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第二章 十字行路に風は吹く
13 十字行路
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十字行路はその名の通り、大陸を十字に走る最も主要な街道だ。
南北路は、北の大山脈の麓から、南の海までを、ほぼ大陸の中央を通って繋ぐ。東西路は南寄りを横断している。
東西に長い大陸は、その行路によって、大きく四つの地域に分かれる。その区切りがそのまま、文化や風習の区分とも重なっている。
クウェイルの領地があるのは南東部だ。そこは小さな島が多く、温暖で雨が多い地域だ。暮らす人々も比較的大らかだと言える。
オークション会場があったのは南西部。その地域は未だ奴隷制が残る国が多い。亜種や多種への差別も激しく、男女の差や貧富の差も激しい。
そしてフェザントの故郷があるのが、北東部。そこでも海沿いと内地でかなりの貧富の差があった。豊かな土地のある内部が、十字行路の恩恵もあって潤う一方、海沿いと大山脈沿いは、枯れた土地と寒冷な気候によって、これといった主要産業がなかった。しかしそれも、ある国とドワーフの技術力によって、変わりつつある。
最後の南西部は、地図で区切れば、最も豊かと言っていい。その豊かさの半分を担うと言われているのが、今から一行が向かう、ベレン卿である。
******
「今日はここまでだ。野営の準備をするぞ」
一行はまず、十字行路を目指して西へ向かっている。クウェイルの領地から十字行路に出るには、まだ整備されていない道やそれこそ馬には向かない悪路も通らなければならない。
しかしその分、人目につかないことと野宿には困らないことは、一行にとっては歓迎すべき点だ。
「ジェイとクレインは狩りを、ラークとヘロンは薪を集めてくれ。残りで天幕を張る」
アイビスの指示で、それぞれ動き始める。
一人だけ、ユエは何をしていいか分からず途方に暮れる。こういう時ユエはまだ、自分がこの一行において異物だと感じるのだ。
見かねたフェザントが細かく指示をくれて、やっと動くことができたが、無事天幕を張り終えた三人が、言葉もなく次の行動に移る中、またもユエだけは止まる。
「……ユエ、水を汲みに行くのに、付き合ってくれ」
「あっ、ああ」
カイトに誘われ、ほっと息をつく。
身軽な旅は、水や食料を現地調達することで成り立っている。そのため水辺の把握は死活問題なのだが、一行はそれを難なくこなしている。
人数分の革袋と鍋を持って森を進むが、ユエには自分がどの方向に向かっているのかも分からない。
カイトは道々、「これは食べられる」「これは毒だ」「これは薬になる」と、木の実やキノコや草を指しては、いくつかを採取する。それを覚えさせるようにユエに持たせた。
小さな川に出ると鍋と八つの革袋を水で満たす。その全てを、重さを感じさせないように一人で持つから、ユエは自分が一緒に来た意味を見つけられない。
「……陸の旅には、慣れたか?」
ユエの気持ちを見透かしたように、水面を睨みながらカイトが聞く。
「……少しは」
ユエにとっては全てが初めての体験だった。
馬に驚き、連なる木々に驚き、海とは違う水に驚く。
「……世界は広い」
ユエの率直な感想に、カイトは少し笑う。
「歩くことにも、ずいぶんと慣れたな」
足場の悪い森をここまで、とりあえず一人で歩けたことに、ユエも安堵していた。だがまだ走ることは難しいし、『歩く』ことに違和感を拭えない。
「もっと時間がかかると思っていたが……メイのところで練習したのか?」
「……足手まといは、いやだ」
誰も見ていないところで何度も転んだことも、全て知られているようで、少しバツが悪い。言い訳するように、自分の努力を隠した。
また少し笑ったカイトは次の瞬間、いきなり短剣を水面に放って、ユエを驚かせる。いつの間に結んだのか、短剣の柄にはヒモがくくられていて、それをぐっと引くと、その先に今息絶えたばかりの魚がひくひくと動いている。
「何匹かいる。少し待っていろ」
そう言って、さっきまでの会話を忘れたように魚に集中するカイトを、ユエは川辺に座って眺めた。
自分より頭一つ高い背、漆黒の髪に濡羽色の瞳、少し焼けた肌には、至るところに傷があることを、ユエは知っている。
