熱烈に溺愛してくる主任の手綱が握れません!(R15版)

矢崎未紗

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第01話 助けて! 主任の様子がおかしいです(上)

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 あの日のことはよく憶えている。趣味で集めているタイバーのひとつを紛失してしまった日なのだ。ネクタイを留めるための装具であるタイバーのクリップは長期間使うと弾力が弱まって落ちやすくなるので、きっとどこかで落ちてしまったのだろう。仕方のないこととはいえ、まるで絵の具のパレットのようにカラフルな石が複数はめ込まれたシルバーのそのタイバーはなかなかに気に入っていたので、午後の勤務が始まってしばらく経った頃にタイバーがなくなっていることに気付いた時は、とても落胆した。しかしその日、そんな落胆をものすごい勢いで上塗りする出逢いがあったのだ。

 主に企業向けの事務用品通販を手掛ける会社の経理部決算課の若き主任として働く三十一歳の伊達聡介の職場は、そこそこ年季の入ったオフィスビルの五階だ。同じフロアにはほかの組織も入っており、ブルーのパーティションを挟んだ隣のエリアにはオペレーション部の受注管理課と配送管理課の従業員たちがいる。
 今年、聡介のいる決算課に新入社員は配属されなかったが、同じ経理部の会計課や、隣のオペレーション部には今年も何名かの新人が配属となり、基礎研修を終えた新人たちが各部署に着任したのがその日だった。
 新人が来ない決算課の聡介としてはよその部署の新人たちにそれほど興味はなく、朝から淡々と仕事をしていた。しかしタイバーの紛失に気付いたあと、フロアの端にある休憩室からデスクに戻るその途中で一人の女性社員とすれ違った聡介の呼吸は止まった。なくしたタイバーのことさえ一瞬で頭の中から吹き飛ぶほどに、聡介の視線はその女性社員に釘付けになった。

 リクルートスーツに着られているような初々しさからして、オペレーション部に配属になったばかりの新入社員で間違いないだろう。まだ学生らしいわずかな幼さが見えるが、ふんわりと丸みのあるボブヘアに、すぐに泣き出してしまいそうに見える潤んだ瞳。身長百八十八センチメートルの長身の聡介と違って、女性の中でもずいぶん小柄に見える華奢な身長。慣れない場所をどことなくびくびく、おどおどしながら歩いている不安そうな雰囲気がなんとも心配で、この手で囲って守ってやりたいと聡介は自然と思った。
 タイバーのことなどすっかり気にならなくなった聡介は、ひとまずデスクに戻った。しかし画面に映る経理データの羅列や決算資料を見ても何も頭には入ってこず、仕事が手に付かない。くるりと背後を振り向いて先ほどの女性社員をもう一度見ようかと思ったが、あいにくとデスクとデスクの間には組織の違いを示すためのパーティションがあり、オペレーション部の方の様子はうかがえなかった。

「伊達主任、先ほど来たメールの件なんですけど」
「え……」
「もう見ました?」
「いや……まだですね」

 後輩であり聡介が率いるチームの一員である前園が話しかけてくるが、聡介はどこか上の空で返事をした。
 タイバーをなくしたからなのか、それとも隣の部署に配属された新入社員の女性があまりにもかわいかったからなのか、この日を境に聡介は斜め上方向に壊れてしまった。


   ◆◇◆◇◆


「ちょっと聞きなさいよ、前園くん」
「はい……」

 ハイボールを片手に、前園卓也は諦めの表情で頷いた。
 梅雨もすっかり過ぎ去り、厳しい暑さが身体にこたえる頃。前園は若き主任である伊達聡介に誘われてサシ飲みをしていた。
 社会人八年目の三十歳という若さで主任に昇格した聡介のチームに前園が入ったのは去年のこと。四歳年上の聡介はテキパキと仕事をこなす人で、厄介な揉め事が起きた際もしっかりと解決の筋道を立てて指示を出してくれるので、前園は聡介を尊敬していた。
 ところが伊達聡介という人物は、仕事はできるのだがそれ以外のところでややクセのある男だった。その最たる例が服装だ。彼は最も濃いグレーのスーツしか持っていないらしく、どの季節でも年中ダークスーツを着ている。さすがに気温が上がる夏場はジャケットを脱いでいるが、しかしパンツはきっちりとブラックに近いグレーだ。クールビズが推奨されているので、夏場なら華美でないチノパンやポロシャツなどの着用が可とされるが、「いつもと同じ服装でないと落ち着かない」という理由で、聡介は夏場でもきっちりとワイシャツにネクタイをして、濃くて黒に近いグレーのパンツだ。

