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第七章 孤独な鳶は月に抱かれて眠る
112 鍵のかかった世界
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静かな興奮が夜を駆け巡る。
「純血が生き残っているかどうかは、あくまで可能性があるという段階だから……!二千年前に閉じられてから、外の世界を確かめた者はいない」
慌ててウィノが水を差したが、一度沸き上がった期待を萎ませるまでには至らない。
「なーなー!外の世界ってどうなってんの?!どんくらい広いんだ?!」
「大山脈の向こうはやっぱり海なの?!」
「もっといっぱい島があるってこと?!」
「も、もしかして、空飛ぶ島とかもあったり……?」
「えぇーー?!まじかよっ!!あっ、じゃあじゃあ、雲の上には乗れる?!俺、乗ってみてぇーー!!」
ウィノは質問を遡って、ひとつひとつ答えてくれる。
「雲の上には乗れない」
「空飛ぶ島はない」
「島は数え切れないほどある。ここ以外に大陸もある」
「ユエとカイトが見た北の海は内海で、大山脈の向こうには大陸が続いている」
「外の世界は君たちが知る世界の、たぶん十倍以上はあると思う」
「十倍……?!」
それはさすがにカイトやヘイレンにも予想以上だったらしく、ただただ呆気に取られる。
「もちろん私もこの目で見た訳ではなく、先人たちの記憶で知っているだけだけど……」ウィノは周りの反応を楽しむようにちょっと溜めてから、「氷の大陸や海のように広い砂漠、一日中太陽が昇らない土地もあるとか」
焚き火を囲んだ輪に沈黙が落ちる。一体感を演出する沈黙だ。
ウィノを含めた全員が、想像もできない壮大な景色を何とか想像しようとしていた。
「……鍵は」カイトが質問を再開しても、何人かはまだ想像の世界から帰ってきていない。「二千年間、一度も開けられたことはないんだな?」
「ない」
「なぜ?」
「なぜ、か。そう聞かれると……開ける必要を感じなかったから、と答えるしかない」
「平和のために鍵をかけたのに、結局、この箱庭の中でも争いは絶えなかった──その現実を踏まえると、閉じこもり続ける必要もなかったんじゃないか?」
ウィノは少し考えてから、「どちらを選んでも同じなら、現状維持を選ぶものなのでは」と真理をつく。
「そうだな。だが……純血が生まれなくなった、という新たな問題が発生したのなら、話は別だろう」
カイトの発言で、想像に浸っていた何人かも現実へと帰ってくる。そう言えば、話の出発点はそこだったと思い出したのだ。
「いや」ウィノは否定する。「むしろ純血が生まれなくなったことは、保守的な考えを助長することになった」
「どういうことだ?」
「世界に鍵をかけて、およそ五百年経った頃──今から約千五百年前になってようやく、純血の数が減っていることを認めざるを得なくなったのだが、その原因についてははっきり分からず、三種の中で意見が割れることになった」
「原因って……鍵以外にないだろう」
「鍵によって人間が増えたことなのか、鍵によって世界を分断したことなのか、どちらか──」
「……それともその両方か、か?」
「そう。ドワーフはこれを罰だと受け止めた。神の領域を侵した罰──ならば、甘んじて受け入れるべきだと。人魚は生まれ変わりを信じていたことから、人間が増えたことで純血が減ったのだと考えた。純血として生まれるはずの魂が、言い方は悪いが、人間に盗られてしまったのではと」
「ふぅん……その死生観は現在の人魚にも受け継がれているな」
カイトは変なところで感心している。
「そして妖精はこう考えた──世界を分断したことでこの箱庭の中に、純血が生まれるために必要な何かが届かなくなったのではないか、と」
「必要……養分とか?」
「または、精子。アルケーを卵子とした時の、受精に必要な三元素の要素」
「もしくは、アルケーそのもの……いや、アルケーはここにあるか」
妖精が眠る天幕を、カイトはちらっと振り返る。
「アルケーが箱庭の中にも存在することは、後々になって……私が生まれた頃に発見されることになる。これについてはもう少し話を進めてから言及しよう」
ウィノはなるべく時間軸に沿って話を進めるつもりのよう。今はまだ、千五百年前に軸を留める。
「三種間で意見が割れたが、最終的には『鍵は開けない』という方針になった。原因が何であれ危険が大きすぎると、過去の人々は判断した」
ウィノの前には、その判断に共感できていない顔がずらりと並ぶ。
それは当然と言えば当然だ。ここに集まっているのは、現状を打破して突き進んできた冒険者ばかりなのだから。
そんな仲間たちをウィノは眩しそうに見つめ返した。
「君たちみたいに、未知の世界や新たな出会いにワクワクするのは少数派。大多数はやはり、怖いと思うもの」
「怖い、か。まあ、分からなくはないがな」
フェザントが分別くさくうなずくのを、「ビビリだなぁ」とヘロンが笑う。
「いやいや、そりゃ怖いだろうよ。だって外のやつらとは、ケンカ別れしたようなもんだろ?しかも五百年経ってりゃ、実際に外を知ってるやつらはもういない。例えば先祖から……戦争がどうだったとか、外のやつらは人間を認めないとかそういう話ばっか聞かされてたら、悪い印象一色になっちまう」
「あー、そっか」クレインが同意する。「俺たちからすると神話みたいな遠い話だから危機感ないけど、当時の人からすれば、外の純血はまだ敵認定だったのかもね」
「それに」ジェイが考え、考え話す。「もしかしたら……というか絶対、外のやつらには何も知らされずに、鍵は閉められたんだろ?わざわざ敵に教えるはずはないし」
「あ……」何人かが今気づいたと声を上げる。
「外から見れば何が起こったか全く分からないし、混乱するのも当たり前だ。勝手に閉じておいて、今度はある日いきなり開かれたら、混乱のまま攻撃してこないとも限らない」
外からの視点を教えられると、千五百年前の人々が臆病だったとは簡単に言えなくなる。
それぞれの意見をうんうんと聞いていたウィノは、最後に総括する。
