ことりの台所

如月 凜

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最終話 秋から冬へ。そしてーー

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【ことりちゃん、元気にしていますか。

島の十月はどれほど美しいだろうと想像し、そうするたびにことりちゃんの笑顔を思い出します。

こちらは秋とは思えないほどに暑く、紅葉もまだまだ見られそうにありません。
 
弁当屋によく来てくれていた秋山さんを覚えていますか?製薬会社に勤めていた彼です。
 
我が家に新しいヘルパーさんとして、秋山さんの友人が来てくれています。
 
それがもう愉快な方で、夜はおかまバーで店長をしているらしくてね。

僕の知らない世界の話を沢山聞かせてくれるので、新鮮で楽しい毎日を過ごせています。
 
先日、隼人君が手紙をくれました。

ことりちゃんがやっているお店の外観を映した写真と、台所でことりちゃんが料理をする後姿。

それと、お客さんに料理をお出しする笑顔のことりちゃんでした。
 
一生懸命美味しいものを作ろうとする姿は、とても素敵でした。
 
ことりちゃんが幸せそうで、安心しました。
 
写真は、レンズを構える人の心をも映すそうです。
 
隼人君がことりちゃんを大切に想う気持ちも映されている気がして、なんだかこちらまで幸せな気持ちになりました。
 
身体に気を付けて。

毎日を、大切に過ごしてください】


ツネさんからの手紙を封筒に戻し、エプロンのポケットに仕舞った。

家に戻ろうと振り返ると

「ぎゃあーっ」

「ぶっ、なんだよその叫び声。乙女感ゼロ過ぎてやべぇ」
 
目の前で腹を抱えて笑う隼人に、仕返しとして足を思い切り踏んだ。
 
朝からそんな馬鹿なやりとりをしている私たちを見ている女性がいた。

「あ、あの人」

「何?隼人の知り合い?」

「いや、そうじゃなくて――」
 
綺麗なグレイヘアを撫でながら、終始にこやかな笑顔を浮かべている女性は、ゆっくりとした足取りで歩いて来る。

道のなかほどでゆっくりと会釈されて、私たちも同じように返した。

「ここはお二人のお店ですか?」
 
女性は足取りと同じく、のんびりとした口調で訊ねる。

「はい、まだ準備中なんですけど。少しお待ち頂けたら朝食としてお料理をお出しできますよ」
 
隼人が爽やかな笑顔で答えた。

「じゃあお言葉に甘えて。お邪魔させてもらいます」

そうして招き入れた女性は、居間で待っているあいだも、視線をゆるやかに移動させながら居間を見渡していた。