馬に乗っている間、ずっとあの背中に抱きついていた。カイトの体温は、人魚の時には熱いと思ったが、今では体に馴染むように温かい。
手を胸に回すと、ドクンドクン……と鼓動が伝わり、(ああ、ちゃんと生きているんだな)と妙に安心した。
ユエが知っている人間なんて、それこそ数えるほどしかいないが、その中でもカイトが特別な人間だという感覚はあった。それは異質とも、不思議とも言い換えることができる。
一行の中では、背丈ならばジェイが一番高く、体格ならフェザントが一番いい。なのにカイトの方が大きく見える。
よく話すのはアイビスやヘロンなのに、カイトの方が存在感がある。
ユエの面倒を見てくれるのは、船の上ではラーク、今はフェザントやクレインが気にかけてくれるが、カイトの絶対感は揺るがない。
おそらく外見が目立つのは、自分とクレインなのだろうということは、メイやその他の話を聞いてユエにもなんとなく分かった。
ヘロンがメイのところで、
「人魚って美形ばっかりなのか?」
と聞いてきたことを思えば、自分やメイ、人魚の亜種であるクレインは『美形』なのだろうと。
それからアイビスやジェイも、旅路での女性の反応を見ると、彼らの見目がいいことも分かる。
その中で、カイトはどちらかと言えば、『普通』だ。不細工だとか造作が悪い訳ではないだろうが、一目で女性が寄ってくるような派手さはない。
それなのに──一緒にいればいるほど、カイトから目が離せなくなる。彼の周りに、光が飛んでいるように。吸引力、のようなものがある。
だが一方で、今度は近づき過ぎると、目が眩んで闇に変わるように、恐ろしくなるのだ。
「人数分は無理だった」
しかし魚を掲げる姿は、そんなことを窺わせない、ごく普通の青年にしか見えない。
ぼうっと見るともなく眺めていたユエは、カイトに話しかけられ、現実に引き戻された。
******
食事は旅とは思えないほど豪勢だった。
クレインとジェイが獲った鳥が焼かれ、カイトが獲った魚とキノコがスープになり、最後には果物をかじる。
ユエはまだ鳥肉は食べられなかったが、魚が煮込まれたスープには口をつけた。カイトの忠告を心に留め、なるべく人間の食事に近づけようと。火が通って形が崩れた魚は、思ったより抵抗なく栄養になったようだった。
この辺りで野宿することは、虫との戦いである。天幕の中で虫が嫌がる草を燻し、追い払うことを忘れてはならない。
そうして寝転がったが、やはり寝心地がいいとはとても言えず、慣れないユエはなかなか寝付けない。
ヘロンの大きないびきとその他の寝息を聞きながら、何度も寝返りをうつ間に、隣でいの一番に動かなくなったカイトが、音も出さずに起き上がって、天幕を出て行った。
少しして入れ違いにジェイが入って来た。身を縮めて横になったクレインの顔を覗き込んで、よく寝ているのを確認してから、その隣に背中を合わせるように体を横たえた。
見張りの交代だ。
ザワザワザワ……。
外は風が吹いているのか、葉が踊る音が絶えない。しかしユエにとってはそれが、とても恐ろしく感じられた。何か怖いものが、大勢で群れをなして、自分たちを取り囲んでいるように。
カイトの姿が見えなくなって、一層音が耳につく。その上、カイトの体温が消えたからか、隙間風が身を冷やす。
ギュッと目をつむってやり過ごそうとしてみたが、どうにもならない。
ユエは静かに身を起こし、天幕を出た。
たき火の薪を足していたカイトは、すぐにユエの姿に気づき、手招きする。
「眠れないか?」
子どもみたいだと自覚のあったユエは、素直に傍に行くことに足踏みしたが、その時、ザーーーーッと渦巻くように風が過ぎる。それにビクッと肩を揺らし、矜恃など捨ててすぐさまカイトの隣に転げるように飛び込んだ。
風に吹かれる木々は、たき火の明かりにゆらゆら揺れて、それが余計に得体の知れないものに見せた。
「……風がうるさいか?」
自分の腕に巻きついた華奢な背中に、カイトは苦笑を送る。
「……さむい」
そう憮然と呟くのを、声を出さず笑って、立てた膝の間にユエを抱き込んだ。横向きに座らせて、自分の肩に羽織っていた上着をユエの肩に移し、それごと抱え込む。
「人魚は暑さには弱いが、寒さはあまり感じないからな。人間の体になって、まだ慣れないのかもしれない」
ユエには確かに体感的な寒さもあったが、それより心情的な心細さからも、そう感じていた。
