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悪辣令嬢、夫の心知らず 前編
しおりを挟むグラードの執務室の扉が叩音を響かせた。一拍のち礼儀正しく入室してきた事務官に、グラードがものすごい勢いで振り返る。
その勢いに事務官が驚いて息を呑み、助けを求めるように補佐官に視線を縋らせた。
「あ、の……予算編成書のお届けに……」
「……私がお預かりいたします」
オロオロとする事務官に、補佐官は安心させるように微笑みかけた。勢いをなくし心なしか気落ちしたように椅子に座り直したグラードを気にしながら、書類を手渡した事務官は戸惑いつつ執務室を退室していく。
閉まる扉を未練がましく見つめるグラードに、補佐官は小さく首を振ると書類を執務机に置いた。
「殿下、アシェラ様は淑女教育を熱心に受けておられるそうです」
「……そう、か」
深く息をついて額を覆いグラードは俯いた。その様子に補佐官達は困ったように眉尻を下げた。
アシェラが大人しくなって、もう二週間。婚姻し王宮入りしてからも三日と空けずやらかしては、グラードがすっ飛んでいっていたのが嘘のように静かだった。
今アシェラは王家の用意した家庭教師ではなく、自ら実家の公爵家の伝手で教師を用意するほど、士気高く教育を受けている。
招かれた伯爵夫人は実績もあり、何よりあのアシェラが熱心に学んでいる。おやつはバナナらしい。割と食べている。
ついに改心したかもしれない王太子妃の変化を、補佐官達としては歓迎したかった。
「王宮でもアシェラ様の熱心さに、これまでとは違う印象を持ちはじめる者が出始めています」
「そうか……」
咲き誇る薔薇の美貌への賞賛とセットで轟く悪評。その悪評が鳴りを顰めるほど、私室で籠って勉学に励むアシェラ。そう、喜ぶべき。アシェラが大人しく学んでいることを。グラードはそう自分に言い聞かせた。
(アシェラ……)
瞼に浮かぶ愛しい妻の名を呟きグラードは、止めていた手を再び動かし始める。王宮はとても静かで、今日もグラードが駆けつける事態は起きることはなかった。無言で執務に戻る王太子に、補佐官達は心配そうに顔を見合わせた。
執務を終えたグラードは、夫婦の寝室にそっと滑り込む。広い寝台にはすでに妻のアシェラが、安らかな寝息を立てていた。
隣に身を滑らせて、グラードはアシェラの寝姿を見つめる。息を呑むほど美しい妻。寝具に広がる見事なハチミツ色の髪を梳き撫でて、その髪に口付けすると胸が詰まるほどの愛おしさが込み上げてくる。一目で心を掴まれた五年前から、日々募り続ける愛おしさ。
「アシェラ……お前は今日もいい子だったな……」
起こさないように顰めたグラードの呟きが、ポツンと落ちる。本当に最近のアシェラは、とてもいい子だ。丹念に言い聞かせていた妃としての自覚が、ようやく芽生えたのかもしれない。
鮮烈に刻みつけてくるこの美貌に教養までも加わってしまえば、アシェラ以上の王妃などどこを探しても見つからないだろう。
王宮の者は皆、この変化を歓迎している。全然脱走しないし、怪しげな夜会に繰り出す画策もやめた。国庫を空にする勢いでドレスも宝石も買い漁ることもしていない。だから日に二、三度必要だったお仕置きに、グラードが駆けつけることも無くなった。
愛らしい寝顔を晒すアシェラに、グラードはそっと手を伸ばした。白い滑らかな陶器の頬を包み込む。大人しく宮に籠り真面目に妃教育を受け、疲れて眠る妻。グラードは小さくため息を吐き出して、アシェラの頬から手を離した。
「……喜ぶべきだ」
傲慢で高飛車。悪辣でふしだら。悪評高いアシェラが、真面目に学び始めたのだから。