縁側に座ったかと思うと、両手を後ろに付いて天井を仰ぐ。

まるで家の空気を全身で感じているみたいだ。

幸せそうに目を閉じ、料理が完成したころには座布団を枕にして横になって庭を眺めていた。

「ごめんなさいね。いやねぇ、自分の家みたいに。あら、美味しそう」
 
隼人がテーブルに料理を並べると、待ってましたと言わんばかりに食事の席についた。
 
今日の日替わり定食は、いわき水産で仕入れた新鮮なかつおのたたきをメインに、畑で採れた新じゃがの煮っころがし。

かぶの甘酢漬けと、なめこのお味噌汁だ。

先日、田所さんに頂いた銀杏は塩を振って串焼きにした。

秋は食材が豊富で、日々の献立を考えるのが楽しい。

「じゃがいも、とっても美味しい。皮がぱりっとしてて良いわねぇ」

「ありがとうございます」
 
お盆を胸に礼を言い、台所に戻ろうとしたとき玄関が開いた。

たちまち賑やかな声がなだれ込んでくる。

「あら?まぁまぁまぁ」

最初に入って来た母が、食事中の女性に駆け寄った。

ツバキさん、猫村さんと続いて入って来た二人が、女性を見ると同時に声を上げた。

「田畑さんじゃない」
 
女性は田畑アサ子さん、今年で八十二歳になるらしい。

「外出は商店街の方とお聞きしていたのに」

「お母さん、知り合いなの?」

「うちの施設の利用者さんよ」

「ついでに言うと、この家の家主さんね」
 
ツバキさんの言葉に、私と隼人の声が重なった。

「うそっ」
 
私たちの反応に、田畑さんが静かに笑う。

猫村さんは田畑さんの隣に座ると、お元気そうで良かったわ、と背中をゆっくりとさすった。

「このお店を見たらねぇ。もっと元気が湧いて来たの。前に一度来た時、もう嬉しくて嬉しくて。でも恥ずかしくて、入れなかったのよ」

「前にも……」
 
私が隼人に視線を送ると「ほら、店の前に西郷さんと一緒にいたって言っただろ」と小声で言った。

「おもてのケヤキもあのままにしてくれていて、感動したわぁ。きっと切られているだろうと思っていたの。大きくて、邪魔だろうってね。でも良かった。お父さんもきっとあの世で喜んでるわ」

「僕たちも気に入ってるんです。凄く立派ですから、遠くから見ても目印になります」
 
隼人が言うと、田畑さんは「そうよねぇ」と頷きながら銀杏をひとつ齧った。

「チョーさんってご存知?」

「はい。お世話になっています」
 
私が頷くと、田畑さんは「そう」と目を丸くしてほほ笑んだ。

「あの子がよくあの木に登ってたのよ。初めて会った時も、木に上って降りられなくなってたの。お父さん――主人が助けてあげてね。子供に恵まれなかった私たちにとって、我が子みたいに可愛がっていたの。だから……」
 
