三鍵の奏者

春澄蒼

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第五章 星は天を巡る

73 ユエの過去※

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「ん、」
 胸まで飛んだ二人分の白濁を、カイトが濡れた布で拭き取ってくれる。双丘のあわいのぬるつきまで、されるがままで拭われながら、ユエがしていたのは反省だ。

(だめだな、俺……)
 何の準備もしていなかった自分を、ユエは反省する。潤滑剤の準備から後始末のための布や水──今回カイトが用意してくれていたものを覚えて、(次は自分が……!)とユエは当然のように明日を思い浮かべた。



 ユエの身体をきれいにした後、カイトは背中を向けて自分の身体も清め始めた。「ん」仰向けから横向きになって、ユエは波打つ背筋を見守る。

 広い背中が動くたびに、そこに刻まれたいくつもの傷も一緒になって形を変える。ユエは手を伸ばして、中でもひときわ大きな刀傷をなぞった。右の肩甲骨からななめに斬り下ろされたような、一線。

「これ、痛かった?」
「……もう、忘れた」

 カイトの口調に誤魔化しはなくて、言葉通り、付けた相手すら覚えていないようにあっさりとしている。

 でもそれが、ユエには痛い。

 起き上がったユエは、カイトの背中の傷を全て目に焼き付けるように、ひとつひとつ撫でていく。カイトにはその仕草が、傷を埋めようとしているように思えて、その優しさに胸を打たれる。

「……傷はほとんど、昔のものだ。血が流れても、いつかは塞がる。だから……お前がそんな辛そうな顔しなくてもいい」

「うん……」
 ユエは生返事しながら、揺るぎない背中に抱きついた。おでこを押し当ててから、頰を擦りつけ、ぎゅうっと腕をお腹に回す。

「ユエ……?」
「おれ、カイトの背中、すき」

 告白した時と同じように、その言葉は勝手に口から飛び出してしまう。そして口に出して自分の耳に届くと、なぜか分からないけれど、目頭が熱くなって泣きたいような気持ちになる。

「カイトの、手も好き」カイトの手も一緒に巻き込んで、重なった腕ごともっと強く抱き締める。

「ユエ……」
「声も好き。俺の名前を呼ぶの、大好き……」

 自分でもどうにもならないほど溢れてくるこの感情を、どうにかカイトに伝えたいと、ユエはふさわしい言葉を探すのだが──どれだけ頭をひねっても同じ言葉しか出て来ない。

 そんな自分をもどかしく思いながら、せめて、とユエはその飾り気のない素直な言葉を、何度も、何度も重ねる。


「黒い瞳も好き。楽しいことを見つけた時にキラキラするのが、好き。俺の質問に面倒がらずに応えてくれるのが、好き。戦ってる姿も寝顔も好き。厳しいところも、優しいところも……だいすき」


 ちゅ、と傷跡に唇を寄せるユエは、本当にただ伝えたかっただけで、カイトの返事を待ってはいない。

 それにホッとした自分が許せなくて、カイトは自虐的に吐き捨てる。
「……優しい?俺が、か?」

「優しいよ」ユエは即答する。「俺、カイトが一番優しいと思う。自分が傷ついても、色んな人を助けてる」
「……俺が振るう剣は、自分のためだけだ」
「うん、知ってる。カイトは責任を誰かに背負わせたりしない」
「さすがにそれは、美化し過ぎだ」

『恋は盲目』なんて言葉が浮かんだカイトが、呆れて苦笑いしたが、ユエはそれに真剣に反論する。
「俺ね、カイトとかクレインを見てて分かってきたんだ。本当に優しい人は、ちゃんと厳しくもできる人だって。ただ甘やかすだけなのは自己満足で、その人のためを思うなら、時には辛いことにも立ち向かわせなきゃいけないって」



 出会った時からカイトは、ユエを一人前として扱ってくれていた。助けて保護するだけの弱い存在ではなく、仕事を任せる相手として。

 人間の姿になってしばらくは、ユエはカイトのことを無責任で冷たい人間だと思っていた。ユエにとっては悪夢のような出来事が起きたというのに、カイトは心配よりも楽しんでいるようだったし、船の雰囲気が悪くなっても、仲間とユエの間を取り持つこともなかったからだ。