「可能性は二通りあって、外の世界でも純血が生まれなくなっているか、もしくはそれは箱庭の中だけの変化なのか──前者なら、鍵を開けても純血が増えることはない。後者の場合、鍵を開ければ純血は増えるが、同時に敵を招き入れることになる。しかも鍵をかけたその時よりも、中と外の戦力差は大きく開いている」
「開けたはいいが、ジェイが言うように混乱のまま攻められて、またすぐに閉めることになっては意味がない、か」
「さらに言えば、人間の間ではすでに、外の世界は伝説扱いに──それも『うさんくさい』が枕詞につく域にまでなっていた。訳もわからず攻撃しかねないのは、中も同じだった」
今度の沈黙は、興奮がプシューッと萎んだ後の意気消沈を表していた。
ウィノがこの話をしたのは、鍵は開けられるのかというカイトの問いに対する、『開けられるけれど開けない』という答えだと受け取ったのだ。
千五百年前に立ちはだかった課題は、現在になっても解決していないどころか、むしろさらに悪化している。今や外の世界の存在など、伝説どころか作り話の中にも出てこないのだから。
「と、いうことは」そのため、この後に続くカイトの言葉も『鍵は開けないということか』とか『俺たちは外の世界を見られないのか』とかそういう類の確認だろうと、仲間たちは予想していた。
ところが、予想は裏切られる。
「純血が生まれなくなる以上の問題が、この箱庭の中で起こったんだな」
「…………?」
「千年前、クリストバル・トリエンテの死が迫っていても、選んだのは現状維持だった……ならば、問題が発生したのはその後か」
「…………??」
「しかも、ウィノが妖精の鍵の発見を急いでいたということは、かなり切羽詰まって、いる?」
「…………???」
「……なんだ、その反応は」
「いや、それ、こっちのセリフなんだけど」
クレインに突っ込まれても、カイトはまだ解せないという顔。本気で、なぜ仲間たちに話が伝わっていないのか理解できていない。
みんな仲良く一緒に首を傾げる。
「だから、ウィノが妖精の鍵を探していたのは、鍵を開けるためなんだろう?ってことは、何か事情が変わって、危険を承知でもそうせざるを得ない状況に追い込まれてるってことぐらい、簡単に推測できる──」
そこまで言っても誰も納得していないことに気づいて、カイトは「おい、ウィノ、そういうことだろ?」と助けを求める。
「うん、そういうこと──なんだけど……」
ウィノの反応は称賛を通り越して、カイトの察しの良さにちょっと引いている。
それでカイトもようやく、自分の秘密主義を省みる。
以前、ウィノから過去の話を聞いた際に持った疑惑や推測を、仲間にも話していなかったことを思い出したのだ。
カイトの中だけで成り立っていた『ウィノが妖精の鍵を探していた』=『鍵を開けるためだった』の図式。カイトなりの根拠はあるのだが、その直観的な思考を他人に伝えることは難しい。
すぐさま諦めて、「この先の話を聞けばわかるだろ」とウィノに押しつけるが、「その前に」とひとりだけ答え合わせをさせてもらう。
「鍵を使うことができるのは、鍵に対応する純血だけ──人魚の鍵は純血の人魚だけが使える──と、いう認識でいいんだよな?」
ウィノは素直にうなずき、「鍵と鍵穴の関係みたいに」といつかカイトも例えたように両者を表現する。
「さらにもうひとつ、確認させてくれ。約二千年前に世界に鍵をかけたというのは、具体的に……鍵をどう使ったんだ?」
「具体的……」
「いや、もうはっきり聞いた方が早いな。純血が人間に変わる時とは違って、世界の鍵をどうこうするためには、三つの鍵全てが必要なんじゃないか?」
「それは……」
「鍵が三本そろうこと──でもそれだけでは足りない。それと同時に、鍵を使うことができる純血も三人そろって初めて、この箱庭を開けることができるんじゃないか?」
ウィノはじっと目を見つめてから、恭しくうなずいた。
「その通り。わたしもやっと、君が辿った思考の道が見えてきた気がする」
カイトも満足そうにうなずいて、答え合わせを終えた。
ここから先はカイトが主導権を握って、ウィノに確認を重ねていくという形式になる。
「千五百年前に選んだのは現状維持だったワケだが、その後、約五百年経ってもう一度選択の機会がやってきた。クリストバル・トリエンテの死だ。ドワーフの純血が絶えればもう鍵を開けることはできなくなるのだから、最終選択に近い」
「それを決める三種会談には、私も参加した。鍵を開けるかどうか──議題に上がることもなく、暗黙の了解のうちに現状維持が決まっていた」
「トリエンテの手記にもそんなようなことが書かれていたな……議論することもなかったのか?」
「鍵をかけて千年。三種にとっても外の世界は伝説になっていた。箱庭の中を『世界』と呼び、この中だけの地図を『世界地図』と呼ぶことに迷いがなくなるほどに。先人の記憶を引き継ぐことができる我らはともかく、ドワーフと人魚は会談より前からこの世界で生きていくことを決め、準備していた」
「準備……そういえば、まだ聞いてなかったな。人魚だけが、姿を保ったまま子孫を残せるようになった変化については」
「あれは……かなり強引なやり方だった」
険のある言い方から、ウィノが反対派だったことがうかがえる。
「鍵を使う時、種の平均化のために三種の力が同量になるよう振り分けられるのが自然なのだが、人魚はその分量を無理やり変えた。ドワーフと妖精の力を最小限にし、人魚の力が最大限残るようにすることで、人魚の能力をなるべく失わないように」
「生殖能力だけを鍵からもらうことはできなかったのか?」
「鍵を使うやり方では、できない。なぜなら鍵は三種の融和を目的につくられたもの。人魚同士でしか子孫を残せないという変化は、その目的に反する」
「なんだか回りくどい言い方だな」そう呟いた直後、カイトは一瞬で閃く。「もしかしてそれは、『鍵を使わないやり方ならできる』って言いたいのか?」
ざわついた中で、ウィノだけは『よくできました』と先生が生徒を褒めるような顔だ。
「そ、そんなことできるの?」
身を乗り出したユエを制して、ウィノは「誤解しないで。そんな方法が現実に確立されている訳ではない」
「え?……えっ?」
「わたしが言いたいのは、同種同士で子どもをつくりたかったのなら、新たな方法をあみ出すべきだったのでは、ということ。鍵を安易に流用するのではなく」