振り返って、縁側の向こうの空を見上げた。

「お父さんと私の、大切な日々の想い出がたくさん詰まっているのよ。この家にも、あの木にも」
 
だから、と味噌汁を一口飲み、ふぅ、と温かいため息を漏らした。

「ここがこうして生きていて嬉しい。家が生きてるもの。私の想い出も、なんだかまだここにちゃんと残っているような気がするの」
 
あなたたちのおかげね。
 
そう言ってにっこりと恵比寿顔になる田畑さんに、私も隼人も、顔に笑顔が浮かぶ。

田畑さんが笑うと、自然とこちらまで笑顔になるから不思議だ。

ここで民宿をやっていた頃も、こうしてお客さんもみんな笑顔になっていたのだろう。

それを引き継げているのだとしたら、とても嬉しい。

「この家、あなたたちに譲るわ」

「田畑さん、流石にそんな大切な話は今ここで決めてしまうのも――」
 
咄嗟に母が止めるも、田畑さんはきっぱりと頭を振った。

「良いの。私がそうしたいの。お父さんと天国で会ったら、きっと喜んでくれるわ」
 
ね、と真っ直ぐに見つめられて、私と隼人は彼女の想いを受け止めるように力強く応えた。

「大切に、この場所を使わせていただきます」
 
それからは母たちも一緒に田畑さんと食事をし、昼前に帰って行った。
 
観光客のカップル、島の人たちとお客さんは途切れることなく、気付けば昼の二時を過ぎていた。

ようやくひと段落ついた頃、廊下で電話が鳴り、隼人が受話器を取った。

私はいつも通りテーブルを拭き、洗い物をしていた。

片付けが済んだら、文房具店に行って便箋を買いに行こう。

ついでに郵便局にも行って切手を買わなきゃ。

ツネさんにどんな返事を書こうかな。

知らない間に隼人に写真を撮られていたみたいだし、仕返しに私も隠し撮りでもしてやろうか。
 
そんな事を考えながら笑みを零し、ふと手紙の内容を思い出す。

写真は、レンズを構える人の心をも映すそうです――。

 隼人の心、か。
 
祭りの夜の事を思い出して、うっかり顔から火が噴きそうになる。
 
特にあの後に何があったわけではない。

そんなわけでは無いものの、手を繋いでいたあの日の夜の事は、思い出すだけで頭の中で暴れまわる自分がいる。

恥ずかしすぎて死にそうだ。

「あ、隼人。電話、誰からだった……どうしたの?」
 
台所に入ってきた隼人の浮かない顔に、水道を止めて濡れた手を拭いた。

「秋山さんからだった」
 
秋山さんは、弁当屋の常連だった製薬会社の人だ。

そして、クラーテというおかまバーを手伝っていたヒバリちゃんでもある。

「ツネさんが、亡くなったって」

「え――?」

「告別式に、ことりと二人で来て欲しいって連絡だった」

不穏な空気を感じ取ったのか、台所を覗きに来た西郷さんが、私たち二人を眉をひそめて見上げる。
 
おもむろにエプロンのポケットからツネさんの手紙を取り出した。
 
手紙の消印は、ツネさんが亡くなった日のものだった。



「老衰だったんだ。穏やかに、眠るように亡くなったんだろうって話だよ」
 
焼香を済ませた私たちは、控室で出棺までの時間を過ごしていた。

目を腫らした秋山さんが、震える声でゆっくりとため息を吐いた。

「布団の中で冷たくなってたって。ヘルパーで家を訪ねてた人が言ってたよ」
 
あの人、と控室の隅でツネさんの親戚と話す男性に視線を送った。

彼は夜はおかまバーの店長だ。

式の間、誰よりも嗚咽を漏らして泣いていたのが印象に残っている。

その泣き声につられて、私も涙を我慢できなくなってしまった。

祭壇に飾られたツネさんの優しい笑顔の遺影が、最後に話したツネさんと重なって。

それがもう再び見ることはできないのだと思うと、溢れ出す涙を止めることはできなかった。

すっかり詰まってしまった鼻を啜り、秋山さんに頷いた。

亡くなったのは悲しいけれど、苦しまずに済んだのなら良かった。そう思うしかない。

式場の人に案内されて外に出ると、玄関を出たところに霊柩車が停まっていた。