 さらに言えば、ユエがメイの元に残るかどうかとなった時も、ユエに選ばせてくれたのだと好意的に受け取るよりも、責任を回避したようにユエの目には映った。


 ──見方が変わったのは、いつからだろう。


 ユエが思うにそれは、決定的な分岐があったのではなく、小さな積み重ねがあって、だんだんと自分で気づいていったのだ。


 例えば、十字行路の夜道に馬車で、武器を持つことの覚悟を話した時──『自分で決めろ。他人に決断を委ねるな』
 そしてベレン領の事件で、初めて人を殺した時──ユエは苦しみながらも、自分の中できちんと折り合いをつけることができた。

 それができたのは、ユエが自分で選んだ結果だからだ。


 旅をすることも、武器を取ることも、戦うことも、全てユエが自分で選んだ。
 もしカイトに強制されていたら、きっとカイトのせいにして彼を責めることで、自分を守るだけだっただろう。それは簡単で楽な道。でもそうだったら、ユエはこんなに自分を肯定できるようには、なれなかった。

 海での生活を忘れるほどに心から楽しいと思えるのは、自分で勝ち取ったからだ。

 知らないことを知って、できないことをできるようになって、少しずつ自信がついた。
 自信がついたから、自分を認めることができた。
 自分を認められたから、他人からも認められるし、他人を認めることもできる。
 自分を好きになれたから──カイトのことを好きになれたのだ。


 そうして過去を振り返ってみると、全ての出来事も出会いも、カイトに恋をするための布石だったのではないか、とさえ思えて、ユエの心は暖かいもので満たされる。

 しかし同時に、身慄いも起きる。

 この感情を一度知ってしまえば、知らずに生きていた時がどれほど空虚だったのかが身に染みて、その時に戻るのが怖くてたまらない。


 ユエはカイトの懐に潜り込んで、まだ汗が引いていない胸に抱きついた。抱えたものをもう離さないように、腕に力を込める。


「……今になって思うよ。カイトに『仕事を手伝ってほしい』って言われた時、その時に俺は生まれたんだ」
「ユエ……?」
「カイトに名前を聞かれて、初めて俺は『ユエ』になった」


 カイトに呼ばれた自分の名を、大切に、大切に受け取って、ユエは宝物のように胸にしまう。

「……カイト、聞いてくれる?俺の昔の話──」そして彼の名を呼んで、勇気をもらう。「カイトに知ってほしいんだ」



******
 向き合って寝転がり、ふとんに包まると、二人だけの優しい世界が訪れる。
 閉じた世界で語られるのは、まるでおとぎ話のように、優しく──そして残酷な物語。


「俺を育ててくれたのは、西の海から逃げてきた人魚の女性だった」

 西の海のことは、俺よりカイトの方が詳しいかな?と聞かれて、カイトは戸惑いながら頷いた。


 西の海は
 中央や東の海より狭く、浅い。そして東よりも有人の大きな島が多く、人魚にとっては住みづらい海だ。

 およそ三百年前、西の海はもっとも悲惨な狩場となって、多くの人魚たちが人間に捕らえられ、もっと多くが殺された。三つの海のうちの一つが、それから人間のものとなって、今日まで来ている。


 現在の西の一族は、人間の手が届かないわずかな場所に集まって、ほとんど海面には近づかず、暗い海の底でうずくまるように生きている。そのため、それが嫌になった者が中央の海まで逃げてくることがある。

「……その一人に育てられた、と?でもお前は族長の息子なんだろう?乳母にしても、そんなよそ者に任せるものか?」
 言ってしまってからカイトは、ハッと気づく。ユエの過去を知るということは、カイトのを検証することにもなるのだと。


 あの仮説──ユエが純血か、否か──は思いつきのようなもので、カイトに何か確信があった訳ではない。ユエ本人がその場で、否定も肯定もせずに話を流したものだから、カイトもそれから追及することはなかった。