過去の人魚たちに厳しすぎるようにも思えるが、ウィノがこう言うには理由があった。
「三種の力が自然と同量になるのは、それがもっとも安定した状態だから。それをねじ曲げたことで、人魚は不安定な存在になった」
「不安定?」
「一度変化してしまうと、もう元の──純血の状態には戻れなかった。それから、生まれた子孫たちに偏りが出た。圧倒的に、女性の比率が高くなるという……」
今現在の人魚に女性が多いのはそういう理由からだったのか、と初めて知る事実に愕然とする者が多い中、ユエは不思議と開放感を感じていた。
──そうか、方法はひとつじゃないんだ。
鍵にもできないことがあって、そして鍵にはできないからといってそれが不可能かどうかはイコールではないのだ、と視野が広がった気がした。
「ドワーフは人間と同化して、人魚は鍵に手を加えて、箱庭で生きる準備を進めていた……妖精は?」
カイトが話を主軸に戻す。
「鍵を開けないことには消極的な賛成という立場。けれどいざという時のために、知識は残しておかなければと考えた。選んだのは延命」
ここで、メーディセイン突入前に聞かされた話に繋がる。
「延命はいいとして、聞きたいのはさっき先延ばしにしたアルケーのことだな。箱庭の中にもアルケーが存在していることが分かって……?」
「本来目に見えはずのないアルケーが、箱庭の中では結晶化しているのを、ドワーフが発見した」
「あの水晶のような状態はヒトが加工したのではなく、自然と?」
「そう。地下から宝石と同じように発掘された。わたしたちが眠っていたアルケーは、ヒトの手を入れて、小さなものをいくつも統合して大きくしたものだけど」
「もしかしてと思っていたが」カイトが準備していたように懐から取り出したものを見て、「あ……!」見覚えのある八人が声を上げる。
それはベレン領の事件の時に登場した『亜種を見分ける水晶』だった。
「これもアルケーの欠片なんじゃないか?」
カイトの手の上に乗った歪な六角柱──三つは血を吸った赤色、ひとつは透明──をじっくり見て、ウィノは「うん、そう」
「あっ!つーことは──」ウィノの肯定を受けて、ヘイレンも荷物の中から取り出したものを見せる。煮詰まったような赤黒い鉱物──聖石だ。
こちらの判断は早かった。一瞥しただけでウィノは「そう、これも」
これまでの旅が一本の線で繋がっていく。
「これは何を吸収して、こんな色に?」
カイトが持つ赤色の三つを指差して、ウィノが訊く。
「血液だ」
「血?なにがどうすればそんなことに?」
ベレン領で起きたことをざっと説明すると、ウィノは「そう、そうなるの。知らなかった」と目をぱちくりさせた。
ウィノにも知らないことがあるのだという当たり前のことに、ハッと気づかされる。
「じゃあウィノにも、なぜ亜種の血液だけが吸収されるかはわからないんだな?」
「推測はできる。さっきの人魚の話にも通じるけど、亜種というのは三元素の割合が均等ではない人間のことなのだと考えられる。そして普通の人間というのが、三元素が同量で安定している状態」
「ああ、なるほど……血液そのものではなく、血液中の三元素の力を吸収するのか」
「そう。それで人間の中の三元素というのは、三つでひとつとなって強固に結びついている。けれど亜種には余りがある。例えば人魚の亜種なら人魚の力だけが他より多いから、その余りをアルケーが吸収したのだと思う」
「ユエの事例はどう説明する?鍵を使ったユエはその安定した状態に当てはまるんじゃないか?」
「ユエの中に封印されていた人魚の鍵の影響、ということで説明できると思う。鍵は高元素体そのものだから、アルケーが耐え切れずに壊れたのかも」
「……鍵の封印を外してもう一度試してみれば、簡単に証明はできそうだな」と言いながらも、カイトがこの場でそれを提案することはなかったのは、あまり緊急性がないと判断したからだ。
すでに時刻は、夜明けを意識するまでに進んでいる。
これ以上本筋を外れるのはよそうと示し合わせて、カイトとウィノは最終局面に入る。
「どうしてアルケーは結晶化したんだ?」
「これも推測だが、本来なら受精して三種になるはずのアルケーが、何にもなれずに空っぽのまま増えていき、アルケー同士で結合したのではないか、と」
「空っぽだからこそ、外から他の力を吸収できる?」
「そう。透明なものはまだ空っぽ。その聖石のように色が付いたものは、すでに外から吸収済み」
「聖石が吸収したのは、地熱の力で合ってるのか?」
「地熱……我らはドワーフが言うところの岩漿の力だと了承しているが」
「岩漿……ってなに?」
ラークがこそっとフェザントに尋ねる。話の流れを邪魔しないように、という配慮だったが、「なに?!」「聞いたことはあるけど」とヘロンとクレインからも説明を求める声が上がって、フェザントは全体に向けて答えることになった。
「マグマってのは、あれだ、火山でグツグツ燃えてる、あっついドロドロの、地下から噴き出してくる……」
「えー……ぜんぜんわかんねぇんだけど」
そもそも火山を見たことがあるのが少数派で、ここではカイト、フェザント、ヘイレン、ユエだけ。ウィノも引き継いだ記憶の中で知っているにとどまり、説明はカイトに任される。
「……ここでは、地下にある高温の物質って認識だけでいいんじゃないか。だからまあ、地熱ともほとんど同意──ああ、そうか」
おかしなタイミングで何かに気づいたカイトは、「あの炎はこの火なのか」とひとり納得している。
「カイト?」
「いや、ドワーフの遺跡に書かれていた文言で『大地から生まれし炎の御子』ってのがあったろ」
「ドワーフのこと?」
「そうだ。土から火が生まれるってのがなんか、わかるようでわからない感じだったんだが、その炎が岩漿のことを言ってるなら納得できると思って」
「マグマは土からできてるの?」
「んー……というより、大地が溶けたものがマグマと呼ばれる──いや、俺も本で読んだだけで完全には理解できてないが」
「ふぅん。俺はね、海の中にある火山を見たことあるけど、大地が怒ってるみたいだったな」
「ああ、海底にも火山はあるんだったか」
「うん。カイトは見たことない?」
「海のはないな。俺が見たのはドワーフ王国のと南の島の──」
脱線していたことに気づいてカイトとユエが謝りかけたが、ウィノがその必要はないと手で制止の仕草をする。