「それでは出棺致します。ご親族の方は車で――」

私たちはここでお別れだった。
 
ツネさんを乗せた霊柩車が、曲がり角を曲がって見えなくなるまで、隼人の隣で見送っていた。



葬儀場を離れ、私と隼人はかつてツネさんの弁当屋があったビジネス街のにある公園を訪れた。
 
弁当屋はシャッターが下ろされていた。

秋の黄昏時。

足元の枯れ葉は、からからと音を立てて風に舞っていた。

会社帰りの人たちは、一様に公園には見向きもしないまま、大通りを渡って駅へと流れていく。

「懐かしいな」
 
隼人が静かに口にした。

「そうだね。ここが賑やかだったのが嘘みたい」
 
少し間を開けて、隼人が「あぁ」と眩しそうに店を見上げた。

「本当、暑かったなぁ。ここの厨房」

「ことりはいっつも汗だくだったもんな」

「冬は極寒なんだよね」

「それは俺もじゃね?ずっと接客で壁も何もないショーケースの前に立ってたし」

「ふふっ、そうだね。でも……」

ここで始まったのだ。何もかも。

「楽しかったなぁ」

隼人は「そうだな」とシャッターに手を当てた。

私も真似をしてみた。

無機質な冷たさが手のひらに伝わって、心に沸いた寂しさが胸にこみあげる。

「ツネさんがいたから。このお弁当屋さんがあったから、私はこうしていられるんだよね」

「だな。俺もここに来てなかったら、津久茂島に行こうなんて思わなかったんだ」
 
シャッターから手を放して、一歩、二歩、と後ろに下がる。

夕焼け空と、そびえるオフィスビル群と、そこに小さく、今は音もなく佇む弁当屋を視界に収めた。

「全部。全部が繋がってるんだね」
 
自分にとっては全てが幸せとは言えない人生のなかの出来事も、隼人の後悔や悲しみや、私の知らない人生の出来事も。

それらの道をがむしゃらに進んできた先で、自分が選んだ道の選択の先で、私たちの人生が交わって今がある。
 
それは奇跡のようで、必然のようで。
 
そうして出会った人とは、いつか必ず別れる時が来るのだ。

父ももちろん、ツネさんのように。

隼人にとってのお祖母ちゃんのように。

アルバイト最後の日を思い出す。

しわくちゃのツネさんの笑顔が記憶に鮮明に蘇る。 

ツネさんがこのシャッターを下ろす間際に見せてくれた笑顔。

あの笑顔はもう私の記憶にしかない。

林立するオフィスビルを見上げ、あの最後の日の夕暮れと同じ景色のように見えても、やっぱりあの日に見た綺麗さはここには無いのだと感じた。

「今まで、ありがとうございました」
 
隼人が突然、店に向かって深々と頭を下げた。

「告別式でもツネさんにお礼は伝えたけどさ。この場所にはまだ言えてなかったから」
 
頭を上げると、いつもの笑顔を見せた。

「この店はことりと出会わせてくれたからな。場所には想い出も、ツネさんがこの店を始めた時の心も残るから。やっぱり感謝しないとな」

「……そうだね」
 
私も深々と頭を下げた。
 
ありがとうございました。
 
私に料理という生きる術を与えてくれて、ありがとうございました。
 
沢山の人との出会いをありがとうございました。

隼人と出会わせてくれて、ありがとうございました。
 
公園の上をカラスが飛んでいく。

濃厚なオレンジ色の空を、黒い二羽のシルエットがオフィスビルの合間を縫うように、どこかへ飛んで行った。





「このフィナンシェって、クラウンの?」
 
食事を終えた長野さんが、新しく居間の隅に設置したショーケースを覗き込んだ。

「そうなんです。うちに置かせてもらうようになって」

「美味しいのよねぇ。ね、そこのマフィンとフィナンシェの残ってる分全部貰える?これから老人会があるからそこで配るわ」

「こんな時間からですか?」
 
時刻はもう三時を過ぎている。

「今日暑かったでしょう。年寄りばっかりだからね。涼しくなってから、一時間くらいやりましょうってなったの。囲碁とか手芸とかやるのよ。猫村さんが刺繍教室もやるようになって、参加してくれる人も増えてねぇ」