 そんな己の根幹が揺らぐような、重大なことを、ユエは話のついでに出してきた。
「ほら、カイトに聞かれたでしょ?『本当に族長の息子なのか?』って……」

「ん……ああ、」
「あれからずっと考えてたんだけど……確かに周りからそう言われてたし、そう扱われてた……けど、俺は自分の生まれた時を覚えてないから、証拠はないんだなって」
「……母親がいるだろう。証拠というのなら」
「俺、母親を知らないんだ」
「亡くなったのか?」

 曖昧に首を傾げるユエに、カイトも「違うのか?」と戸惑う。

「う~ん……『いない』って聞かされてたから、俺もずっとそうだと思ってたんだけど……よくよく思い返してみると、誰も『亡くなった』とは言わなかったんだ」

「いない」とは何とも含みを持たせた言葉だ。亡くなったのか、どこかへ行ってしまったのか、それとも──存在しないのか。

 考え込みそうになったカイトを連れ戻すのは、ユエの申し訳なさそうな声。
「だから……俺が純血かどうかは、俺にも分からないよ。父に聞けば、なにか分かるかもしれないけど……」


 確かめるには、海へ──ユエの口から、帰郷を示唆する台詞が出たことに、頭の血がす……と冷えるのをカイトは感じた。


 しかしユエはそれには気づかないで、話を先へと進めていく。


 ユエの育ての親の女性は、どうやら西の一族の族長筋だったらしく、中央の一族でも扱いに困っていたところ、本人から乳母になりたいと申し出があったらしい。
 彼女は西の海で、自分の子どもを亡くしていたのだ。

「……たぶん最初から、その兆候はあったんだと思う」

 亡くした子どもの代わりでも、ユエを育てることで彼女の慰めになったのなら、まだよかった。しかし彼女は立ち直るどころか──じょじょに狂っていった。

 ユエの年齢が、死んだ我が子の年を超えてから、それは一気に加速した。

 ユエを、我が子と混同し始めたのだ。

 ユエを我が子の名で呼び、「あれは夢だったのね」と現実を否定する。その次の瞬間には、「あなた、だれっ?!」とユエを突き飛ばし「あの子を返して!!」と泣き叫ぶ。泣き疲れた後は再び、「ああ……愛しい子」とユエを抱き寄せる。その繰り返し。


「違う名前で呼ばれてるうちにね、俺って誰なんだろうって、自分が分からなくなっていくんだ」
 ユエは当時の己を憐れんでいるよりも、その時に戻って呆然と立ち尽くしているように、声に感情が載っていない。
「自分は『ユエ』なのか、違う名前なのか……この人は育ての親なのか、母親なのか……生きてるのが俺なのか、死んだのが俺なのか……」

「ユエ……!」
 カイトが思わず語気を強めて名前を呼ぶと、遠ざかっていたユエの焦点がふらっと戻って来て、パチクリと目を瞬かせた。自分がどれほど虚ろな目をしていたのか、本人に自覚はないらしい。

「ユエ……」初めて見るその表情は、カイトの頭の血どころか、手足まで氷のように冷たくする。温もりを求めて抱き寄せると、さっきの表情など幻と思えるほどに、ユエは豊かな感情を見せてくれて、それでやっとカイトの強張りが溶けていった。

「……辛いなら、話さなくていい」
「カイト……?」


 口をついて出たのは、普段の自分なら考えられないほど、過保護な台詞。純血や人魚についての情報を得られるかもしれない、絶好の機会を逃すことになったとしても、止めずにはいられなかった。


