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身も心も縛られて(1)
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真琴が東京を発ったのは、翌年の一月第二週のことだ。すでに年始のUターンラッシュは終わっており、北陸行の新幹線内はむしろ空いていて快適だった。
車両は真新しく清潔で、全体的に広くゆったりしている。赤紫色の座席には高級感があり、これが旅行ならさぞかし心が踊っただろう。働きながら薫を育てていた頃には、薫のためであれば別だったが、金のかかる娯楽は控えていたのだ。
真琴は自分の指定席に腰掛け溜め息を吐いた。
薫が一緒でなくてよかったと思う。せめて、金沢へ向かう二時間半くらいは、あの束縛から解法されていたかった。
薫は一足早くかの地で暮らし始めている。真琴は自宅の管理を任せる手続きにもたつき、出発が今日になってしまったのだ。
乗車してしばらく経った頃、新幹線が滑らかに軽やかに動き出す。同時に耳馴染みのいい電子音の音楽が流れ、アナウンスが乗客らに行き先を告げた。
「この電車は✕✕号長野経由金沢行きです……」
東京がみるみる遠ざかっていく。
今からでも降りて、逃げ出してしまいたいと思うが、足が、体が、自分の気持ちに従ってくれない。すでに真琴の身心は薫本人がおらずとも、その影の腕に蛇に絡み付かれるように捕われていた。
真琴のいる車両にスーツ姿の男性がやってきたのは、出発して数分ほど経ってからのことである。直前に最寄りの車両から乗車し、自分の指定席に向かう途中なのだろう。
男性はちらりと真琴に目を向け、ぎょっとしてその場に立ち止まった。
「真琴?」
「えっ?」
突然、名前を呼ばれて驚き、伏せていた顔を上げると、なんと、五年前に別れた元恋人、直樹が座席に手を掛けていた。
「やっぱり真琴だ! なんだ、お前こんなとこで。元気だったか?」
直樹とはいい終わり方ができなかった。しかし、もう過去の出来事として整理しているのか、直樹にわだかまりはないらしい。遠慮なく笑顔で真琴の隣に腰掛ける。
「直樹、ここあなたの指定席じゃないでしょ?」
「いいの、いいの。こんだけガラガラなんだし、誰も気にしないって」
おおらかなところは相変わらずだった。
「直樹は出張か何か?」
「ああ。この一年ほど一ヶ月に四、五回は金沢との往復だよ」
直樹は中堅電機メーカー勤務なのだが、現在金沢にある別会社とのプロジェクトで多忙なのだそうだ。
「お前は出張って感じじゃないよな。旅行?……って、それってまさか婚約指輪?」
「……っ」
真琴は咄嗟に左手を隠した。
直樹に指摘されたとおり、薫から贈られた婚約指輪だった。
大きすぎず小さすぎないカラット数の、質のよいダイヤモンドがセッティングされている。宝石についての知識はほとんどないが、高価な品なのだとは見るだけでわかった。
「外すんじゃない」と命じられており、恐ろしさから大人しく従っているのだが、去年までは学生でしかなかった薫が、どうやって代金を支払ったのか、真琴はまだ説明されていない。
婚約指輪だけではない。薫からは、「家賃も、食費も、光熱費も俺が支払うから、真琴は働かないで家にいてくれ」と懇願されている。
司法修習生には給付金が支給されるそうだが、せいぜい十二、三万円程度だと聞いている。薫の資金源はどこにあるのだろうか。
直樹は「おいおい」と笑って真琴の肩を叩いた。
「なんだよ、隠すことないだろ。マリッジなんとかってやつか? しかし、ちょっとショックだな。まあ、真琴はいい女だし、仕方ないよな」
「またまた」
「いや、ホントだって。俺、別れてからかなり後悔したんだよ。それに、お前あの頃よりずっと色っぽくなってるし」
直樹からは顔が好きだのスタイルがいいだのとは言われてきたが、色っぽいとは初めて耳にする褒め言葉だった。
「初めお前だってわからなかったくらいだよ。なんて言えばいいんだろうな。消え入りそうに儚げで、しっとりとした色気があって……一瞬ドキッとした」
「言っておくけど、どれだけ褒めても何も出ないよ?」
肩を竦めておどけてそう告げると、直樹は苦笑して髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「最後は微妙に可愛くないところは変わらないな」
「そうそう、そう言ってもらえたほうが安心する」