「たぶんあの『再生の水』をつくるためには、その聖石が大地由来の炎であったことは重要だったはず」
「どういう……?」
「我らが眠っていたアルケーを溶かすために、彼らはその聖石を使ったのでは?」
「っ、ああ、そうだ。普通の火では火力が足りなかったらしい」
「擬似的な三鍵と言ったのはそのため。いや……劣化版の方が正しいかも。三元素が受精したアルケーを元につくられたのが鍵だとすると、空っぽのアルケーに、妖精の血・水・聖石の炎から三元素を後入れしたのが再生の水ということになる」
「人魚の力に対応するのが水で、ドワーフの力は聖石?」
「そう。普通の……」ウィノの指は焚き火に向く。「こういう火ではドワーフの力の代わりにはならなかったはず」
「……聖石を所有する聖会じゃなかったら、再生の水なんてものはできなかったかもしれないってことか」
カイトの呟きには、それを偶然と片付けられない複雑さがにじんでいた。
「カイトのせいじゃないよ」
ユエは唐突に言った。
カイト以外は何の話だと首を傾げているが、言われた本人は正しく受け取った上で、何とも言えない顔でユエの髪をぐしゃっとかき混ぜる。
謎のやりとりを生温かい目で見守っていたウィノは、「我らの延命にも空っぽのアルケーを使った訳だが」と冷静に話を引き戻す。
「からだそのものをひとつの力と考えて、アルケーに吸収させ……この場合は蓄積というより保存──いや、封印の方が近いか」
「封印っていうと」
「今のユエとアスカがからだの中に鍵を封印しているのと原理は同じだが、反転させて、アルケーの中にからだを封印した。……説明すると簡単に聞こえるかもしれないが、実用化できるまで色々と……ほんとうに大変だった」
当時を懐かしむ顔になって、ウィノの表情が柔らかくなる。
しかしそれは一瞬のことで、次にはもう戻れない過去を思い寂しげに顔を伏せた。
「……ドワーフは絶滅し、人魚は純血を捨て生き延び、妖精は延命した──」あえてカイトが事務的にまとめたのは、ウィノの思い出に踏み込まないという配慮だった。「──それで、異変が起こったのはいつだ?」
「……気がついたのは、妖精の鍵が紛失した後。けれど露見したのがその時というだけで、始まりはもっと前──世界に鍵をかけたその時から、すでに崩壊は始まっていたのかもしれない」
「崩壊……?」
不穏な単語に緊張が高まる。
「ある日、空の果てを見に行った兄弟がそれに気づいた。外の世界と箱庭を隔てている、言わば風の壁にできていたのは、歪み」
「歪み?」
「歪みは亀裂に変わり、それは日に日に広がって……今やいつ壊れてもおかしくはない」
「……壊れたら、どうなる?」
「箱庭が壊れる。鍵を使うことなく、なし崩しに扉が開くことになるだろう」
「……ん?でもウィノは鍵を開けるために探していたんだろう?勝手に開くならそれはそれで……そりゃあ、壊れるよりも正規の手順で開けた方がよさそうではあるが……」
外の世界をさほど恐れていないカイトからすればそれほど深刻な事態には思えず、肩透かしを食らった気分だった。
しかしウィノはゆるゆると首を振って、それだけでは済まないと警告を送る。
「問題は、結果ではなく原因。歪みの結果で鍵が開くこと自体は、まだなんとかなる。けれど歪みの原因となっていること──それを放置すれば、最悪、この箱庭は大災害に見舞われる」
「大災害……」
つい先日、地震に遭遇した一同だ。それは何よりも恐怖をかき立てる言葉だった。
「原因は何なんだ?」
「原因は、均衡が崩れていること。三元素の均衡、三種の均衡、そして三鍵の均衡──それはつまり、自然の均衡が崩れていると言い換えることができる」
「自然……だから災害が」
「先日の地震に、三百五十年前の水害」
「……っ!!」
「雪が降らない土地での豪雪、異常な高波、増える台風、豪雨、旱魃、雪崩──」
「そういえば、近年災害が多いという話題を、あちこちで……」
「世界がひとつだった頃にも、もちろん災害は起きていた。けれど鍵をかけてからは確実に規模が大きくなっている。特に……ここ数十年で加速度的に」
ウィノの切迫感が伝わって、息苦しいほど。
一度口を開きかけて、ウィノは何も言えずに閉じた。迷って、また開き、そのまま閉じる。
逡巡しているうちに、台詞をカイトに奪われる。
「鍵を開ければいいんだろう」
それは迷える子羊を導くように、力強く、求心力のある声。
「鍵をかけたことで自然の均衡が崩れたなら、鍵を開ければいい。それだけだ。わかりやすいことで何よりじゃないか」
「……鍵を開ければ、災害は起こらないの?」
怖々と聞くユエに、ウィノは少し迷いながらも「たぶん」と答える。
それから意を決したように続ける。
「現状維持では何も好転しないことだけは確か。考えうる中でもっとも避けなければならないのは、大災害が最後のひと押しになって、なし崩しに扉が開いてしまうこと。そうなると箱庭の中の人々は、災害と外の世界、その両方に同時に立ち向かわなければならなくなる」
「つーかよ」ヘイレンが不敵に笑う。「このまま待っててもどうせ鍵は開いちまうんだろ?選択肢なんてねーじゃねぇか」
「たしかに」アイビスが冷静に分析する。「それに不意に巻き込まれるよりも、こっちで計画的にいつ開けるか決められるなら、心構えできる」
「それなら」クレインも追随する。「他の人にも忠告できるんじゃない?外の世界のことを信じてもらえなくても、何か起こるって思わせるだけでもいいし」
「なるほど」フェザントが納得する。「うさんくさい予言みてぇなもんでも流しちまえばいいのか。実際に見ちまえば、信じるも信じないもねぇしな」
「と、なれば!」ヘロンが拳を突き上げる。「やることは決まったなっ!鍵、開けちゃおうぜ!!」
「その前に」冷静なジェイ。「妖精の鍵を見つけないと」
「あっ」ヘロンに乗せられてはしゃぎかけていたラークが「忘れてた……」と座り直す。
「そうだった!まずは妖精の鍵だなっ!」親指を立てたヘロンが「任せろ!探すの手伝ってやるぜ、ウィノ!!」と偉そうに仁王立ちした。
新たな冒険に向かう希望に満ちた顔たちに見つめられて、ウィノは曖昧に「うん、ありがとう……」と返した。
眠気が一周して、おかしな高揚感に支配されている一行は、その後のウィノの表情を見逃してしまった。