 しかしユエは、「……辛くても、話したいんだ」と真綿のような庇護下に留まることをよしとしないで、傷だらけになりながらも自分の足で立って歩き出す。


「でもね、俺はその人のこと、嫌いじゃなかった。しっかりしてる時は優しかったし、色んな歌や物語を聞かせてくれた。『海の楽園』の話もその人から聞いたんだ」


 結局その人は、ユエが十五歳になる前に亡くなった。最期はユエどころか、自分のことも分からないような有様で、ずいぶんと悲壮な別れとなった。

 しかしユエにとっての本当に辛い時間は、その後に待っていた。


「その人が亡くなって、海を出るまでの三年──俺、ほとんど記憶ない、くらいなんだ……」

 何かをした記憶も、誰かと話した記憶も、どこかへ行った記憶も、何かを感じた記憶も──何もない。

 それは忘れたのではなく、記憶することが何もなかったのだ。ただ生きていただけの三年間。


 自分と目を合わせない父。ユエの存在を無視する兄弟。近づきもしない親族たち。
 家族はユエから何も奪いはしなかったが、何も与えてもくれなかった。

 族長の一族のその態度は、当然他の人魚にも波及し、誰一人、ユエと関わろうとする者はいない。

 ユエはひとりで、ただ海にいた。


 その理由をユエは知らない。ユエ自身が疎まれたのか、それとも育て親のことがあってから、異端な存在となってしまったのか──これもまた、父に聞かなければ分からないこと。


 そんな生活が続くと、次第に、時間の感覚がなくなっていき、海と身体の境目がなくなっていき、心が海に溶けて沈んでいく。

 ──自分は何者か?何のために生まれたのか?何のために生きているのか?
 そんな当て所もない疑問ばかりが、最後に残った。


 自我が保てなくなる前に、ユエは海を逃げ出した。そして海賊の手に落ち、オークションにかけられ、貴族に買われて──そしてあの出会いに繋がったのだ。


***
「……そう、俺、海にいた時、辛かったんだ。でも……辛いって自覚もなかった」
 他人事のように呟いたユエを、カイトは自然と抱き締めていた。ぎゅっと強く抱いてから、頰を伝う雫を唇で受け止める。

「あれ……?」
 過去に置き去りにした感情が、今やっと追いついてきた。あの時の自分を憐れんで流す涙は、ぬるま湯のように心も身体も癒していく。

「……っカイト、俺の名前、呼んで……!」「……ユエ」「もっと……っ」

 何度も何度も、ユエは自分の存在を確かめる。


 全てをさらけ出したユエが、赤子のようにあどけない表情で眠りにつくまで、カイトは名前を呼ぶのをやめなかった。




******
「今日のお昼は、外で食べましょう」
 それは提案ではなく、すでに決定事項として、アディーンは言った。

「外でって……」
 困惑するカイトにいたずらっぽい目を返して、「アイビスさん、ユエさん、ラークさんも誘って」とさらに付け加える。

 枕元に控えるラフィールに助けを求めたカイトだが、すでに話は通してあったようで、「湖畔の花畑に、すでに用意はできています」と詰まれてしまう。


「私はそこまで歩くのは難しいので……カイト、あなたが運んでくださいね」
 にっこりと押しの強いアディーンに逃げ道も塞がれて、カイトはため息で従う以外に選択肢はなかった。



 大げさにはしたくないというアディーンの希望で、移動はこっそりと人目を避けることになったため、カイトはアディーンを抱えて窓から外へ出る。
 ラフィールが三人を呼びに行き、二人になると、アディーンは「ふふっ」とくすぐったそうに笑った。

「この歳でお姫様抱っこされるのは、少し恥ずかしいような、でも、役得って気もします」
「……体調は大丈夫なのか?」
「ええ、特に今日は、ここ数年でも覚えがないくらいに体が軽いんです」

 いきなりの、それもらしくないわがままに不安を覚えたカイトだが、確かにアディーンは血色もよく、そして何より楽しそうだ。
 大司教という立場上、またアディーンの性格上、「安静にしていてください」という周りの気遣いを無下にはできず、倒れてから後、居室から一歩も外に出ないような生活が続いていたのかもしれない。

