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時計屋の兎(ラビット)

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「マルク子爵にお渡しすることになったんですか」

 二日後、ラビットの時計屋にやってきたドルバー教授は、ナターリアの時計を、彼女の父である子爵が欲していると伝えに来た。娘の形見として持っておきたいそうだ。
 時計はヴィラーゼル伯爵家に持って帰ってしまったので、明日にでも店に持ってくると伝えると、ドルバー教授はまた取りに来ると言った。
 ラビットは夕方ヴィラーゼル伯爵家に帰ると、次の日に店に持っていくのを忘れないように、ベッドサイドの棚の上に時計をおいた。
 そして、その日の夜――


 ――すまない、ナターリア。別れてくれないか。

 彼はラビットを「ナターリア」と呼び、馬車の中で静かに告げた。その表情にいつもの優しさはなく、ひどく冷淡で、有無を言わさないような口調だった。
 ラビットは驚き、かすれる声で「どうして」と訊ねたが、理由は教えてくれなかった。
 まるで、手切れ金のように、膝の上に金貨の入った袋がおかれる。
 話は終わりだとばかりに黙り込んでしまった彼に、ラビットは茫然とした。
 ああ――、彼はもう自分を愛していないのだ。いや、もしかしたら、最初から愛していなかったのかもしれない。なぜなら彼は、まるでラビットの存在を恥ずかしがるように、二人の交際を公表しようとはしなかったからだ。それどころか――
 ラビットはきゅっと唇をかむ。膝に乗せられた金貨の袋が嫌に重い。
 この馬車の扉を開けた瞬間に、蓋輪関係は終わるだろう。彼にとって、こんな金貨の袋一つで終わらせられる関係。ラビットは最後に訊いてみた。

 ――ねえ、あなたにとってわたしは、何だったの?

 彼は笑った。それは、ひどく冷淡で酷薄な笑みだった。


 ラビットははっと目を覚ました。
 全身ぐっしょりと汗をかいている。ひどく心臓がうるさくて、頬に濡れた感触がしたから触れて見ると、どうやら泣いていたらしかった。
 ラビットは棚の上においていたナターリアの時計を掴むと、ベッドから降りた。妙に人恋しかった。ウィルバードに会いたい。
 部屋の中が暗いところを見ると、日が昇るまでまだありそうだった。ウィルバードはまだ眠っているだろう。ラビットは迷ったが、時計を握りしめたまま部屋を飛び出した。
 廊下をぱたぱたと歩いて主寝室にたどり着くと、そっと扉を押してみる。鍵はかかっていなかった。
 ベッドに近づくと、ウィルバードが小さく身じろぎする。足音で起きたのか、うっすらと目を開けて、ラビットを見つけて瞠目した。

「ラビット、眠れないの?」

 ラビットは一つ頷いてからうつむいた。思わず来てしまったけれど、少しずつ冷静さを取り戻してくると、朝早くにたたき起こされて、ウィルバードは迷惑だったに違いない。
 しょんぼりしていると、上体を起こしたウィルバードがぽんぽんとベッドを叩いた。
 ラビットがベッドの縁に腰かけると、ウィルバードが腕をのばして、彼女を膝の上に抱き上げる。

「眠れないと言ってラビットが部屋に来るのは久しぶりだね」

 ウィルバードはどこか嬉しそうだ。
 子供のころは寝つきが悪くて、よくウィルバードの部屋を訪れていた。彼のそばにいると安心して眠れるからである。

「変な夢を見たの」
「また? まさかまた知らない男にキスされそうになる夢?」
「ううん、そうじゃなくて……」

 ラビットはウィルバードの膝の上で考える。あれがナターリアの時計の見せた夢なら何かが引っかかる。
 宝石商の店主の話によれば、ナターリアは婚約だか結婚だかをするという話だった。けれども彼女は三か月前に死んでしまって、時計はポールマー伯爵と思しき男の夢を見せる。

(三か月前……、確かレマニエル侯爵令嬢も三か月前に婚約破棄してた。相手はポールマー伯爵……)

 これは果たして偶然だろうか。ナターリアはどうして死んだのだろう。ナターリアがポールマー伯爵と恋人だったのはいつ? 宝石商の店主の話だと、死ぬ直前まで彼女には結婚を約束するような恋人がいたような雰囲気だった。考えたくないが、それがもし――、もしもポールマー伯爵だったら?

「……ロード、マルク子爵令嬢がどうして亡くなったのか、知ってる?」

 ラビットが見上げると、ウィルバードは戸惑ったように視線を逸らす。ぽりぽりと頬をかいて、観念したように息をつくと、短く「自殺という話だよ」と言った。

「自殺?」
「そう警察は言っているみたいだね。子爵がすぐに口止めに動いて、新聞には載らなかったからラビットは知らなくて当然だ。遺体はバルト川から上がってね、テムール橋からバルト川に飛び込んで自殺したのではないかという警察の見立てだよ。目立った外傷もないようだったからね」
「そう……」

 ナターリアが本当に自殺ならば、自殺の原因はなんだろう。時計が見せた夢は、それに関係しているのだろうか。

「ラビット?」

 ラビットが考え込んでいると、ウィルバードが顔を覗き込んでくる。

「何か気になることがありそうだね?」
「うん……」

 ラビットはナターリアの銀色の時計をウィルバードに見せた。彼はその小さな懐中時計を手に取って「これは例のマルク子爵令嬢の?」と訊ねる。

「うん。この時計、何か伝えたいことがあるみたいなの」

 時計に口があるわけじゃない。言いたいことはイメージとしてしか伝えられない。だからこの時計はあの夢を見せるのではないかと、ラビットは推測する。
 ラビットが先日と、先ほど見た夢について説明すると、ウィルバードは表情を険しくした。

「それは本当に、ポールマー伯爵だった?」
「たぶん。顔がちょっとぼんやりしてたけど、この前仕立て屋さんにいた人だったと思うよ」
「なるほど」

 ウィルバードは思案顔になると、時計の蓋を開いたり閉じたりしながら、

「もしそれが本当だとすると、こんなに妙なことはないね。だって、アザリーとマルク子爵令嬢は友人同士だったのだんだからね」

 ということは、友人どうして一人の男性を取り合っていたということだろうか? それとも――

「マルク子爵令嬢はよく知らないが、アザリーは友人の恋人を奪うようなタイプじゃないよ。そもそもポールマー伯爵と婚約したときも少し不思議だったんだが……」
「どうして?」
「アザリーのタイプとは真逆の男性だからだよ。アザリーは筋肉質な、それこそ軍人のような外見の男が好きでね」

 なるほど。そうであれば確かに真逆だ。ポールマー伯爵は細身の優男風の男性である。とてもではないが軍人には見えない。

「これはアザリーに話を聞いたほうがよさそうだ」
「ロード」

 ラビットは嫌な予感を覚えて、くいっとウィルバードの袖を引っ張った。

「危ないこと、する?」

 ウィルバードはぽんぽんとラビットの頭を撫でて、

「どうだろうね」

 と言った。




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