紅蓮の獣

仁蕾

文字の大きさ
上 下
77 / 84
紫雲の章

21

しおりを挟む


 望はドンちゃん騒ぎの中、一人で杯を傾けていた。その隣に、料理が取り分けられた皿を手にしたアイリーンが腰を下ろす。
「あいよ、ノン様の好きなラディアの焼き菓子だよ」
「ん、ありがと」
 ラディアとは洋梨に似た果物だ。望はアイリーンから皿を受け取り、胡坐を掻いた足の上に乗せて深く息を吐き出した。
 どこか遠くを見る望の眼差しに、アイリーンは不思議に思いながら、ラディア酒で喉を潤す。
「どうかした?」
「んー?んー、主役が見当たらない」
「…あー、そう言えば…」
 見渡しても、深紅の髪と漆黒の髪が見当たらない。それに、何やら契約竜のクプレオが落ち着か無い様子。アイリーンも無意識なのか、そわそわと落ち着きが無い。先程から、項辺りを何度も何度も擦っている。
「痒いの?」
「ん?あ、いや、何かゾワゾワするんだよ」
 眉間に皺を寄せ、首を捻っている。
「もっそい、ヤな予感…」
 その声が僅かに揺らめいたのに気付き、望は訝しげに眉を寄せてアイリーンの顔を覗き込んだ。喉の奥がひくりと震える。
 アイリーンの紫紺の瞳の瞳孔が、縦に割れている。
 瞬時に感じた。此処では危険だと。
 少しずつ動きが鈍くなって行くアイリーンに肩を貸し、誰も居ないテラスへと足を向けた。
「榮烙」
 呼べば、アルビノの雌獅子が現れる。
「康平より重いけど、大丈夫?」
《お任せを》
 頷いた獅子の背にアイリーンと共に乗り、行き先を伝えた。
「稽古場に」
《御意》

   ***

 稽古場の中央で、アイリーンは胡坐を掻いて座り込み、顔を覆い隠していた。
 望はアイリーンの周囲に結界をり、その正面に腰を下ろした。
「大丈夫?」
 俯くアイリーンの顔を覗き込み、望が紫紺の髪を撫でながら問えば、「あー」だの「うー」だのと呻いている。その顔色は頗る悪い。
「血だ…」
「血…?」
 望が問い返せば、アイリーンは小さく頷き返す。
「竜の…血…っぐ…!」
 突如胸を押さえたかと思えば、体を丸めて激しく咳き込み、地面に血を吐き出した。
 望は、この光景を昔見た事がある。かつて愛した人、アディスも似たような状況に陥った事があった。しかし、彼女のときよりも症状が酷いように見えるのは、それだけアイリーンの中の竜の血が濃いという事だろう。
 アイリーンは荒い呼吸の中、心臓が、全身が脈打つのを感じていた。
「龍王、の…せいか、な…っ」
 乾いた笑いを漏らしながら、アイリーンは血を吐く。
 ―みし…
 骨の軋む音に望は弾かれたように顔を上げた。アイリーンの肩甲骨が、不自然に盛り上がっている。
 唖然と眺めている間も、骨はミシミシと嫌な音を立て、膨らみは衣服を引き裂いた。血を纏いながら現れたそれは、竜の翼に酷似している。
 ―バサッ!
 羽音と共に、鮮血が舞い、望の肌を汚す。
「にげ、ロ…―」
 アイリーンが呻きながら吐き出した言葉は、望を正気に戻すには僅かに力が足りない。
「龍王の、近くニ、長く居過ぎタかナ…」
「アイリーン…!」
 望の顔が、今にも泣き出してしまいそうに歪む。対して、アイリーンの表情はいつもと変わる事が無い。気を失いそうな程、辛いはずなのに。
「大丈夫ダ…抑え込ム。お前ニは、二度モ、辛い思い、は、させ無イ…っ」
 話しながらも、アイリーンの肌にはぞろりぞろりと蒼い鱗が姿を現し始め、爪も鋭利に尖り始める。竜の姿になりつつあるのだ。
 望の体は竦んで動かない。
「望っ!」
 アイリーンに叫ばれ、体が跳ねた。紫紺の目が行けと促す。
 望は躊躇った。だが、自分ではどうしようも出来ないと解っているから、急いで稽古場から駆け出した。
 アイリーンは望の背を見送ると、声の限りに叫んだ。
 全身を貫く激痛。
「ぐあぁあぁああっぁ!」
 ―メキ…ミシミシ…ゴキンッ…
 体が、細胞が、作り変えられて行く。
 意識が朦朧とし始めるが、手放す訳には行かない。気絶すれば、戻れなくなる事が解っているから。
 今は只、激痛を耐え抜くのみ。