醜聞のたびに嫉妬にのたうち回り、血を吐くような思いで振る舞いを諌め続けた。膨れ上がった嫉妬心に絶えきれず、五年間の婚約の解消を決意した夜。どれほど苦しかったか。
それが報われようとしている。そんなアシェラが変わろうとしている。いずれ国母となるアシェラの変化を喜ぶべきだ。
「……なぁ、かわいい俺のアシェラ」
妻を諌め良き王妃に導くのも、良き王としての当然の務め。覚醒したグラードはよき王であり続けなければならない。選んだ伴侶の言動もグラードの責任だ。それすらも覚悟してアシェラを妻にした。だから、
「無理はしなくていいんだぞ?」
全部グラードが余裕で担える。アシェラが覚醒させたドラゴンの力で。いつだって俺がそばにいる。ちゃんと目を光らせておく。後始末も教育も全て、グラードの責任であり権利だ。
どこで何をしたとしても、俺が叱りつけ正してやる。アシェラに関わる全てが喜びで、苦になることなど一つもない。だから。
「……少しくらいいいんだぞ?」
突然いい子になってしまった愛しいアシェラは、深い眠りの底にいて何も応えてはくれない。グラードは諦めたように小さくため息を吐き、疲れて眠る妻の安眠を妨げないように囁いた。
「……おやすみ、愛しい俺のアシェラ」
美しい寝顔にそっと口付けを落とすと、眠る必要はなくても愛しい伴侶の隣で瞳を閉じる。アシェラが大人しくなってから、触れ合えずにいる妻。せめて安らかに眠る妻の気配をすぐそばに感じていたかった。
※※※※※
「……っ!! まさかそんな……嘘でしょう……!?」
衝撃に目を見開いてアシェラは、ぐっと身を乗り出した。向かいに座るのは教師の伯爵夫人……ではなく、伯爵夫人が毎回伴ってくる侍女。
影のように仕える主人に付き従うべき侍女の、地味なお仕着せを着ていても教師を務める女の退廃的で、咽せ返るような色香は隠しきれていなかった。
「……ふふっ。アシェラ様、その程度で驚いてはいけませんわ。その後はこのようにして挟み込むのです!」
「……本当に?」
黒子のある扇状的な口元を微笑ませての実演に、アシェラばかりか淑女教育で名を馳せた伯爵夫人も、衝撃に瞳を見開いて身を乗り出した。
「ですが、ステラーチェさん。本当にそんなことが……?」
「まあ、信じられませんか? ですがすごい効果なんですよ? 感覚よりも視覚に意味があるんです。これでこうしている、それが大事なんです。その上でこんなふうに……ね?」
すごい。そんなことまで! にわかには信じられないステラーチェの応用編の実演に、アシェラと伯爵夫人は口元を押さえた。
「では練習してみましょうか。アシェラ様も伯爵夫人も十分資格をお持ちです。ですがそれだけではダメです。練習してコツを掴みましょう」
こくこくと頷いたアシェラと伯爵夫人に、ステラーチェはにっこり微笑んだ。
「いえ、いきなりそうするのではなく、まずは空間を……いえ……教材を持ち込めればいいのですが、持ち物検査がありますし……ええ、そうです。そのまま両手で強く押しつぶすように……そうです、お上手ですわ。大丈夫ですよ。強くしても痛みはありませんから……」
熱心な生徒達に、教師も指導に熱が入る。本来の職場に打診がきた時は断りたいと思っていた教師役。断りたくても公爵家からの依頼。その上本職の稼ぎの二倍の提示。渋々引き受けたが気難しい貴婦人達は、未知の知識らしい指導に意欲を持って食いついて来る。
(あと、三日間なのね……)
本来は対立する関係だろう貴婦人達への、奇妙なレッスン。それももうすぐ終わる。ちょっとだけ寂しく思いながら、ステラーチェは熱心な生徒達のためにさらに指導に熱を込めた。
応援ありがとうございます!
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