──取り返しのつかないことをした、という、後悔の表情を。
「純血が生き残っているかどうかは、あくまで可能性があるという段階だから……!二千年前に閉じられてから、外の世界を確かめた者はいない」
慌ててウィノが水を差したが、一度沸き上がった期待を萎ませるまでには至らない。
「なーなー!外の世界ってどうなってんの?!どんくらい広いんだ?!」
「大山脈の向こうはやっぱり海なの?!」
「もっといっぱい島があるってこと?!」
「も、もしかして、空飛ぶ島とかもあったり……?」
「えぇーー?!まじかよっ!!あっ、じゃあじゃあ、雲の上には乗れる?!俺、乗ってみてぇーー!!」
ウィノは質問を遡って、ひとつひとつ答えてくれる。
「雲の上には乗れない」
「空飛ぶ島はない」
「島は数え切れないほどある。ここ以外に大陸もある」
「ユエとカイトが見た北の海は内海で、大山脈の向こうには大陸が続いている」
「外の世界は君たちが知る世界の、たぶん十倍以上はあると思う」
「十倍……?!」
それはさすがにカイトやヘイレンにも予想以上だったらしく、ただただ呆気に取られる。
「もちろん私もこの目で見た訳ではなく、先人たちの記憶で知っているだけだけど……」ウィノは周りの反応を楽しむようにちょっと溜めてから、「氷の大陸や海のように広い砂漠、一日中太陽が昇らない土地もあるとか」
焚き火を囲んだ輪に沈黙が落ちる。一体感を演出する沈黙だ。
ウィノを含めた全員が、想像もできない壮大な景色を何とか想像しようとしていた。
「……鍵は」カイトが質問を再開しても、何人かはまだ想像の世界から帰ってきていない。「二千年間、一度も開けられたことはないんだな?」
「ない」
「なぜ?」
「なぜ、か。そう聞かれると……開ける必要を感じなかったから、と答えるしかない」
「平和のために鍵をかけたのに、結局、この箱庭の中でも争いは絶えなかった──その現実を踏まえると、閉じこもり続ける必要もなかったんじゃないか?」
ウィノは少し考えてから、「どちらを選んでも同じなら、現状維持を選ぶものなのでは」と真理をつく。
「そうだな。だが……純血が生まれなくなった、という新たな問題が発生したのなら、話は別だろう」
カイトの発言で、想像に浸っていた何人かも現実へと帰ってくる。そう言えば、話の出発点はそこだったと思い出したのだ。
「いや」ウィノは否定する。「むしろ純血が生まれなくなったことは、保守的な考えを助長することになった」
「どういうことだ?」
「世界に鍵をかけて、およそ五百年経った頃──今から約千五百年前になってようやく、純血の数が減っていることを認めざるを得なくなったのだが、その原因についてははっきり分からず、三種の中で意見が割れることになった」
「原因って……鍵以外にないだろう」
「鍵によって人間が増えたことなのか、鍵によって世界を分断したことなのか、どちらか──」
「……それともその両方か、か?」
「そう。ドワーフはこれを罰だと受け止めた。神の領域を侵した罰──ならば、甘んじて受け入れるべきだと。人魚は生まれ変わりを信じていたことから、人間が増えたことで純血が減ったのだと考えた。純血として生まれるはずの魂が、言い方は悪いが、人間に盗られてしまったのではと」
「ふぅん……その死生観は現在の人魚にも受け継がれているな」
カイトは変なところで感心している。
「そして妖精はこう考えた──世界を分断したことでこの箱庭の中に、純血が生まれるために必要な何かが届かなくなったのではないか、と」
「必要……養分とか?」
「または、精子。アルケーを卵子とした時の、受精に必要な三元素の要素」
「もしくは、アルケーそのもの……いや、アルケーはここにあるか」
妖精が眠る天幕を、カイトはちらっと振り返る。
「アルケーが箱庭の中にも存在することは、後々になって……私が生まれた頃に発見されることになる。これについてはもう少し話を進めてから言及しよう」
ウィノはなるべく時間軸に沿って話を進めるつもりのよう。今はまだ、千五百年前に軸を留める。
「三種間で意見が割れたが、最終的には『鍵は開けない』という方針になった。原因が何であれ危険が大きすぎると、過去の人々は判断した」
ウィノの前には、その判断に共感できていない顔がずらりと並ぶ。
それは当然と言えば当然だ。ここに集まっているのは、現状を打破して突き進んできた冒険者ばかりなのだから。
そんな仲間たちをウィノは眩しそうに見つめ返した。
「君たちみたいに、未知の世界や新たな出会いにワクワクするのは少数派。大多数はやはり、怖いと思うもの」
「怖い、か。まあ、分からなくはないがな」
フェザントが分別くさくうなずくのを、「ビビリだなぁ」とヘロンが笑う。
「いやいや、そりゃ怖いだろうよ。だって外のやつらとは、ケンカ別れしたようなもんだろ?しかも五百年経ってりゃ、実際に外を知ってるやつらはもういない。例えば先祖から……戦争がどうだったとか、外のやつらは人間を認めないとかそういう話ばっか聞かされてたら、悪い印象一色になっちまう」
「あー、そっか」クレインが同意する。「俺たちからすると神話みたいな遠い話だから危機感ないけど、当時の人からすれば、外の純血はまだ敵認定だったのかもね」
「それに」ジェイが考え、考え話す。「もしかしたら……というか絶対、外のやつらには何も知らされずに、鍵は閉められたんだろ?わざわざ敵に教えるはずはないし」
「あ……」何人かが今気づいたと声を上げる。
「外から見れば何が起こったか全く分からないし、混乱するのも当たり前だ。勝手に閉じておいて、今度はある日いきなり開かれたら、混乱のまま攻撃してこないとも限らない」
外からの視点を教えられると、千五百年前の人々が臆病だったとは簡単に言えなくなる。
それぞれの意見をうんうんと聞いていたウィノは、最後に総括する。
「可能性は二通りあって、外の世界でも純血が生まれなくなっているか、もしくはそれは箱庭の中だけの変化なのか──前者なら、鍵を開けても純血が増えることはない。後者の場合、鍵を開ければ純血は増えるが、同時に敵を招き入れることになる。しかも鍵をかけたその時よりも、中と外の戦力差は大きく開いている」