だからこそ、カイトの腕の中に入った途端、さっきまでの震えは止んでいた。しかしカイトがそう言うのをいいことに、居心地のいい体温を享受することにした。
カイトの体温は不思議だった。
おそらく人間にしては体温が低いのだろう。しかしそれが、ユエには馴染む。触れていると安心するのだ。
それは泰然とした態度や、鍛えられた体躯にもよるのかもしれない。
剣ダコでごつごつした手を、自分の頰に擦りつけてみる。少しひんやりと感じ、不思議になって手で色々と弄っていると、「なんだ?」と問われる。
「手、冷たい」
「外の空気に触れているからな」
「頰で触るのと、手で触るのと、温度が違うみたい」
ユエがさも奇怪そうに自分の手をまじまじと見てくるから、カイトは可笑しくなる。
「それはお前の頰が手より温かいからだ。俺の手の温度は変わらない」
今度は己の手を見て、「そうなのか」と納得した。(そう言えば、自分の手でも、頰を触ると冷たく感じる)
人魚の姿だった時は、自分の手と頰の温度が違うことを感じることなどなかった。人魚にとっては、海の温度が全て。それがそのまま自分の体温だった。太陽に直接当たれば熱いと感じるが、それも海中では感じなくなる。
(俺は自分のことも知らない。まして世界のことなんて……)
ユエは無知を恥じる気持ちはあった。しかしそれ以上に、『知りたい』という気持ちが上回り、素直に知らないことを知らないと言い、教えてもらうことに気後れはなかった。そういう素直さが、彼を無防備に見せる。
だがユエも、人は嘘をつくことも、間違えることがあることも知っているから、聞いたままを鵜呑みにする気はない。自分の目で確かめ、自分で考えること、それはメイからも教えられたことだった。
カイトの手を握ったまま、久しぶりに二人きりになったこの状況で、彼にしか言えない弱音が漏れる。
「俺、本当に海に帰れるかな……?」
「戻りたいのか?」
「えっ……」
だがカイトは欲しい言葉を簡単にくれない。顔を見上げると、皮肉やからかいではない、真摯な目に当たる。
「……お前はなぜ、陸に近づいた?」
「……っ」
人魚の生活圏には、今はまだ人間の造船技術では辿り着けない。ユエが自分からその安全圏を出て来なければ、人間に捕まることもなかったと、カイトには最初から分かっていた。
それをあえて今聞いたのは、ユエの真意をはっきりさせておきたかったからだ。ただの好奇心なのか、何か目的があったのか。
カイトはこれまでは、ただの好奇心で若い人魚が無茶をしたくらいに考えていた。度胸試しなのか、本当に何の考えもなかったのか。しかしユエを知るにつれて、彼がそんな浅慮な行動をとるようには見えなくなってきたのだ。
だがユエは、自分の軽々しい行動が非難されているように感じ、恥を覚えながら小さな声で答える。
「……知りたくて」
「何を?」
「世界を……海以外の場所を……」
それは自分でも、身の危険と引き換えにするほどの理由として釣り合いが取れないことは分かってはいた。
人間に捕まってから何度も、自分の認識の甘さを反省した。だがもし、どんな危険があるのか正確に把握していたとしても、自重できただろうか?、とユエは思うのだ。
あれは衝動だった。
流れない水が腐っていくように、このままでは自分がそうなるのではないかという焦燥が、あの時のユエを突き動かしたのだ。
だがそれはユエにしか分からない、いや、自分自身でも上手く説明できない感情だったから、まして他の人にはただの浅慮にしか見えないことはしょうがないと、自嘲する。
「バカだと思ってるんだろう?結局捕まって……自業自得だって……」
カイトの非難を覚悟してそう言うと、
「まさか。現状を変えたいと思っていながら、何の行動も起こさないよりは、はるかに意味はある」
まさか褒められるとは思ってもいなかったユエは面食らう。
「でも……面倒なことになった、とか思ってる、だろ?」
自分一人の問題で済むならよかったが、もうカイトたちやメイまでも巻き込んでしまっている。
「……変な話だが、俺はお前が人間に捕まってくれて、感謝しているくらいだぞ」
「え……?」
「おかげでずっと探していた『鍵』を拝むことができた──もしかしたらこれが、俺の望みにやっと繋がるかもしれない……」