 それを思うと、少しの気分転換も療養のうちだろうと、カイトは無理やり自分を納得させた。


 湖畔に用意されていた安楽椅子にアディーンを座らせ、自分は敷布に腰を下ろして待っていると、仲間三人とラフィールは麦わらで編んだかごを片手に現れた。

 アイビスとラークはまだこの状況を把握するのに手一杯という様子で、アディーンに促されておたおたと座るが、ユエはカイトしか目に入っていないのか、当然のように一直線に隣に座った。
 かごからはパンの香ばしい匂いと、スープの湯気が漂ってくる。

「さあ、温かいうちにいただきましょう」

 アディーンのあいさつで、不思議なピクニックは幕を開けた。


***
 誰も彼もが、このピクニックには何らかの意図があるのではないかと疑っていたが、アディーンの目的は本当のところ、この顔触れを集めることだけだった。

 カイトが仲間たちとどう接しているか──それを見たかっただけなのだ。


 食べ始めは緊張感があったが、胃が満たされていくにつれて緩和していく。食事中の会話はたわいのないもの──食事の感想や好き嫌い、教会のあるある話や、旅の苦労など──で、身構えていたカイトも少しずつ気を抜いていった。


 食べ終わったところで話題は、ラークの新しい弓の相談が始まっている。
「教会に来てからも、時間がある時に試してるんだけど……どうも上手くいかないんだ」

 フェザントの村でドワーフの職人に造ってもらった弓を、ラークはビンッと弾く。
 教会に滞在中は持ち歩いていなかったが、今回は一応護衛も兼ねてということで、ラークだけでなくアイビスもユエも自分の愛器を持って来ていた。


「ヘロンの思いつきなんだけど……弓と妖精の笛を組み合わせて、こう……!途中で向きを変えたりできないかなーって……」
「面白いことを考えるな、ヘロンは」

 カイトも興味を惹かれたのか、「やって見せてくれ」と先生の顔になって促す。

 ラークは観客の目を恥ずかしがりながらも、カイトに見てもらえるのが嬉しいのか、「うん!」と快諾して矢をつがえて、広い空へ向かって放つ。放つとすぐに、ラークは弓から笛へと持ち替えて、息を吹き込んだ。

 綺麗な放物線を描いていた矢が、ブワッと持ち上がって二十度ほど右に傾いたが、せっかくの威力が殺されて、力なくヒュルヒュルと落ちてきてしまった。

「うー……もうちょっと上手くいくこともあるんだけど……どうしても焦っちゃうんだ」
 笛を手にしょんぼりするラークが、カイトに助言を求めようとしたが、その前に「それは……!」というアディーンの鋭い声がその場を支配する。

「えっ?なにっ?!これ?」
 アディーンの視線に熱せられたように、ラークはビクッと手を揺らす。すると銀色が手から滑り落ちて、胸元で輝いた。

「懐かしい……!それ、ラークさんも使えるのですかっ?」
 前のめりになって意気込むアディーンにも驚かされたが、それよりもその発言に周囲は目を見開く。


「懐かしいって……大司教様、妖精の笛を知ってるんですか?!」
 アディーンの興奮が乗り移ったような勢いで、アイビスが聞き返す。


「ええ、もちろんっ!だってこの笛は元々、聖会の宝物庫にあったものなんです。それを私が……少々違法な手段で手に入れて──」
「「「「ええっ?!」」」」
 アイビスとユエとラークと、さらにラフィールの四重奏の驚きに、「ふふ、内緒ですよ」とアディーンは頰を紅潮させる。

「聖会では妖精が創ったものと伝えられていましたが、『音の鳴らない笛』として誰もその真価を知らなかったのです。ですが……私が偶然触る機会があって、一度触れたらなぜだか、そこに置いておいてはいけない気がして……」
「そ、それで……黙って持ってきちゃった、とか……?」

 おそるおそる聞いたラークに、アディーンは「ふふ」と肯定する。


「ま、まままさか!!あの時ではないですよねっ?法王の代替わりで聖会の本部へ行った──」
「ラフィール、安心してください。もっと前の話です」

 見たことがないほど動揺するラフィールに、アディーンは慰めにならないことを言う。
「あ、安心って……っ!」
「大丈夫ですよ。宝物庫といっても、綺麗に並べられているような処ではありませんでしたからね。小さな笛が二つ消えたことなんて、おそらく誰も気づいてません」