 望は稽古場の外壁に沿うように、二重三重の結界を張り巡らした。きちんと発動している事を確認し、駆ける。
 龍馬に報告をと思ったが、ソニアの事が気になった。彼女も竜の血を少なからず引き継いでいるからだ。
 夕刻に急激に高まった龍王の気は、思わぬ影響を及ぼした。
 予想していなかった。生粋の竜だけでなく、血を受け継ぐ者にまで影響を及ぼすなど。
 それ程強い力が放出されたのだ。
 契約竜が先程よりは落ち着いた事に、安堵の息を漏らしていると、正面からソニアが駆けて来た。
「望!兄さんは!?」
「稽古場に封じ込めた」
「…ああ…そんな…」
 ―暴走が…
 ソニアは、と下唇を噛む。
「君は大丈夫?」
「…ええ、あたしは平気」
 気丈に振舞っては居るが、その目には僅かに涙が浮かんでいる。
 大丈夫と言うかのように、紫紺の髪を優しく撫でた。
「アイリーンもだけど、龍馬も危ないかも知れない…」
「そうね…いくらあの子でも、契約竜があれだけの力を得たんだもの…。何かしらの作用がある筈…」
 二人は頷き合い、駆け出す。目指した場所は『ニンフェーア』。
 駆けている最中に、トラスティルと各帝王の名代で挨拶に来ていたジークとティアナに遭遇した。
「おう、そんな血相かいてどうした?」
 トラスティルが、杯を持ち上げながら笑い掛けるが、望達に笑う余裕など無い。
「…どうかしたのか?」
 ジークの問いに、望は一瞬だけ躊躇った。だが、自分達の手に余る事案だと諦め、僅かでも知恵が借りられればと事の詳細を話し出す。
「それで、狂ったの?」
 ティアナの表情が険しく歪む。望は首を横に振った。
「まだ大丈夫」
「場所は?」
「…言えばあなた達は、アイリーンを手に掛ける」
 それは確信だった。
 以前見た文献に書いてあった。
『暴走した竜は、世界を滅ぼす災厄である』
 それを阻止しようと、トラスティル達がアイリーンを手に掛けるだろう事など容易に想像出来た。そして、彼らはそれを実行する程の冷酷さを持っている。
 トラスティル達は、望の言葉を否定しない。それが、自分達の務めだからだ。
 沈黙が続く。
「…稽古場よ」
 沈黙を破ったのは、ソニアだった。
「ソニア…っ」
「望が結界を外側に張ったそうよ。兄さんの周りにも張ったみたいだけど…とうに壊されているでしょうね」
 淡々とした口調だった。寒気を誘う程に冷たい声音と、トラスティル達を射竦める冷淡な視線。
 今まで見た事の無いソニアに、誰も言葉を発せ無い。
「もし、兄さんに切っ先のひとつでも向けてみなさい」
 紫紺の瞳が、眇められる。
「あんた達を、食い殺してやるわ」
 冗談には聞こえなかった。寧ろ、今すぐにでも噛み殺されそうだ。
 それにおどけて見せたのは、ジークだった。
「安心しな。ダチに刃は向けねーよ」
「…そう、なら良いわ」
 ソニアはジークの言葉に満足そうに微笑むと、望を促し、再び駆け出した。
 三人はその背中が見えなくなるまで、動く事が出来なかった。
「…ふへ、久々に膝が笑ったぜ…」
 ジークが笑えば、トラスティルも同意する。
「アレも、竜の血の影響か?」
「何にせよ、命懸けなのに変わりはなさそうね」
 三人は、稽古場へと足を向けた。
 アイリーンを抹殺する為ではなく、結界の強化の為に。
 暴走した竜は、それ程に危険なのだ。