風に消えていった後半は、ユエの耳には届かなかった。しかしカイトの、希望と絶望が入り混じった複雑な表情に、どこか不安を覚えずにはいられなかった。
南北路は、北の大山脈の麓から、南の海までを、ほぼ大陸の中央を通って繋ぐ。東西路は南寄りを横断している。
東西に長い大陸は、その行路によって、大きく四つの地域に分かれる。その区切りがそのまま、文化や風習の区分とも重なっている。
クウェイルの領地があるのは南東部だ。そこは小さな島が多く、温暖で雨が多い地域だ。暮らす人々も比較的大らかだと言える。
オークション会場があったのは南西部。その地域は未だ奴隷制が残る国が多い。亜種や多種への差別も激しく、男女の差や貧富の差も激しい。
そしてフェザントの故郷があるのが、北東部。そこでも海沿いと内地でかなりの貧富の差があった。豊かな土地のある内部が、十字行路の恩恵もあって潤う一方、海沿いと大山脈沿いは、枯れた土地と寒冷な気候によって、これといった主要産業がなかった。しかしそれも、ある国とドワーフの技術力によって、変わりつつある。
最後の南西部は、地図で区切れば、最も豊かと言っていい。その豊かさの半分を担うと言われているのが、今から一行が向かう、ベレン卿である。
******
「今日はここまでだ。野営の準備をするぞ」
一行はまず、十字行路を目指して西へ向かっている。クウェイルの領地から十字行路に出るには、まだ整備されていない道やそれこそ馬には向かない悪路も通らなければならない。
しかしその分、人目につかないことと野宿には困らないことは、一行にとっては歓迎すべき点だ。
「ジェイとクレインは狩りを、ラークとヘロンは薪を集めてくれ。残りで天幕を張る」
アイビスの指示で、それぞれ動き始める。
一人だけ、ユエは何をしていいか分からず途方に暮れる。こういう時ユエはまだ、自分がこの一行において異物だと感じるのだ。
見かねたフェザントが細かく指示をくれて、やっと動くことができたが、無事天幕を張り終えた三人が、言葉もなく次の行動に移る中、またもユエだけは止まる。
「……ユエ、水を汲みに行くのに、付き合ってくれ」
「あっ、ああ」
カイトに誘われ、ほっと息をつく。
身軽な旅は、水や食料を現地調達することで成り立っている。そのため水辺の把握は死活問題なのだが、一行はそれを難なくこなしている。
人数分の革袋と鍋を持って森を進むが、ユエには自分がどの方向に向かっているのかも分からない。
カイトは道々、「これは食べられる」「これは毒だ」「これは薬になる」と、木の実やキノコや草を指しては、いくつかを採取する。それを覚えさせるようにユエに持たせた。
小さな川に出ると鍋と八つの革袋を水で満たす。その全てを、重さを感じさせないように一人で持つから、ユエは自分が一緒に来た意味を見つけられない。
「……陸の旅には、慣れたか?」
ユエの気持ちを見透かしたように、水面を睨みながらカイトが聞く。
「……少しは」
ユエにとっては全てが初めての体験だった。
馬に驚き、連なる木々に驚き、海とは違う水に驚く。
「……世界は広い」
ユエの率直な感想に、カイトは少し笑う。
「歩くことにも、ずいぶんと慣れたな」
足場の悪い森をここまで、とりあえず一人で歩けたことに、ユエも安堵していた。だがまだ走ることは難しいし、『歩く』ことに違和感を拭えない。
「もっと時間がかかると思っていたが……メイのところで練習したのか?」
「……足手まといは、いやだ」
誰も見ていないところで何度も転んだことも、全て知られているようで、少しバツが悪い。言い訳するように、自分の努力を隠した。
また少し笑ったカイトは次の瞬間、いきなり短剣を水面に放って、ユエを驚かせる。いつの間に結んだのか、短剣の柄にはヒモがくくられていて、それをぐっと引くと、その先に今息絶えたばかりの魚がひくひくと動いている。
「何匹かいる。少し待っていろ」
そう言って、さっきまでの会話を忘れたように魚に集中するカイトを、ユエは川辺に座って眺めた。
自分より頭一つ高い背、漆黒の髪に濡羽色の瞳、少し焼けた肌には、至るところに傷があることを、ユエは知っている。
馬に乗っている間、ずっとあの背中に抱きついていた。カイトの体温は、人魚の時には熱いと思ったが、今では体に馴染むように温かい。
手を胸に回すと、ドクンドクン……と鼓動が伝わり、(ああ、ちゃんと生きているんだな)と妙に安心した。