「おそらくって……」
 絶句するラフィールを気の毒そうに見やったが、アイビスは「それで、どうやってカイトの手に渡ったんですか?」と自分の好奇心を優先させた。


「手に入れたはいいのですが、私にも使い道が分からなくて……ですから唯一笛の音が聴こえると言うカイトに、これがどういうものなのか調べてもらえませんかと頼んだのです。すると、これは私が持っていても宝の持ち腐れだと分かったので、そのままカイトに託したのです」

「ね、」とアディーンにいたずらっぽい目を向けられて、「……まあ、そうだ」とカイトは唸るように返す。

「そうだったんだ……」
 初めて明かされる来歴に、ラークはしみじみと銀の筒を撫でる。相棒だと思っていたそれに、自分の知らない過去があったことが、少しだけ寂しく、でも何だか頼もしいとも思う。

「……この妖精の笛には、何回も助けられたんです。だから大司教様は、僕たちにとっての恩人ってことですね!」
 両手で大事に握り締めるラークに、「ふふ、嬉しいことを言ってくれますね」とアディーンははしゃぐ。この言葉で、自分も彼らの旅に同行していたような、カイトの助けになっていたような、充実した気分がしたのだ。


 にこにこと共鳴する二人の横で、ラフィールだけがまだ、軽~く打ち明けられた敬愛する大司教の過去から、立ち直れないでいる。
 彼の心を軽くすべく、アディーンは妖精の笛の真価をその目に見せるようにと、ラークに頼んだ。


「それじゃあ……湖の真ん中へんを見ていてください」
 そう前置きして、ラークは笛を咥える。

 ラフィールには何も聴こえなかったが、笛に息が吹き込まれた次の瞬間──「う、わあっ!!」湖の水が巻き上げられるように立ち登り、小さな旋風が踊るように空へと舞い上がった。

 一瞬の出来事に、ラフィールだけでなくアディーンも目が点になっている。
「すごい、ですね……」「って、アディーン様!あなたはご存知だったんでしょう?!どうして一緒になって驚いてるんですか……?!」

「いえ、だって……」
 アディーンが見た笛の力は、せいぜい風を好きな時に吹かせることができるといったもので、これほど繊細な命令ができるとは知らなかったのだ。

 その後の訓練によって、できる幅が広がったのかと思いきや、ラーク個人の資質によるものだと聞かされて、さらに驚く。

「ラークはかなりすごいぞ。俺とは比べ物にならないほど、風を扱うのが上手い」
 カイトに手放しで褒められたラークは、ガシガシと頭を撫でられ髪の毛をボサボサにされても、「へへっ」と誇らしげに胸を張った。


 そんな親子のような、師弟のようなやり取りに、胸を突かれたアディーンだったが、瞬きひとつで、痛みは慈愛の笑みへと変わる。
「……妖精の笛はまるで、ラークさんの手へと渡ることが、初めから決まっていたみたいですね。ええ、そうです、きっと笛も、宝物庫で眠っているよりも、こうして役に立てることが嬉しいでしょうね」

 綺麗にまとめようとしたアディーンだが……
「……アディーン様、無理やりいい話にしようとしても、盗みはダメ!!ということに変わりはないですからねっ!」

 ラフィールには通じず、孫ほど年の離れた彼にくどくどと説教される事態は、避けようもなかった。



***
「……矢を飛ばしてから笛を吹くんじゃなくて、笛を吹いてから弓を引いたらどうだ?」
 説教の矛先が変わる前に、カイトが最初の目的まで話を戻す。

 カイトの助言通りにラークが試し射ちをすると、見違えるように矢が風を受けて威力を増した。

「ホントだ!こっちの方が慌てなくていいから、風も弓も正確にできるや!!」
 これで解決したかに思われたが、何度試し射ちしても、なかなかラークの理想には届かないらしく、首を捻ってしまう。