   ***

 龍馬は、ヒガディアルの腕の中でまどろんでいた。
 初めて肌を合わせた倦怠感と人肌の温もりが、意識を朦朧とさせる。
 ―…ォ…
 ぴくりと体が反応を示す。
 ヒガディアルも何かを感じたのか、そっと身を起こした。
 ―…ォオ…オォオオ…
「風…?」
「いや…違う…」
 龍馬はだるい体を引き起こし、呟いた。
 上掛けを羽織り、窓へと歩み寄ったヒガディアルが、その言葉を否定する。
 城下を見下ろすが、何の変化も無くお祭り状態。
「咆哮…?」
 呟き、確かに自分の竜の声と似ている事に気が付く。
 風に紛れて、何かの気配が揺らめいている。
 その時、扉の前にフェニーチェが姿を現した。
《失礼致します》
「フェニーチェさん、この気配、アイリーンだよね」
《血の暴走が始まりました》
 伏目がちに冷静を保ってはいるが、焦りの色が滲んでいる。フェニーチェの言葉に、龍馬は動揺した。
「何で…?」
《レジーナの龍王の力の影響で御座います。龍王の力の急成長に、アイリーン様が耐えられなかったのでしょう》
「咲夜姫は」
《先に向かわせました》
 フェニーチェの判断にヒガディアルは頷くと、青褪める龍馬の頬に手を添えた。カタカタと小刻みに震えている。
「ドゥーラ…あの子なら大丈夫だ」
 言い聞かせるように語り掛ければ、小刻みに何度も頷いた。
 ヒガディアルは龍馬を落ち着かせるようにその小さな頭を撫でる。不意に炎が二人の体を包み込み、消えた時には衣服を纏っていた。
 ふと、望とソニアの気配を近くに察知し、龍馬が扉を開けば、廊下を駆けて来る望とソニアが目に入った。
「望さん!」
「龍馬!」
 語る事なく、龍馬、望、ソニアの三人は小さく頷き合い、言葉を交わす事無く走り出す。
 ヒガディアルは、三人の背中を見送り、その身を炎に変えてその場から消え去った。

   ***

 ミシリ、ミシリと体が悲鳴を上げ続け、己が視点は既に人のそれを凌駕している。五感の全てが、そして第六感までもが研ぎ澄まされていく。
 吐き出す言葉も、人のものに非ず。
(竜の感覚ってなー…恐ろしいねー…)
 やけに冷めた思考があった。
 いつの間にか、体の変換は終えていて、狂いそうな激痛は何処かに消え失せていた。
 ―グルルルルルル…
 やけに喉が渇く。
(欲しい…―)
 繋ぎ止めていた思考が狂っていくのが解る。
 ―血ガ…欲しイ…
 脳裏を過ったのは、最愛の人。
 ―バンッ!
「アイリーン!」
 最後に見たのは、青ざめた恋人だった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

他人目線

青春 / 連載中 24h.ポイント:2,726pt お気に入り:2

寺生まれなので異世界に召喚されて悪霊退治やらされてます。

BL / 完結 24h.ポイント:532pt お気に入り:310

ナツキ

BL / 連載中 24h.ポイント:809pt お気に入り:3

別人メイクですれ違い~食堂の白井さんとこじらせ御曹司~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:1,645

異世界で推しに会ったので全力で守ると決めました。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:411pt お気に入り:147

美男子が恋をした【R18】

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:14pt お気に入り:530

アイドルの恋愛模様

BL / 連載中 24h.ポイント:404pt お気に入り:278

処理中です...