな笑みを浮かべた。


 あの時はあの時で泣きそうになったが、今も今で若干目頭が熱い。
《…あちらに、未練は無いのか?》
 ククルカンが龍馬に問えば、彼は「ない」と即答した。
「帰っても、望さんも康平さんも…こっちで知り合った人は誰も居ない。…俺が好きになった人も」
 ちらりと視線が隣のヒガディアルに流れる。それに気付いたヒガディアルは、ふんわりと優しく微笑んだ。
 この二人、どうやら、アザゼル達よりも高濃度の甘い関係になりそうだ。
《全く…人様の部屋でイチャつくなと言っただろうが》
 悪態をつきながらも、その表情は穏やかだ。そっと身を屈め、二人の額に口付けを贈る。
《精霊王と穢れなき龍王の世界に幸多き事を願う…》
 いつかと同じ祝福を施し、そろりと二人の頬を撫でれば、唇が触れた額に赤い蓮が浮き上がり、す…と消えていった。
「なんだろ、超恥ずかしい」
 けらけらと笑って誤魔化す龍馬に、ククルカンも同意して笑う。
 和やかな空気に戻った頃、三人は様々な話で盛り上がった。特に龍馬が耳を傾けたのは、ヒガディアルの幼少の頃の話だったとか…―。

   ***

 真白はふわりふわりと尾を揺らしながら、長い廊下を優雅に歩いていた。純白の毛並みが太陽の光を浴びて光沢を帯びる。
 ふと耳に届いた口論に歩みを止め、そちらに顔を向けた。そこには、主人のともがら輩である女性とその背中を追いかける男の姿。纏う軍服で男が近衛隊の兵士だとわかる。
「あのね、そろそろ、いい加減にしてくれないかしら?」
「いや、でも、女の子一人じゃ危ないよ?」
 不機嫌なソニアの声。それに若干焦った男の声が続く。
 真白はその場に座り込み、事の成り行きを見守った。
 ソニアの目は完全に据わっている。腕を組んだまま歩みを止め、背後をついて回る男を睨み付けた。
「だから、危なくないって言ってるじゃない!こくれい黒驪の厩に行くだけでしょ!?」
 黒驪。希少種の空翔ける美しい黒馬である。
 トラスティルの愛馬であるロンとラン。そして、トラスティルの弟で、近衛隊の副隊長に就くイシュバイル・ティーン・アイル・シュウの愛馬、リズ。
 現在、火神族が有する三頭の黒驪。種の性質としてその気性は荒く、主人以外が近付こうものなら死すら感じる事となる。 女々しくも追い縋る男に対し、ソニアは深い溜息を吐き出した。
「あのね、お兄さん。黒驪は自分より弱い奴にしか攻撃しないの。あんたとあたしの実力、一緒にしないでくださる?」
 ソニアの言葉は鋭利な刃物そのものだ。だが、それもまた事実。近衛隊の兵士と言っても、見る限り男は下級兵士。二等兵ほどだろうか。
 結局のところ、男は「女だから…」と甘い考えで言い寄り、あわよくばと言う考えだったのだろうが、片や二等兵、もう片方は無神族帝王直属近衛隊の四天王。
 立場も違えば、実力も違う。そもそもの土俵が違う。女傑と名高いソニアの事を知らないという事は、入隊して間もないのだろう。
「そんな事言わずにさ、一緒行こうよ」
「しつこいって言ってるの。女の尻を追っ掛けている暇があるなら、さっさと仕事にお戻り」
 紫紺の瞳が、眼光鋭く男を睨みつける。
 流石に、我慢の限界だったのか。男の腕が震えた。
「下手に出てりゃ調子乗りやがって…この…っ!」
 叫び、拳を振り上げる。
 その時。
 ―ガンッ!
「みゃっ!」
 男の体が軽々と吹き飛ぶ。流石の真白も予想外の事に驚き、情けなくも声を上げてしまった。蹴り飛ばしたソニア自身も驚いているらしく、足を上げた姿勢のまま硬直し、何度も瞬きを繰り返している。いくらソニアでも、一度の蹴りでは成人男性を数mも吹き飛ばす事は難しい。