 季節を問わずにダークスーツだけを着ているそんな聡介は、主に下の世代から「エージェント」というあだ名で呼ばれている。確かに、服装だけでなくオールバックヘアやスクエア型のリムレスフレーム眼鏡からしても、何か秘密めいた任務に当たっている「エージェント」のような雰囲気がする。一緒に仕事をするようになった前園は聡介の有能さを知っているが、それを踏まえたうえで、エージェントというあだ名はとてもしっくりくると思っていた。
 そのエージェントこと伊達聡介は、どうもここ最近様子がおかしい。正確には、三カ月ほど前から何かがおかしい。まるでネジが一本――いや、二本でも三本でも外れたように調子が狂っており、仕事に影響は出ていないものの、こうして業務時間外に一緒に飲むと、前園が抱いている尊敬の念すらも崩れそうなほどに支離滅裂な言動をするのだ。

「あの、絶対変です」
(変なのは伊達主任です)

 聡介はザルなのでめったに酔うことはない。しかし酔っているのではと疑いたくなるほど彼の表情は普通ではない。エージェントのあだ名にふさわしく真面目で堅物で、高身長なこともあって一見怖い印象を与えるのは普段と何も変わらないのだが、イケナイお薬でもキメたかのように瞳孔が開ききって、まるで獲物を狙う肉食獣のような目付きをしていた。

「そう思いませんか」
「いえ……特には……」
「そうですか」

 聡介が変だと形容しているのは、決算課の隣にあるオペレーション部受注管理課に配属された、新入社員の篠崎まほろという女性社員のことだ。
 聡介も前園も、仕事で直接彼女と関わったことはない。前園はかろうじて彼女の名前と、どことなくウサギみたいだなという印象はわかる。しかし聡介の方はどうやら彼女に並々ならぬ思いを抱いているようで、こうして前園を誘っては時折、ほぼ関わりがないよその部署の新入社員であるまほろについて懇懇と語るのだ。

「皆さん、彼女を見てなんとも思わないんですか」
「そうですね……特に何も」
「なんであんなに小さいんだろうとか」
「そりゃ高身長の伊達主任に比べたら確かに彼女は小柄ですが」
「今日の服装かわいいなとか」
(そんなの毎日比較しませんって)
「いつもと匂いが違うなとか」
(まさか毎日嗅いでるんですか!? いつ嗅いでるんです!? マジでやってるなら立派なセクハラですからやめてくださいね!?)
「一緒に夕飯に行きたいなとか」
(誘えばいいじゃないですか)
「むしろ抱いてみたいなとか」
(いや、あのっ! ほんとやめてください、言い方が直接的すぎます!)
「とりあえず彼女は変です。なんであんなにも気にかかるんですか」
(それは伊達主任だけです。それにそれは……)

 聡介のほとんど独り言のような台詞に、前園は途中から胸の中で返事をした。実際に声に出して返事をしようものなら、ネジの飛んでいる聡介をさらに暴走させてしまうような気がしたからだ。

「君もそう思うでしょ?」
「いえ、俺は……」
「俺? なに、ほかの誰かはそう思うわけ?」
「あ、いや、俺の同期でオペレーション部の田口とか浅川はよく後輩と飯に行ってるので……もしかしたら篠崎さんとも」
「は?」
(やべぇっ)

 眼鏡のレンズをきらりと光らせた聡介の瞳孔がさらに開く。その表情に明らかな殺意が浮かんでいるのを見て、前園はおおいに焦った。
 変なのは新入社員のまほろの方ではない。聡介自身の方である。
 なぜ自覚できていないのかまったくもって理解しがたいのだが、聡介はつまり、今年入社してオペレーション部に配属された篠崎まほろという女性社員のことがとてつもなく好きなのだろう。おまけにその恋情は、一般人の感覚を超えて斜め上方向へロケットのスピードを思わせる勢いで突き進んでいる。そこまで恋い焦がれておきながら自覚もなければ直接本人に伝えにも行かないので、いったいどんな摩訶不思議なストッパーが彼の中にあるのやら。
 そんな聡介に、意中の女性であるまほろがほかの男性社員と食事に行っているかも、などと告げてしまうのは適切な返事ではなかった。狩りの真っ最中で気が立っている肉食獣に、横取りを狙っているハイエナの存在を知らせるようなものだ。

「それは本当ですか」
「いや、詳しくはわからないっす。篠崎さんだけじゃなくてほかの女性社員も一緒にいるかもですし、別にサシ飲みしてるってわけじゃないかと」
「ほかの女性はどうでもいいんですよ。篠崎さんが、不特定多数の男と飯に行っているかどうかが重要なんですよ。どうなんですか」
「いや、だから詳細はわからなくて……それに不特定多数の男ではなくて」
「篠崎さんを誘う奴がいるなんてね……ふーん」
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