「う~ん……確かに風を受けて矢の威力は上がるけど、軌道を変えるのは難しいなぁ……」
 何度かタイミングや矢の角度を変えて試してから、「あっ!今思いついたんだけど、これって……!ちょ、ちょっとユエ、協力してくれない?!」と、ラークはユエを手招きする。


「一人で全部やるのが難しいなら──」
 新しい挑戦に熱中していく三人を、アディーンは微笑ましく見つめる。

 ラフィールが食器を片づけ始めたのをアイビスも手伝いながら、その様子を伺っていたが、迷って、躊躇って……それから思い切って口火を切る。

「……大司教様がカイトにあの笛を渡したのは、何年くらい前、なんですか?」

 アイビスの声音には、カイトのいないところで探りを入れることへの罪悪感が滲んでいた。しかしそれをおいても、聞かずにはいられないアイビスに、アディーンは静かに問いかける。


「カイトの過去が気になりますか?」


 怯んだアイビスに向けるのは、審判者のように見極める瞳。

「秘密は二種類あります。ひとつは、明かすことで安らぎを得るもの。そしてもうひとつは──明かすことでさらなる重荷になるもの……カイトが過去を語らないのは、あなたたちに重荷を背負わせないためです。そして……カイト自身が傷つかないためでもある」


 自分たちのためとだけ言われたのなら、アイビスも迷わなかった。しかしこう言われると──「カイトを傷つけてもいいのか?」と問われているようなもので、とてもこれ以上踏み込むことはできそうにない。

 アディーンは過去の己を見るように、迷ったアイビスに声を──

「うわぁ!!すごい、すごい!!」

 ──かけようとしたところで、ラークの歓声に遮られ、視線が上空へと奪われた。
「な、なんだあれ」「わあ……!」

 矢がまるで鳥のように急旋回して、大きく弧を描きながら空を踊って落ちて来た。

「やっぱりこれ、自分でやるよりも他の人の弓を支援サポートする方が、力を発揮するみたいっ!!」
 どうやらコツを掴んだラークは、「ね、ユエ!もう一回!!」とねだって、ユエに弓を構えさせる。その弓もドワーフ製で、白銀の美しいしなりが、ユエの真っ直ぐな瞳を際立たせる。

 ユエが矢を放つ。ラークが笛を吹く。すると矢は先ほどよりも鋭く曲がり、とんぼ返りするように翻って──「わっ!!」「危なっ」三人の足元へと帰って来た。


「ご、ごごごごめんなさいっ!!」
 大慌てで謝るラークに、カイトもユエも笑って首を振る。
「も一回、やってみよ」
「今度は着地場所を考えて、な」

 気が削がれた形になったアイビスとアディーンは、何ともなしに三人を見守ることになって、弓を放つユエ、笛を吹くラーク、監督するカイトを何度か視線が周回した。


「わ、わっ!失敗……っ」「っと」「うわっ」強く吹き上げ過ぎた風が、三人の服を巻き上げて逃げて行く。
 笑い合って服を整える三人。

「……ユエ、」
 風で乱れたユエの髪を、カイトが指で梳いて──「ん……」耳にかけてやる。


 ざわ……風ではない何かが背中を逆撫でたのを、アイビスとアディーンは同時に感じた。
 ラークの頭を撫でた時とは違う。その時には浮かびもしなかった感情──それが嫉妬だと気づいたのは、アディーンだけ。


 カイトの表情が、声が、手つきが、雰囲気が、全然違う。いや、おそらくアイビスとアディーン以外では全く気づかない違いだ。それが二人にとっては、天と地ほどの差に見える。


 アイビスはこの一瞬の触れ合いに、はっきりと体の関係を見た。まるで現場を目撃してしまったような、あからさまな不快感が沸き起こり、認めたくない嫉妬心は、次第に嫌悪へと変わって、アイビスの端正な顔を歪める。


 一方のアディーンが嫉妬の後に感じたのは、全身の力が抜けるほどの、安堵だった。
(ああ……あなたにその目をさせるのは、その人なのですね……)
 昨日カイトが見せた、渇望──それを向ける相手を知って、アディーンは己の最期の使命を悟った。


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