「開けたはいいが、ジェイが言うように混乱のまま攻められて、またすぐに閉めることになっては意味がない、か」
「さらに言えば、人間の間ではすでに、外の世界は伝説扱いに──それも『うさんくさい』が枕詞につく域にまでなっていた。訳もわからず攻撃しかねないのは、中も同じだった」
今度の沈黙は、興奮がプシューッと萎んだ後の意気消沈を表していた。
ウィノがこの話をしたのは、鍵は開けられるのかというカイトの問いに対する、『開けられるけれど開けない』という答えだと受け取ったのだ。
千五百年前に立ちはだかった課題は、現在になっても解決していないどころか、むしろさらに悪化している。今や外の世界の存在など、伝説どころか作り話の中にも出てこないのだから。
「と、いうことは」そのため、この後に続くカイトの言葉も『鍵は開けないということか』とか『俺たちは外の世界を見られないのか』とかそういう類の確認だろうと、仲間たちは予想していた。
ところが、予想は裏切られる。
「純血が生まれなくなる以上の問題が、この箱庭の中で起こったんだな」
「…………?」
「千年前、クリストバル・トリエンテの死が迫っていても、選んだのは現状維持だった……ならば、問題が発生したのはその後か」
「…………??」
「しかも、ウィノが妖精の鍵の発見を急いでいたということは、かなり切羽詰まって、いる?」
「…………???」
「……なんだ、その反応は」
「いや、それ、こっちのセリフなんだけど」
クレインに突っ込まれても、カイトはまだ解せないという顔。本気で、なぜ仲間たちに話が伝わっていないのか理解できていない。
みんな仲良く一緒に首を傾げる。
「だから、ウィノが妖精の鍵を探していたのは、鍵を開けるためなんだろう?ってことは、何か事情が変わって、危険を承知でもそうせざるを得ない状況に追い込まれてるってことぐらい、簡単に推測できる──」
そこまで言っても誰も納得していないことに気づいて、カイトは「おい、ウィノ、そういうことだろ?」と助けを求める。
「うん、そういうこと──なんだけど……」
ウィノの反応は称賛を通り越して、カイトの察しの良さにちょっと引いている。
それでカイトもようやく、自分の秘密主義を省みる。
以前、ウィノから過去の話を聞いた際に持った疑惑や推測を、仲間にも話していなかったことを思い出したのだ。
カイトの中だけで成り立っていた『ウィノが妖精の鍵を探していた』=『鍵を開けるためだった』の図式。カイトなりの根拠はあるのだが、その直観的な思考を他人に伝えることは難しい。
すぐさま諦めて、「この先の話を聞けばわかるだろ」とウィノに押しつけるが、「その前に」とひとりだけ答え合わせをさせてもらう。
「鍵を使うことができるのは、鍵に対応する純血だけ──人魚の鍵は純血の人魚だけが使える──と、いう認識でいいんだよな?」
ウィノは素直にうなずき、「鍵と鍵穴の関係みたいに」といつかカイトも例えたように両者を表現する。
「さらにもうひとつ、確認させてくれ。約二千年前に世界に鍵をかけたというのは、具体的に……鍵をどう使ったんだ?」
「具体的……」
「いや、もうはっきり聞いた方が早いな。純血が人間に変わる時とは違って、世界の鍵をどうこうするためには、三つの鍵全てが必要なんじゃないか?」
「それは……」
「鍵が三本そろうこと──でもそれだけでは足りない。それと同時に、鍵を使うことができる純血も三人そろって初めて、この箱庭を開けることができるんじゃないか?」
ウィノはじっと目を見つめてから、恭しくうなずいた。
「その通り。わたしもやっと、君が辿った思考の道が見えてきた気がする」
カイトも満足そうにうなずいて、答え合わせを終えた。
ここから先はカイトが主導権を握って、ウィノに確認を重ねていくという形式になる。
「千五百年前に選んだのは現状維持だったワケだが、その後、約五百年経ってもう一度選択の機会がやってきた。クリストバル・トリエンテの死だ。ドワーフの純血が絶えればもう鍵を開けることはできなくなるのだから、最終選択に近い」
「それを決める三種会談には、私も参加した。鍵を開けるかどうか──議題に上がることもなく、暗黙の了解のうちに現状維持が決まっていた」
「トリエンテの手記にもそんなようなことが書かれていたな……議論することもなかったのか?」
「鍵をかけて千年。三種にとっても外の世界は伝説になっていた。箱庭の中を『世界』と呼び、この中だけの地図を『世界地図』と呼ぶことに迷いがなくなるほどに。先人の記憶を引き継ぐことができる我らはともかく、ドワーフと人魚は会談より前からこの世界で生きていくことを決め、準備していた」
「準備……そういえば、まだ聞いてなかったな。人魚だけが、姿を保ったまま子孫を残せるようになった変化については」
「あれは……かなり強引なやり方だった」
険のある言い方から、ウィノが反対派だったことがうかがえる。
「鍵を使う時、種の平均化のために三種の力が同量になるよう振り分けられるのが自然なのだが、人魚はその分量を無理やり変えた。ドワーフと妖精の力を最小限にし、人魚の力が最大限残るようにすることで、人魚の能力をなるべく失わないように」
「生殖能力だけを鍵からもらうことはできなかったのか?」
「鍵を使うやり方では、できない。なぜなら鍵は三種の融和を目的につくられたもの。人魚同士でしか子孫を残せないという変化は、その目的に反する」
「なんだか回りくどい言い方だな」そう呟いた直後、カイトは一瞬で閃く。「もしかしてそれは、『鍵を使わないやり方ならできる』って言いたいのか?」
ざわついた中で、ウィノだけは『よくできました』と先生が生徒を褒めるような顔だ。
「そ、そんなことできるの?」
身を乗り出したユエを制して、ウィノは「誤解しないで。そんな方法が現実に確立されている訳ではない」
「え?……えっ?」
「わたしが言いたいのは、同種同士で子どもをつくりたかったのなら、新たな方法をあみ出すべきだったのでは、ということ。鍵を安易に流用するのではなく」
過去の人魚たちに厳しすぎるようにも思えるが、ウィノがこう言うには理由があった。
「三種の力が自然と同量になるのは、それがもっとも安定した状態だから。それをねじ曲げたことで、人魚は不安定な存在になった」
「不安定?」