 ちっと聞こえた舌打ちに、ソニアが足を下ろしてゆるりと視線を巡らせれば、いつの間にか隣に見知らぬ青年が佇んでいる。その視界に入れるまで、気配も音も感じなかった。
「あなた…誰…?」
 眉間に皺を寄せたソニアが青年に問えば、青年は花が綻ぶように微笑んだ。先程舌打ちをした青年とは思えない程に柔らかな笑みだ。
「お怪我は御座いませんか?」
 物腰柔らかな話し方は、紳士的で穏和な青年という印象を植え付け、その人相は人を殴ったのは見間違えかとも疑問を持ってしまうほどおっとりとしている。
「怪我はないけど…誰」
 同じ質問をすれば、青年は恭しく頭を下げた。
「私は、リンサル。リンサル・グランジュールと申します。リンとお呼び下さい」
「…ソニア・リーチェよ」
 ソニアも礼儀として名乗ると、青年―リンサルは嬉しそうに微笑みながら「存じ上げております」と小さく頷いた。
 ひと段落した空気を感じ取り、真白は立ち上がってソニアとリンサルの元へ足を進めた。気が付いたソニアが猫特有のしなやかな体を抱き上げれば、真白の双眸は見定めるようにリンサルへと向けられた。対するリンサルはゆったりとした笑みを崩さない。
 真白は何かの確信を得たのか、ソニアを見上げてひとつ鳴く。この男は安全だ、関わっても問題ない、と。
 ソニアは礼を述べる代わりに、真白の喉元を擽った。 
「さっきはありがとう、リン。助かったわ」
 紫紺の双眸を細めたソニアが軽く頭を下げれば、リンサルは「いえいえ」と微笑んだ。
「私が手を出すまでもなかったみたいですが…女性があまり無理をなされては…」
 暗に女性なのだから大人しくすべきではないかと告げれば、ソニアはそれを正確に汲み取り不敵に微笑んだ。
「まあ、確かにあなたの言う通りだわ。でもね、女だって大人しく守ってもらうだけじゃないの。特に孤児であるあたしは戦う術を身に付けなければ、生きて行く事が出来なかったもの」
 強い意志と諦念が混在した光がちらりと垣間見え、そうだとリンサルが認識する寸前にソニアはついと視線を逸らすと、真白を抱き上げたまま歩き出した。
「そう言えば、お時間あるかしら?」
 憂いの表情は綺麗に消え去り、ソニアはリンサルを振り返る。
「ええ、今のところ」
「そう、じゃあ、一緒に来る?黒驪の厩だけれど」
「おや、宜しいので?」
「ふふ、あなたなら蹴飛ばされる心配がなさそうだもの」
 リンサルは小さく微笑むと、ソニアの細い背中を追った。
「女もね…」
 ソニアはまっすぐに正面を見据えながら、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「女もね、守られるだけじゃないの。守りたいものがあれば、男よりも強くなる。それに、あたしは自分の実力を把握してる」
 力強かった声が、少しだけ強張った。
 リンサルにその表情は見えないが、その悔しそうな声音でどんな感情を浮かべているか何と無く察する事は可能だった。
「兄さんや望、康平を見ていると、勇ましいと言われようとも所詮それは女の中での話。…あの三人の足元にも及ばない…」
 普段はふざけている兄も。
 本気のような冗談で人を弄ぶ望も。
 雲を掴むような、飄々とした康平も。
 いざとなった時、その真価が発揮される。鋭い眼光、気迫、動き。どれをとっても遠い存在。
 ソニアは、まだ手の届かない遠い存在に。何度と無く歯噛みした。
「…あなたは素敵な方ですね」
 優しさに満ちたリンサルの声に、ソニアは振り返って微笑みを返した。
「そう言うあなたは、変な人だわ」
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