「それは楽しそうですね」

「楽しみながらお互いの生存確認もできて良いのよ」
 
あっはっはと長野さんの陽気な大笑いに、縁側で寝転んでいた西郷さんが何事かと顔だけでこちらを見ていた。

ショーケースに残っていたフィナンシェとマフィンを箱に詰めて長野さんに手渡す。

この委託販売を始めてから、お客さんからの評判は上々だ。

クラウンが休んでいても焼き菓子が食べられると聞いた島民が、わざわざ買いに来てくれる。

ついでにうちで食事もしてくれるのだ。店としてもありがたい。

「隼人君によろしくね」
 
おつりを財布に戻すと「ごちそうさま、美味しかったわ」と麦わら帽子を頭に乗せて、颯爽と自転車に跨って去って行った。

すっかり紅葉したケヤキは、秋の夕日を透かして黄金色の木漏れ日を小鳥の台所に落としている。

木の足元に溜まった落ち葉を踏んでみる。

かさかさと乾いた音が童心に返るような気がして楽しい。

もうひとつ、またひとつと踏んでいると、そこに小さな足が加わった。

「西郷さんも楽しい?」
 
もちろん返事をするわけでもない西郷さんは、一心不乱に落ち葉を踏みまくる。

仕舞には興奮しすぎてその場で飛び跳ね、最後には転げまわって身体中を枯葉まみれにすると
 
えらいこっちゃ
 
とでも言わんばかりの困り顔で私を見上げてきた。

「なにやってんの」

笑いながら体の枯れ葉を払ってやると、またうにゃうにゃ言いながら葉の上を転げまわっていた。

「おーい、何楽しそうな事してんの?」
 
裏庭から戻って来た隼人がショベルを手にやって来た。

「どう?さつま芋は」

「良い感じ。千鶴婆ちゃんも大きいのが採れそうだって言ってたし。明日は朝から芋掘りだな」

「じゃあ、あとであかりちゃんに声掛けないとね」
 
この秋は芋掘りだ。掘った芋は何にしようか。

この枯葉で焼き芋もできるだろうか。

さつま芋ご飯に、豚汁。

浩二君に教えて貰って、さつま芋のパウンドケーキも美味しいだろう。

「よし!ことり、出かけるぞ」
 
隼人は急いで農具を片付け始め、さっさと着替えを済ませると、釣り竿を二本、車に詰め始めた。



やって来たのは白鷺浜だ。

港ではないこちら側は人の気配もなく、静かに波音が響き渡っていた。

「田所さんがこの時期はこっちがよく釣れるって教えてくれたんだよな」
 
言いながら、さっそく手ごたえを感じたらしい隼人がリールを巻いていく。

「おっ、来た来た。シロギスだ」
 
魚の口から針を外しクーラーボックスに入れ、慣れた手つきで再び竿を振った。

十月の終わりとは思えないほど、さんさんと陽光を振りまいていた太陽が水平線のすぐそばまで降りてきている。

太陽が溶けたように滲む海がきらきらと閃く。

ふわりと時折吹き抜ける海風が、隣の隼人の香りも一緒に巻き込んで。

穏やかに過ぎる時間が、幸せだなと改めて身に染みる。
 
この海はこんなにも綺麗だったのだ。

父の事で頭がいっぱいだった頃は、そう思う余裕が無かったこの景色を、今の私はとても綺麗だと感じる。

同じ景色でも、心のありかたで見え方が変わるのだろう。

隼人と二人、海に釣り糸を垂らして、他愛の無い話をしていた。
 
今日は色んな人がお客さんに来てくれたこと。

浩二君が以前より顔色が良くなってきていて、月子さんが新作のアロハシャツを作っていること。

マリーさんは、牧場の牛乳で新たにソフトクリーム屋を始めると報告に来てくれたこと。
 
そして、今日は母が食事をしに来てくれたこと。

「お母さん、隼人の作る野菜はどれも本当に美味しいって言ってるよ」

「まじで?嬉しいなぁ。実はさ、最初の頃は暑いし汚れるし、田舎だからか虫はいちいちでけぇしで……嫌だなって思う事もあったんだ」

そうなの?と驚く私に、隼人は「そりゃそうだろ」と肩を揺らして笑う。

「でも、ことりが料理した俺の野菜を、みんなが旨いって食べてくれるじゃん。それ見てたら虫がでけぇくらいなんだって思った。寧ろ、その虫が土を耕してくれるし、受粉をしてくれる。畑仕事の相棒だと思えば良いじゃんって」
 
まぁアブラムシとカメムシは勘弁だけど、と顔を歪ませて頭を振った。

「ことりの手はツネさんと一緒だ」

「え?」

「魔法の手。みんなを幸せにできる手ってこと。それとさ」
 
今日はこんなもんかな、と満足気にクーラーボックスを閉めた隼人は、釣り竿を片付け始めた。

「ことりのお母さんもだよ。親父さんの事で色々あったみたいだけど。誰の手も、魔法の手。誰かを幸せにできる手。きっと間違った事をしてしまいそうになった事もあっただろうけど、踏みとどまったじゃん。ことりのお母さんがいたから、ことりがいるんだ。ことりがいるから……」
 