「一度変化してしまうと、もう元の──純血の状態には戻れなかった。それから、生まれた子孫たちに偏りが出た。圧倒的に、女性の比率が高くなるという……」
今現在の人魚に女性が多いのはそういう理由からだったのか、と初めて知る事実に愕然とする者が多い中、ユエは不思議と開放感を感じていた。
──そうか、方法はひとつじゃないんだ。
鍵にもできないことがあって、そして鍵にはできないからといってそれが不可能かどうかはイコールではないのだ、と視野が広がった気がした。
「ドワーフは人間と同化して、人魚は鍵に手を加えて、箱庭で生きる準備を進めていた……妖精は?」
カイトが話を主軸に戻す。
「鍵を開けないことには消極的な賛成という立場。けれどいざという時のために、知識は残しておかなければと考えた。選んだのは延命」
ここで、メーディセイン突入前に聞かされた話に繋がる。
「延命はいいとして、聞きたいのはさっき先延ばしにしたアルケーのことだな。箱庭の中にもアルケーが存在していることが分かって……?」
「本来目に見えはずのないアルケーが、箱庭の中では結晶化しているのを、ドワーフが発見した」
「あの水晶のような状態はヒトが加工したのではなく、自然と?」
「そう。地下から宝石と同じように発掘された。わたしたちが眠っていたアルケーは、ヒトの手を入れて、小さなものをいくつも統合して大きくしたものだけど」
「もしかしてと思っていたが」カイトが準備していたように懐から取り出したものを見て、「あ……!」見覚えのある八人が声を上げる。
それはベレン領の事件の時に登場した『亜種を見分ける水晶』だった。
「これもアルケーの欠片なんじゃないか?」
カイトの手の上に乗った歪な六角柱──三つは血を吸った赤色、ひとつは透明──をじっくり見て、ウィノは「うん、そう」
「あっ!つーことは──」ウィノの肯定を受けて、ヘイレンも荷物の中から取り出したものを見せる。煮詰まったような赤黒い鉱物──聖石だ。
こちらの判断は早かった。一瞥しただけでウィノは「そう、これも」
これまでの旅が一本の線で繋がっていく。
「これは何を吸収して、こんな色に?」
カイトが持つ赤色の三つを指差して、ウィノが訊く。
「血液だ」
「血?なにがどうすればそんなことに?」
ベレン領で起きたことをざっと説明すると、ウィノは「そう、そうなるの。知らなかった」と目をぱちくりさせた。
ウィノにも知らないことがあるのだという当たり前のことに、ハッと気づかされる。
「じゃあウィノにも、なぜ亜種の血液だけが吸収されるかはわからないんだな?」
「推測はできる。さっきの人魚の話にも通じるけど、亜種というのは三元素の割合が均等ではない人間のことなのだと考えられる。そして普通の人間というのが、三元素が同量で安定している状態」
「ああ、なるほど……血液そのものではなく、血液中の三元素の力を吸収するのか」
「そう。それで人間の中の三元素というのは、三つでひとつとなって強固に結びついている。けれど亜種には余りがある。例えば人魚の亜種なら人魚の力だけが他より多いから、その余りをアルケーが吸収したのだと思う」
「ユエの事例はどう説明する?鍵を使ったユエはその安定した状態に当てはまるんじゃないか?」
「ユエの中に封印されていた人魚の鍵の影響、ということで説明できると思う。鍵は高元素体そのものだから、アルケーが耐え切れずに壊れたのかも」
「……鍵の封印を外してもう一度試してみれば、簡単に証明はできそうだな」と言いながらも、カイトがこの場でそれを提案することはなかったのは、あまり緊急性がないと判断したからだ。
すでに時刻は、夜明けを意識するまでに進んでいる。
これ以上本筋を外れるのはよそうと示し合わせて、カイトとウィノは最終局面に入る。
「どうしてアルケーは結晶化したんだ?」
「これも推測だが、本来なら受精して三種になるはずのアルケーが、何にもなれずに空っぽのまま増えていき、アルケー同士で結合したのではないか、と」
「空っぽだからこそ、外から他の力を吸収できる?」
「そう。透明なものはまだ空っぽ。その聖石のように色が付いたものは、すでに外から吸収済み」
「聖石が吸収したのは、地熱の力で合ってるのか?」
「地熱……我らはドワーフが言うところの岩漿の力だと了承しているが」
「岩漿……ってなに?」
ラークがこそっとフェザントに尋ねる。話の流れを邪魔しないように、という配慮だったが、「なに?!」「聞いたことはあるけど」とヘロンとクレインからも説明を求める声が上がって、フェザントは全体に向けて答えることになった。
「マグマってのは、あれだ、火山でグツグツ燃えてる、あっついドロドロの、地下から噴き出してくる……」
「えー……ぜんぜんわかんねぇんだけど」
そもそも火山を見たことがあるのが少数派で、ここではカイト、フェザント、ヘイレン、ユエだけ。ウィノも引き継いだ記憶の中で知っているにとどまり、説明はカイトに任される。
「……ここでは、地下にある高温の物質って認識だけでいいんじゃないか。だからまあ、地熱ともほとんど同意──ああ、そうか」
おかしなタイミングで何かに気づいたカイトは、「あの炎はこの火なのか」とひとり納得している。
「カイト?」
「いや、ドワーフの遺跡に書かれていた文言で『大地から生まれし炎の御子』ってのがあったろ」
「ドワーフのこと?」
「そうだ。土から火が生まれるってのがなんか、わかるようでわからない感じだったんだが、その炎が岩漿のことを言ってるなら納得できると思って」
「マグマは土からできてるの?」
「んー……というより、大地が溶けたものがマグマと呼ばれる──いや、俺も本で読んだだけで完全には理解できてないが」
「ふぅん。俺はね、海の中にある火山を見たことあるけど、大地が怒ってるみたいだったな」
「ああ、海底にも火山はあるんだったか」
「うん。カイトは見たことない?」
「海のはないな。俺が見たのはドワーフ王国のと南の島の──」
脱線していたことに気づいてカイトとユエが謝りかけたが、ウィノがその必要はないと手で制止の仕草をする。
「たぶんあの『再生の水』をつくるためには、その聖石が大地由来の炎であったことは重要だったはず」
「どういう……?」
「我らが眠っていたアルケーを溶かすために、彼らはその聖石を使ったのでは?」