笑ったのは久しぶりだった。
それから真琴は直樹と気軽なおしゃべりに興じた。五年の歳月は気まずさを友情に変えてくれたようだ。
しかし、直樹の話に薫が出てきた時には、心臓を握り潰されるような痛みを覚えた。呼吸が乱れて息苦しくなったのを必死で誤魔化す。
「しかし、あの義弟がよくお前の結婚許したな。あいつ、無茶苦茶シスコンだったろ。まあ、母親代わりだったんだろうけどさ。やっと彼女でもできたわけ?」
「どうだろう?」とどうにか笑って首を傾げる。
「あの子の恋愛まではよくわからないんだ」
「司法試験目指してるとか言ってたよな。あれからどうなった? まさか、もう受かったとか?」
「うん、そう」と答えた途端、直樹は「すげえ!」と叫んで、心を落ち着かせるためか缶コーヒーを呷った。
「俺の従兄にも弁護士がいるけど、合格したの三十くらいの時だったぜ? 在学中とか頭よすぎるよな」
直樹の親族にも司法試験の合格者がいると聞き、真琴はならばとずっと抱いていた疑問を口にした。
「八ヶ月の実務修習ってあちこちでやるんだよね?」
司法試験合格者は埼玉での一ヶ月の導入研修を経て、次は全国に散らばり約八ヶ月の分野別実務研修を受ける。その後合計約三ヶ月の集合研修、あるいは選択型実務研修を修了し、二度の試験に通って初めて法曹の資格を得るのだ。
「そう。場所は自分では選べないけど、一応第六くらいまで希望は出せるって言ってたな。まあ五割方は第一か第二の希望地に行けるみたいだけど」
その後の事務所への就職活動に直結するため、弁護士志望者は仕事に不自由しない、都市部を希望することが多いのだそうだ。必然的に東京や大阪が人気となる。地方では札幌や那覇、京都が好まれるらしい。こちらは観光を兼ねているのだろう。
「ねえ、金沢も人気あるの?」
「俺もそこまで詳しくはないけど、規模からして大人気とは思えないな。だから、希望すれば大体通る気がする。あ~、でも、検事とか判事になりたい場合は、地方がいいとかどうとか」
、と言うことは、薫も第一、第二希望地あたりに金沢と書いたのだろう。
(どうして金沢だったんだろう?)
薫は日本史が好きなので、加賀藩に興味があったのかとも思ったが、それだけではどうもしっくり来ない。
真琴は記憶を辿り亡くなった義母、つまり薫の母親の出身地が、金沢であったことを思い出した。
(でも、お義母さんにはもう薫以外身寄りがいなくて、金沢に帰っても仕方ないって聞いたことがあるし……)
どれだけ考えてもわからなかった。
車両は真新しく清潔で、全体的に広くゆったりしている。赤紫色の座席には高級感があり、これが旅行ならさぞかし心が踊っただろう。働きながら薫を育てていた頃には、薫のためであれば別だったが、金のかかる娯楽は控えていたのだ。
真琴は自分の指定席に腰掛け溜め息を吐いた。
薫が一緒でなくてよかったと思う。せめて、金沢へ向かう二時間半くらいは、あの束縛から解法されていたかった。
薫は一足早くかの地で暮らし始めている。真琴は自宅の管理を任せる手続きにもたつき、出発が今日になってしまったのだ。
乗車してしばらく経った頃、新幹線が滑らかに軽やかに動き出す。同時に耳馴染みのいい電子音の音楽が流れ、アナウンスが乗客らに行き先を告げた。
「この電車は✕✕号長野経由金沢行きです……」
東京がみるみる遠ざかっていく。
今からでも降りて、逃げ出してしまいたいと思うが、足が、体が、自分の気持ちに従ってくれない。すでに真琴の身心は薫本人がおらずとも、その影の腕に蛇に絡み付かれるように捕われていた。
真琴のいる車両にスーツ姿の男性がやってきたのは、出発して数分ほど経ってからのことである。直前に最寄りの車両から乗車し、自分の指定席に向かう途中なのだろう。
男性はちらりと真琴に目を向け、ぎょっとしてその場に立ち止まった。
「真琴?」
「えっ?」
突然、名前を呼ばれて驚き、伏せていた顔を上げると、なんと、五年前に別れた元恋人、直樹が座席に手を掛けていた。
「やっぱり真琴だ! なんだ、お前こんなとこで。元気だったか?」
直樹とはいい終わり方ができなかった。しかし、もう過去の出来事として整理しているのか、直樹にわだかまりはないらしい。遠慮なく笑顔で真琴の隣に腰掛ける。
「直樹、ここあなたの指定席じゃないでしょ?」
「いいの、いいの。こんだけガラガラなんだし、誰も気にしないって」
おおらかなところは相変わらずだった。
「直樹は出張か何か?」