私から受け取った竿も片付けると、膝の砂を払って立ち上がる。

「俺はいま、すげぇ幸せな毎日を送れてるってわけよ」
 
隼人の笑顔に、私も、過去の私自身も救われた気がした。

「ありがとう。お母さんもきっと喜ぶと思う」

砂浜を歩きながら言う。

柔らかい白い砂に足が沈んで、一歩ずつ。

転びそうになって、隼人が差し出してくれた左手に、私はためらうことなく自分の右手を重ねる。

「ずっと友達でいられるわけない」

隼人がおもむろに口にした言葉に、私は視線で何?と訊く。

「いつだったか。ことりが自分でそう言ったの、覚えてるか?」

「うん。覚えてるよ」
 
私には学生時代から続いている友達はいない。

引っ越してしまえば連絡も取る事も無いし、些細な事で虐めにも発展する。

シェルターに入ったり引っ越したりと、学校を転々としていた私は、友達と呼べる人がいなかった。

「確かにそうかもなって思う」
 
まさか隼人がそう言うと思っていなかった私は、思わず言葉を失った。

ずっと友達でいられるに決まってるじゃん。

花火の夜、俺はどこにも行かないと言った隼人なら、そう言うと思っていた。

「そうだよね」
 
力なく答える私は、隼人から視線を外して砂浜を見下ろすしかできない。

「ずっと友達ではいられない」
 
隼人が繰り返す言葉が、見えない棘となって私の心をちくりと刺す。

「ともだち、ではね」

妙に強調した言い方に、思わず足を止めた。

「俺はことりとは友達ではいられない、かな」
 
棘どころか重い石が心にのしかかるようだった。

今にも押しつぶされそうな心と、目じりに滲むものを感じて、それを隠すように俯いて目を閉じてしまった。

「人生まるごと、ことりと一緒にいたい」

「え?」
 
思わず顔を上げると、隼人の目がまっすぐ私を捕らえていた。

「爺ちゃん、婆ちゃんになっても。ずっと」

「それって――」
 
その時だった。

陽が沈み始めて薄暗くなった視界の先から、小さな影がこちらに向かって走って来る。

「おねーちゃあん、おにーちゃあん」

「あれ、あかりちゃん!」

隼人が私の手を握ったまま、反対の手を大きく振った。

「ちょうど良いじゃん。明日の芋掘り、誘わないとな」

「そうだね」
 
走って来るあかりちゃんの元へと歩き出した隼人が、思い出したように

「そうだ」

「なに?」
 
砂に足を取られながら駆けてくるあかりちゃんが、どんどんと近付いて来る。

「今度、筑前煮作ってよ」

「筑前煮?それって隼人のお祖母さんの……」

隼人のお祖母ちゃんが最期に作っていた料理だ。

反抗していても帰って来ると信じて、孫の為に作っていた筑前煮。

お祖母ちゃんへの後悔がある隼人にとっては、特別と言ってもいい料理。

「だから、だよ。ことりのが食べたい」

「……わかった」
 
隼人の笑顔に、私も笑顔を返す。

「あっ!」
 
あかりちゃんが転んだ。

盛大に砂浜にダイブしたあかりちゃんの元へ二人で駆け出した。

「大丈夫?」

「怪我はしてないか?」

「えへぇ、大丈夫。びっくりしちゃった」

鼻にも額にも砂まみれになったあかりちゃんは、満面の笑みで私たちを。

そして私達の手元を見て気付いたように目を丸くした。

「恋人だぁ」
 
きゃーっと小さな手を両頬に当ててその場で飛び跳ねた。
 
明日は芋掘りだよ、と伝えると更に子供らしく大喜びだった。

隼人、あかりちゃん、そして私と横並びになって手を繋ぐ。
 
三人の影が砂浜に伸びる姿は、まるで家族みたいだと思った。

「明日も楽しみだなぁ」
 
隼人が噛みしめるように言う。

「そうだね」
 
山の稜線に光の帯が滲む藍色の空に、満月が昇っていた。

秋が終わり、冬が来る。やがて来る暖かい春もまた、隼人と迎えることができる。
 
いつかまた、今日の事を思い出す日が来るのだろうか。
 
何気なく振り返った私たちの後ろには、あかりちゃんが転んだ跡と。
 
私たち三人の足跡が確かに残されていた。


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