ユエが知っている人間なんて、それこそ数えるほどしかいないが、その中でもカイトが特別な人間だという感覚はあった。それは異質とも、不思議とも言い換えることができる。
一行の中では、背丈ならばジェイが一番高く、体格ならフェザントが一番いい。なのにカイトの方が大きく見える。
よく話すのはアイビスやヘロンなのに、カイトの方が存在感がある。
ユエの面倒を見てくれるのは、船の上ではラーク、今はフェザントやクレインが気にかけてくれるが、カイトの絶対感は揺るがない。
おそらく外見が目立つのは、自分とクレインなのだろうということは、メイやその他の話を聞いてユエにもなんとなく分かった。
ヘロンがメイのところで、
「人魚って美形ばっかりなのか?」
と聞いてきたことを思えば、自分やメイ、人魚の亜種であるクレインは『美形』なのだろうと。
それからアイビスやジェイも、旅路での女性の反応を見ると、彼らの見目がいいことも分かる。
その中で、カイトはどちらかと言えば、『普通』だ。不細工だとか造作が悪い訳ではないだろうが、一目で女性が寄ってくるような派手さはない。
それなのに──一緒にいればいるほど、カイトから目が離せなくなる。彼の周りに、光が飛んでいるように。吸引力、のようなものがある。
だが一方で、今度は近づき過ぎると、目が眩んで闇に変わるように、恐ろしくなるのだ。
「人数分は無理だった」
しかし魚を掲げる姿は、そんなことを窺わせない、ごく普通の青年にしか見えない。
ぼうっと見るともなく眺めていたユエは、カイトに話しかけられ、現実に引き戻された。
******
食事は旅とは思えないほど豪勢だった。
クレインとジェイが獲った鳥が焼かれ、カイトが獲った魚とキノコがスープになり、最後には果物をかじる。
ユエはまだ鳥肉は食べられなかったが、魚が煮込まれたスープには口をつけた。カイトの忠告を心に留め、なるべく人間の食事に近づけようと。火が通って形が崩れた魚は、思ったより抵抗なく栄養になったようだった。
この辺りで野宿することは、虫との戦いである。天幕の中で虫が嫌がる草を燻し、追い払うことを忘れてはならない。
そうして寝転がったが、やはり寝心地がいいとはとても言えず、慣れないユエはなかなか寝付けない。
ヘロンの大きないびきとその他の寝息を聞きながら、何度も寝返りをうつ間に、隣でいの一番に動かなくなったカイトが、音も出さずに起き上がって、天幕を出て行った。
少しして入れ違いにジェイが入って来た。身を縮めて横になったクレインの顔を覗き込んで、よく寝ているのを確認してから、その隣に背中を合わせるように体を横たえた。
見張りの交代だ。
ザワザワザワ……。
外は風が吹いているのか、葉が踊る音が絶えない。しかしユエにとってはそれが、とても恐ろしく感じられた。何か怖いものが、大勢で群れをなして、自分たちを取り囲んでいるように。
カイトの姿が見えなくなって、一層音が耳につく。その上、カイトの体温が消えたからか、隙間風が身を冷やす。
ギュッと目をつむってやり過ごそうとしてみたが、どうにもならない。
ユエは静かに身を起こし、天幕を出た。
たき火の薪を足していたカイトは、すぐにユエの姿に気づき、手招きする。
「眠れないか?」
子どもみたいだと自覚のあったユエは、素直に傍に行くことに足踏みしたが、その時、ザーーーーッと渦巻くように風が過ぎる。それにビクッと肩を揺らし、矜恃など捨ててすぐさまカイトの隣に転げるように飛び込んだ。
風に吹かれる木々は、たき火の明かりにゆらゆら揺れて、それが余計に得体の知れないものに見せた。
「……風がうるさいか?」
自分の腕に巻きついた華奢な背中に、カイトは苦笑を送る。
「……さむい」
そう憮然と呟くのを、声を出さず笑って、立てた膝の間にユエを抱き込んだ。横向きに座らせて、自分の肩に羽織っていた上着をユエの肩に移し、それごと抱え込む。
「人魚は暑さには弱いが、寒さはあまり感じないからな。人間の体になって、まだ慣れないのかもしれない」
ユエには確かに体感的な寒さもあったが、それより心情的な心細さからも、そう感じていた。
だからこそ、カイトの腕の中に入った途端、さっきまでの震えは止んでいた。しかしカイトがそう言うのをいいことに、居心地のいい体温を享受することにした。
カイトの体温は不思議だった。