「っ、ああ、そうだ。普通の火では火力が足りなかったらしい」
「擬似的な三鍵と言ったのはそのため。いや……劣化版の方が正しいかも。三元素が受精したアルケーを元につくられたのが鍵だとすると、空っぽのアルケーに、妖精の血・水・聖石の炎から三元素を後入れしたのが再生の水ということになる」
「人魚の力に対応するのが水で、ドワーフの力は聖石?」
「そう。普通の……」ウィノの指は焚き火に向く。「こういう火ではドワーフの力の代わりにはならなかったはず」
「……聖石を所有する聖会じゃなかったら、再生の水なんてものはできなかったかもしれないってことか」
カイトの呟きには、それを偶然と片付けられない複雑さがにじんでいた。
「カイトのせいじゃないよ」
ユエは唐突に言った。
カイト以外は何の話だと首を傾げているが、言われた本人は正しく受け取った上で、何とも言えない顔でユエの髪をぐしゃっとかき混ぜる。
謎のやりとりを生温かい目で見守っていたウィノは、「我らの延命にも空っぽのアルケーを使った訳だが」と冷静に話を引き戻す。
「からだそのものをひとつの力と考えて、アルケーに吸収させ……この場合は蓄積というより保存──いや、封印の方が近いか」
「封印っていうと」
「今のユエとアスカがからだの中に鍵を封印しているのと原理は同じだが、反転させて、アルケーの中にからだを封印した。……説明すると簡単に聞こえるかもしれないが、実用化できるまで色々と……ほんとうに大変だった」
当時を懐かしむ顔になって、ウィノの表情が柔らかくなる。
しかしそれは一瞬のことで、次にはもう戻れない過去を思い寂しげに顔を伏せた。
「……ドワーフは絶滅し、人魚は純血を捨て生き延び、妖精は延命した──」あえてカイトが事務的にまとめたのは、ウィノの思い出に踏み込まないという配慮だった。「──それで、異変が起こったのはいつだ?」
「……気がついたのは、妖精の鍵が紛失した後。けれど露見したのがその時というだけで、始まりはもっと前──世界に鍵をかけたその時から、すでに崩壊は始まっていたのかもしれない」
「崩壊……?」
不穏な単語に緊張が高まる。
「ある日、空の果てを見に行った兄弟がそれに気づいた。外の世界と箱庭を隔てている、言わば風の壁にできていたのは、歪み」
「歪み?」
「歪みは亀裂に変わり、それは日に日に広がって……今やいつ壊れてもおかしくはない」
「……壊れたら、どうなる?」
「箱庭が壊れる。鍵を使うことなく、なし崩しに扉が開くことになるだろう」
「……ん?でもウィノは鍵を開けるために探していたんだろう?勝手に開くならそれはそれで……そりゃあ、壊れるよりも正規の手順で開けた方がよさそうではあるが……」
外の世界をさほど恐れていないカイトからすればそれほど深刻な事態には思えず、肩透かしを食らった気分だった。
しかしウィノはゆるゆると首を振って、それだけでは済まないと警告を送る。
「問題は、結果ではなく原因。歪みの結果で鍵が開くこと自体は、まだなんとかなる。けれど歪みの原因となっていること──それを放置すれば、最悪、この箱庭は大災害に見舞われる」
「大災害……」
つい先日、地震に遭遇した一同だ。それは何よりも恐怖をかき立てる言葉だった。
「原因は何なんだ?」
「原因は、均衡が崩れていること。三元素の均衡、三種の均衡、そして三鍵の均衡──それはつまり、自然の均衡が崩れていると言い換えることができる」
「自然……だから災害が」
「先日の地震に、三百五十年前の水害」
「……っ!!」
「雪が降らない土地での豪雪、異常な高波、増える台風、豪雨、旱魃、雪崩──」
「そういえば、近年災害が多いという話題を、あちこちで……」
「世界がひとつだった頃にも、もちろん災害は起きていた。けれど鍵をかけてからは確実に規模が大きくなっている。特に……ここ数十年で加速度的に」
ウィノの切迫感が伝わって、息苦しいほど。
一度口を開きかけて、ウィノは何も言えずに閉じた。迷って、また開き、そのまま閉じる。
逡巡しているうちに、台詞をカイトに奪われる。
「鍵を開ければいいんだろう」
それは迷える子羊を導くように、力強く、求心力のある声。
「鍵をかけたことで自然の均衡が崩れたなら、鍵を開ければいい。それだけだ。わかりやすいことで何よりじゃないか」
「……鍵を開ければ、災害は起こらないの?」
怖々と聞くユエに、ウィノは少し迷いながらも「たぶん」と答える。
それから意を決したように続ける。
「現状維持では何も好転しないことだけは確か。考えうる中でもっとも避けなければならないのは、大災害が最後のひと押しになって、なし崩しに扉が開いてしまうこと。そうなると箱庭の中の人々は、災害と外の世界、その両方に同時に立ち向かわなければならなくなる」
「つーかよ」ヘイレンが不敵に笑う。「このまま待っててもどうせ鍵は開いちまうんだろ?選択肢なんてねーじゃねぇか」
「たしかに」アイビスが冷静に分析する。「それに不意に巻き込まれるよりも、こっちで計画的にいつ開けるか決められるなら、心構えできる」
「それなら」クレインも追随する。「他の人にも忠告できるんじゃない?外の世界のことを信じてもらえなくても、何か起こるって思わせるだけでもいいし」
「なるほど」フェザントが納得する。「うさんくさい予言みてぇなもんでも流しちまえばいいのか。実際に見ちまえば、信じるも信じないもねぇしな」
「と、なれば!」ヘロンが拳を突き上げる。「やることは決まったなっ!鍵、開けちゃおうぜ!!」
「その前に」冷静なジェイ。「妖精の鍵を見つけないと」
「あっ」ヘロンに乗せられてはしゃぎかけていたラークが「忘れてた……」と座り直す。
「そうだった!まずは妖精の鍵だなっ!」親指を立てたヘロンが「任せろ!探すの手伝ってやるぜ、ウィノ!!」と偉そうに仁王立ちした。
新たな冒険に向かう希望に満ちた顔たちに見つめられて、ウィノは曖昧に「うん、ありがとう……」と返した。
眠気が一周して、おかしな高揚感に支配されている一行は、その後のウィノの表情を見逃してしまった。
──取り返しのつかないことをした、という、後悔の表情を。
応援ありがとうございます!
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