「ああ。この一年ほど一ヶ月に四、五回は金沢との往復だよ」
直樹は中堅電機メーカー勤務なのだが、現在金沢にある別会社とのプロジェクトで多忙なのだそうだ。
「お前は出張って感じじゃないよな。旅行?……って、それってまさか婚約指輪?」
「……っ」
真琴は咄嗟に左手を隠した。
直樹に指摘されたとおり、薫から贈られた婚約指輪だった。
大きすぎず小さすぎないカラット数の、質のよいダイヤモンドがセッティングされている。宝石についての知識はほとんどないが、高価な品なのだとは見るだけでわかった。
「外すんじゃない」と命じられており、恐ろしさから大人しく従っているのだが、去年までは学生でしかなかった薫が、どうやって代金を支払ったのか、真琴はまだ説明されていない。
婚約指輪だけではない。薫からは、「家賃も、食費も、光熱費も俺が支払うから、真琴は働かないで家にいてくれ」と懇願されている。
司法修習生には給付金が支給されるそうだが、せいぜい十二、三万円程度だと聞いている。薫の資金源はどこにあるのだろうか。
直樹は「おいおい」と笑って真琴の肩を叩いた。
「なんだよ、隠すことないだろ。マリッジなんとかってやつか? しかし、ちょっとショックだな。まあ、真琴はいい女だし、仕方ないよな」
「またまた」
「いや、ホントだって。俺、別れてからかなり後悔したんだよ。それに、お前あの頃よりずっと色っぽくなってるし」
直樹からは顔が好きだのスタイルがいいだのとは言われてきたが、色っぽいとは初めて耳にする褒め言葉だった。
「初めお前だってわからなかったくらいだよ。なんて言えばいいんだろうな。消え入りそうに儚げで、しっとりとした色気があって……一瞬ドキッとした」
「言っておくけど、どれだけ褒めても何も出ないよ?」
肩を竦めておどけてそう告げると、直樹は苦笑して髪をぐしゃぐしゃと掻き回した。
「最後は微妙に可愛くないところは変わらないな」
「そうそう、そう言ってもらえたほうが安心する」
笑ったのは久しぶりだった。
それから真琴は直樹と気軽なおしゃべりに興じた。五年の歳月は気まずさを友情に変えてくれたようだ。
しかし、直樹の話に薫が出てきた時には、心臓を握り潰されるような痛みを覚えた。呼吸が乱れて息苦しくなったのを必死で誤魔化す。
「しかし、あの義弟がよくお前の結婚許したな。あいつ、無茶苦茶シスコンだったろ。まあ、母親代わりだったんだろうけどさ。やっと彼女でもできたわけ?」
「どうだろう?」とどうにか笑って首を傾げる。
「あの子の恋愛まではよくわからないんだ」
「司法試験目指してるとか言ってたよな。あれからどうなった? まさか、もう受かったとか?」
「うん、そう」と答えた途端、直樹は「すげえ!」と叫んで、心を落ち着かせるためか缶コーヒーを呷った。
「俺の従兄にも弁護士がいるけど、合格したの三十くらいの時だったぜ? 在学中とか頭よすぎるよな」
直樹の親族にも司法試験の合格者がいると聞き、真琴はならばとずっと抱いていた疑問を口にした。
「八ヶ月の実務修習ってあちこちでやるんだよね?」
司法試験合格者は埼玉での一ヶ月の導入研修を経て、次は全国に散らばり約八ヶ月の分野別実務研修を受ける。その後合計約三ヶ月の集合研修、あるいは選択型実務研修を修了し、二度の試験に通って初めて法曹の資格を得るのだ。
「そう。場所は自分では選べないけど、一応第六くらいまで希望は出せるって言ってたな。まあ五割方は第一か第二の希望地に行けるみたいだけど」
その後の事務所への就職活動に直結するため、弁護士志望者は仕事に不自由しない、都市部を希望することが多いのだそうだ。必然的に東京や大阪が人気となる。地方では札幌や那覇、京都が好まれるらしい。こちらは観光を兼ねているのだろう。
「ねえ、金沢も人気あるの?」
「俺もそこまで詳しくはないけど、規模からして大人気とは思えないな。だから、希望すれば大体通る気がする。あ~、でも、検事とか判事になりたい場合は、地方がいいとかどうとか」
、と言うことは、薫も第一、第二希望地あたりに金沢と書いたのだろう。
(どうして金沢だったんだろう?)
薫は日本史が好きなので、加賀藩に興味があったのかとも思ったが、それだけではどうもしっくり来ない。
真琴は記憶を辿り亡くなった義母、つまり薫の母親の出身地が、金沢であったことを思い出した。
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