おそらく人間にしては体温が低いのだろう。しかしそれが、ユエには馴染む。触れていると安心するのだ。
それは泰然とした態度や、鍛えられた体躯にもよるのかもしれない。
剣ダコでごつごつした手を、自分の頰に擦りつけてみる。少しひんやりと感じ、不思議になって手で色々と弄っていると、「なんだ?」と問われる。
「手、冷たい」
「外の空気に触れているからな」
「頰で触るのと、手で触るのと、温度が違うみたい」
ユエがさも奇怪そうに自分の手をまじまじと見てくるから、カイトは可笑しくなる。
「それはお前の頰が手より温かいからだ。俺の手の温度は変わらない」
今度は己の手を見て、「そうなのか」と納得した。(そう言えば、自分の手でも、頰を触ると冷たく感じる)
人魚の姿だった時は、自分の手と頰の温度が違うことを感じることなどなかった。人魚にとっては、海の温度が全て。それがそのまま自分の体温だった。太陽に直接当たれば熱いと感じるが、それも海中では感じなくなる。
(俺は自分のことも知らない。まして世界のことなんて……)
ユエは無知を恥じる気持ちはあった。しかしそれ以上に、『知りたい』という気持ちが上回り、素直に知らないことを知らないと言い、教えてもらうことに気後れはなかった。そういう素直さが、彼を無防備に見せる。
だがユエも、人は嘘をつくことも、間違えることがあることも知っているから、聞いたままを鵜呑みにする気はない。自分の目で確かめ、自分で考えること、それはメイからも教えられたことだった。
カイトの手を握ったまま、久しぶりに二人きりになったこの状況で、彼にしか言えない弱音が漏れる。
「俺、本当に海に帰れるかな……?」
「戻りたいのか?」
「えっ……」
だがカイトは欲しい言葉を簡単にくれない。顔を見上げると、皮肉やからかいではない、真摯な目に当たる。
「……お前はなぜ、陸に近づいた?」
「……っ」
人魚の生活圏には、今はまだ人間の造船技術では辿り着けない。ユエが自分からその安全圏を出て来なければ、人間に捕まることもなかったと、カイトには最初から分かっていた。
それをあえて今聞いたのは、ユエの真意をはっきりさせておきたかったからだ。ただの好奇心なのか、何か目的があったのか。
カイトはこれまでは、ただの好奇心で若い人魚が無茶をしたくらいに考えていた。度胸試しなのか、本当に何の考えもなかったのか。しかしユエを知るにつれて、彼がそんな浅慮な行動をとるようには見えなくなってきたのだ。
だがユエは、自分の軽々しい行動が非難されているように感じ、恥を覚えながら小さな声で答える。
「……知りたくて」
「何を?」
「世界を……海以外の場所を……」
それは自分でも、身の危険と引き換えにするほどの理由として釣り合いが取れないことは分かってはいた。
人間に捕まってから何度も、自分の認識の甘さを反省した。だがもし、どんな危険があるのか正確に把握していたとしても、自重できただろうか?、とユエは思うのだ。
あれは衝動だった。
流れない水が腐っていくように、このままでは自分がそうなるのではないかという焦燥が、あの時のユエを突き動かしたのだ。
だがそれはユエにしか分からない、いや、自分自身でも上手く説明できない感情だったから、まして他の人にはただの浅慮にしか見えないことはしょうがないと、自嘲する。
「バカだと思ってるんだろう?結局捕まって……自業自得だって……」
カイトの非難を覚悟してそう言うと、
「まさか。現状を変えたいと思っていながら、何の行動も起こさないよりは、はるかに意味はある」
まさか褒められるとは思ってもいなかったユエは面食らう。
「でも……面倒なことになった、とか思ってる、だろ?」
自分一人の問題で済むならよかったが、もうカイトたちやメイまでも巻き込んでしまっている。
「……変な話だが、俺はお前が人間に捕まってくれて、感謝しているくらいだぞ」
「え……?」
「おかげでずっと探していた『鍵』を拝むことができた──もしかしたらこれが、俺の望みにやっと繋がるかもしれない……」
風に消えていった後半は、ユエの耳には届かなかった。しかしカイトの、希望と絶望が入り混じった複雑な表情に、どこか不安を覚えずにはいられなかった。
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